イマヌエル・カントは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
『哲学』というハッキリしたカテゴリーを確立させ、その分野で大きく活躍した人です。
『哲学』自体は紀元前600年頃の古代ギリシャから存在していました。
しかし彼の生きた1700年代には、
といった様々な哲学の考え方が乱立していて、
の境界線もハッキリしていませんでした。カントはまずその境界線をハッキリさせ、『哲学』というカテゴリーを確立させます。彼が主張した『アプリオリ』という概念は、『経験よりも先にあるもの』です。例えば、『火は触る前から熱い』ですよね。そこにあるのがアプリオリです。
またカントは『無意識に善い行いをしようとする』人間の理念、理想を『道徳律』と呼びました。この道徳律は、アプリオリ(先天)的に、人間の理性の内に備わっているのだと主張。そしてこの『道徳律』にしたがって自律することで人は真の自由を得られると考えました。カントは道徳を強く重んじ、道徳律にこそ人間の尊厳があると考えたのです。
あらゆる哲学者は『真理(神)』に目を向け、その実態の解明に勤しみました。しかし、人が違うから『それ』に対する解釈も人それぞれです。とりわけカントは、その『解釈』が見事であり、『哲学』を確立させたという意味でも、『ヨーロッパの最も偉大な哲学者の一人』の名にふさわしい人物なのです。
上記の記事の続きだ。『英国経験論の三大哲学者』が登場し、様々な意見を主張した。
英国経験論の三大哲学者
しかし、徹底した懐疑論者だったヒュームが科学の根底にある『因果関係』を否定したことで、のちに、『ヨーロッパの最も偉大な哲学者の一人』と言われる、イマヌエル・カントが立ち上がることになる。
[イマヌエル・カント]
18世紀においてもっとも重要な哲学者であり、現在でも哲学の分野における巨人として評価されてるカントは、人によっては、キリストの代わりに、
孔子、
ブッダ、
と並ぶ四聖の一人だと言う人もいる、偉大な人物である。彼は『近代哲学』の基礎を作った人物で、彼がいなければ哲学の方向は大きくそれてしまっていたと言われているのである。
カントはまず、冒頭の記事までにあったような大陸と英国のバラバラだった哲学を調整した。
大陸(オランダ等) | 合理論、独断論 |
英国 | 経験論、懐疑論 |
そして、
の境界線をハッキリさせた。それまではそれぞれがごっちゃになっていたので、『哲学』というハッキリしたカテゴリーを確立させたのだ。
カントはこう言ったわけだが、『啓蒙主義哲学の完成者』とも言われているのである。
無知な人民を啓発し、自らが合理的に判断するように導くこと。自分で考える主体性を持つように促すこと。
道理や論理にかなっているさま。
彼が主張した『アプリオリ』という概念は、簡単だ。難しく考える必要はない。彼は日本人じゃないんだから、そういう聞きなれない言葉が出てくるだけだ。漠然とした意味は、『経験よりも先にある知識』である。(アプリオリ知識)
冒頭の記事でバークリーは、『あると感じるものだけがある』と解釈したわけだが、そのように、知識というのは経験とともに始まる事実が一つある。例えば火を触る。
熱っっ!!火を触ると熱いのか…。
このようにして、人は経験を通して知識を得るわけだ。だが、『火を触ると熱い』という知識は、その人が火に触る前からそこに存在していた。この時点で、バークリーのような経験論の発想ではたどり着かない事実の話に突入している。
例えば冒頭の記事に書いた『シュレーディンガーの猫』の話を見てみよう。一部をここにも抜粋する。
アインシュタインが、デンマークの物理学者で量子力学を主導したニールス・ボーアに言った有名な言葉がある。
『月は、君が見ていない時には、そこにはないというのか』
アインシュタインは、誰が見ていなくても、月はそこにあると思っていた。
つまりこの例で言うと、バークリー的な考え方で言うと、『月を見た』時点で、その時、月がそこに存在することになり、そして月はその人がそれを見なければ、そこに存在しないことになる。だが、アインシュタインが言ったように、誰が見ていなくても、月はそこにあるわけだ。そう考えると、
知識は経験とともに始まるが、知識(や存在)は経験から生まれるのではない。
という事実が浮かび上がってくることになる。そう考えると、カントの言った『アプリオリ知識』というのは『経験よりも先にある知識』なわけだから、この場合で言うと『火は触る前から熱かった』という事実のことである。
知識は経験から生まれない。例えば人を殴る。しかし、殴った人が、その行為について、
悪いことしたなあ
と思うかどうかは定かではない。事実、私も少年時代にそういう暴力的な知人がいたが、彼は自分の暴力行為に反省をするというよりは、むしろ悦に浸っていた。そう考えるとわかるように、経験というのは、その人に『客観性』や『普遍妥当性』は与えない。
経験する以前にすでに判断できるもの。多くの人がそうだ(妥当だ)と解釈できるもの。
Wikipediaを見てみよう。
カントによれば、時間および空間はアプリオリな概念である。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである。なお、この2つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく、形式的なそれである。感覚的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、実際にはそうではないという比喩をカント自身も援用していることから、ある新しい「構成」のために、それらは純粋直観にあたえられるのである。この空間は、物理空間に先立つ(=アプリオリな)空間である。純粋直観が不可能であればヒューム的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。
例えば、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にある一コマで考えてみよう。
偉大な20世紀の哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、友人の一人にこう尋ねたことがあった。
友人はこう答えた。
ウィトゲンシュタインは反論した。
『感覚的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、実際にはそうではない』という比喩をカント自身も使った。アインシュタインやカントは、『人の経験とは別次元のところに、真実が存在している』という解釈をしたのである。
月を見ない | でも月は存在している |
太陽が地球を回っていると感じる | でも実際には逆である |
火を触ると熱い | でも触る前から熱い |
このあたりの事実を『アプリオリ』という言葉と概念を用いながら説明し、因果性を認めることで自然科学の認識に根拠と正当性を与え、ヒュームが崩しかけた啓蒙主義の思想を守ったのである。
またカントは、
の3つの概念を使って考えた。
論理的な思考を行う能力・知力を指していう語のこと。
悟性によって現象が整理され、思考が加えられて、判断が下されるわけである。だが、
といったような概念は、悟性であっても理解が苦しい。そこで『理性』が用いられるわけだ。これであれば、感性や悟性で認識・判断できないものも判断することができる。しかしそう考えたのはいいが、前述したようなものは結局はこの『理性』であってもその実態を判断できない。では一体どうすればいいか。理想や理念といったものが何であるかということも、理性ではうまく判断できない。
しかし、よく考えるとその『理性でも実体がわからない理想や理念』といったものに衝き動かされ、人は生きている。人は、その『信念』にも似た自分の頭にある思想を軸にして生きていて、それは人生を支配しているともいえる。
例えば、『アラジン』で考えてみよう。実写版でもアニメ版でも、この映画の冒頭にはあるシーンがある。
主人公のアラジンが、生きるために盗みを働き、商人から逃げることに成功する。しかし、その盗んだ食べ物を食べようとしたそのとき、目の前には植えた子供の姿があった。それを見たアラジンは一瞬迷ったが、子供にその食べ物をあげたのである。
では一体なぜアラジンはそういう行動に出たのか。カントは人間をそうした行動に駆り立てる理念、理想を『道徳律』と呼んだ。この道徳律は、アプリオリ(先天)的に、人間の理性の内に備わっているのだと主張したのだ。
カントが主張した人間の最小限の義務
こうした義務を自ら発見し、誠実にそれを履行するとき、初めて人は自らを治める理性の自律と真の自由を得られるということなのだ。アプリオリ(先天)的に、人間の理性の内に備わっている『道徳律』にしたがって、自律し、真の自由を得る。カントは道徳を強く重んじ、道徳律にこそ人間の尊厳があると考えたのだ。
この言葉からもカントがいかに道徳を大事にしていたかが垣間見えるのである。『アラジン』の話で感動できるのは、彼が道徳律を重んじることができる、勇気ある人物だったからだ。そこには人間の尊厳があり、だからこそ人の見る目を奪い、心が温まるのである。真理に近づくと人の心は充足するのである。
どちらにせよここに登場した哲学者たちみんなが、『真理(神)』に目を向け、その実態の解明に勤しんだ。だが、人が違うから『それ』に対する解釈も人それぞれだった。そういうことなのである。そしてとりわけカントは、その『解釈』が見事だったということだ。
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