ハニワくん
先生
ニーチェは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
『唯一無二の命を主体的に、悔いなく生きよう』と主張した人です。
ハニワくん
博士
ニーチェは人が何かに頼り『主体性』を失って弱体化することを危惧しました。
特に彼が意識したのはキリスト教です。彼もかつてはクリスチャンでしたが、それは家庭と環境の影響です。そのうちキリスト教にある『ある種の腐敗』に気付きました。まず一つが、そもそもこの『キリスト教』というものができた理由です。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマン(弱者の強者への嫉み)たる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになりキリスト教が生まれた。しかし自分以外の人間を『主』にするということは、つまり『主体性』を失うことを意味し、だからこそ人は弱体化してしまったのだと考えました。そして、たった一度の自分の人生を真正面から受け入れ、もっと有意義に、自由に、悔いなく生きようと主張したのです。
博士
ハニワくん
先生
ニーチェ
上記の記事の続きだ。そんなキルケゴールが生まれてから30年後、ドイツにニーチェという人間が生まれることになる。
[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ]
各人の誕生年
マルクス | 1818年 |
ヘーゲル | 1770年 |
ショーペン・ハウエル | 1788年 |
キルケゴール | 1813年 |
ニーチェ | 1844年 |
彼については上記の記事でまとめているのでそちらと併せて考えてもらうことになるが、例えばニーチェの『神は死んだ』という発言に対しては、参考書でも様々な意見に分かれている。
ルサンチマン
ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆いた。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。このあたりの人の心の動きを押さえることで、この世界にどのようにして宗教が生まれ、そしてそれが根深く蔓延していったのかということが見えてくるようになる。
支配する者 | 来世もまた権力を維持したいと願う |
支配される者 | 来世は今よりも良い境遇であるように願う |
つまり、『キリスト教=奴隷の宗教』と解釈し、
ニーチェ
と主張したのだ。確かに、『自分以外の人間を『主』にするということは、つまり『主体性』を失うこと』を意味する。だからこそ人は弱体化してしまったのだと。ニーチェはそう考えたわけだ。
ニーチェはこうも言っている。
イエスを『主』と崇めることで主体性を失うことは、目の前で両親というクリスチャンを見続けてきた私がよく理解するところである。メリットは心が崩れないことだが、デメリットは主体性の欠如だ。
『神は死んだ』
だが、『神は死んだ』の発言と、『ニヒリズム(真理はなく、虚無だけがある)』という考え方を聞くと、ニーチェがただただ暗い人のように見える。実際彼は、晩年の10年間、精神病で苦しみ、誰にも看取られることなく、一人でこの世を去った。彼は結婚しない理由について聞かれると、
ニーチェ
と答えたという。確かにとても偏屈で暗く、絶望的な負の一面を垣間見ることができる。だが同時に、『そう簡単にニーチェが考えていることを理解できる人間はいない』という事実も同時に浮き彫りになってくる。それは、彼の評価が賛否両論に真っ二つに分かれていることがそれを証明している。
ニーチェは『ニヒリズム(虚無主義)』だと言われていて暗いイメージを連想させてしまいがちだが、実際はそうではない。
『一度、キリスト教も含めた今まで作られたあらゆる概念を破壊し、ゼロ(無)にするのだ。そして、ゼロから新しく創造し直すべきだ。』
というニーチェの『唯一無二の命の尊さ』への考え方を現した表現なのである。ニーチェは、
『世界には君以外には歩むことのできない唯一の道がある。』
と言い、
『しかしその道がどこに行くのかを問うてはならない。ひたすら歩め。』
とも言っているが、 このようにして『唯一無二の命の尊さ』を強く主張した。この事実から考えればわかるように、彼はブッダの言う、
『天上天下唯我独尊』
の言葉の意味を理解していることになる。この言葉の真の意味は、『私以上に偉い人間はこの世に存在しない』という、釈迦の思いあがった軽率な発言ではない。
『この世に自分という存在は、たった一人しかいない。唯一無二の人生を、悔いなく生きるべし』
という意味なのだ。このような事実を理解している人間が、『未来に対して暗く、絶望的な人』であるわけがない。彼が『神は死んだ』と言い、『=虚無があるだけ』と言ったのは先ほども言ったように、奴隷と主人の人間関係が当たり前だったときの『呪縛』から、いい加減解放されるべきだと言いたかったのである。
永劫回帰
それは、彼が想定した、『永劫回帰』という考え方を見てもわかることである。ニーチェは、
ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒
[永劫回帰]
というループを無限に繰り返す考え方を提言する。もし、前世や来世等の発想があると、人はどうしてもその『もう一つの可能性』に未来を託し、あるいは希望を抱いてしまう。それが結果として現実逃避を生み出し、『今この瞬間』の否定につながる。
きっと来世ではもっとやれるはずだ!
しかし、もし永劫回帰という考え方があれば、今この瞬間、あるがままを受け入れるしかない。今この瞬間の、この自分以外にはあり得ない。『もう一つの可能性』などない。
だとしたら、今この瞬間、これが自分の人生なんだ!
と現実を直視し、今を全力で生きるようになる。ニーチェはそのようにして、その永劫回帰であったとしても、その事実を憂うのではなく前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間を意味する、『超人』であれと説いた。ニーチェが『この世に神は存在せず、人間だけが存在しているのだ』ということを強く主張したのは、こういう背景があるからなのだ。
富士写真フイルム社長、古森重隆は『PRESIDENT』にて、
『結局、彼の言わんとすることは、人間というのは本来、個々に強く、賢く正しく、気高く、自由に生きるべき存在なんだ、と。羊みたいに群れるんじゃない。あるいは宗教を信じて『神のしもべであります』なんて生きるんじゃない。あなたはしもべじゃないと言っているんです。『どうしてもっと自由に生きないんだ』と。もちろん、自分勝手にやれということではなく、正しくなければいけません。』
とニーチェの教えの根幹にあるものを語っている。
永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できる。下記の記事でヘーゲル(弁証法を唱えた人)とニーチェの対立点について書いたが、やはりニーチェはヘーゲルの考え方も覆そうとしていたようである。
マルクスに影響を与えたヘーゲルを批判したショーペン・ハウエル
半可通
また、彼の言葉にこういうものがある。
つまりこういうことだ。
人間が創り出している『記号、論理』といったものは、『取り急ぎの解釈』に過ぎないということ。
『半可通』というのは『わかったふりをしている人』のことだが、実際にはもっと複雑で実態を正確に説明できないはずなのに、半可通はそれを、
俺は分かっている
と思い込んでいる。だからベラベラとそれっぽい記号(言葉等)を並べて論理を展開するわけだが、実際には彼は単なる半可通である。しかし、世の人々というものは大体が半可通であり、半可通同士というものは、『それっぽい話』をやり取りしていれば、それで会話が成立するものだ。例えば、天動説について考えてみよう。
地球の周りを太陽が回っているという考え。
太陽の周りを地球が回っているという考え。
ガリレオとコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。
[画像]
しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、
[画像]
更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかった。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』。つまり、この時代の人々は、
などと言って、完全に間違った話をしていたわけである。つまり、半可通同士の会話だ。分かっていないのに、分かったようなふりをして話を進めていた。そしてニーチェは、『実際の現実というものは、そう簡単に人間が解釈できるようなものではない』と言ったわけだ。
この時点で、ニーチェの方が『盲信』してしまっていた人々よりも、一枚上手である。
ラッセルはこう言い、
手塚治虫はこう言った。
彼らもまた、ニーチェと同じような見識を持った人間だったのである。つまり、このような事実を知っていたニーチェは、そりゃあ、
ニーチェ
と言うだろう。それはニーチェが『半可通じゃない』からだ。彼は素直に、
ニーチェ
と考えたということなのである。アインシュタインは言った。
そういうことなのである。
もちろん、キリスト教だただひたすらこの世界を支配していた時代があって、それに対するアンチテーゼだということもあるだろう。そうやって人間を完全に支配していた『神』という存在は『いない』という主張は、『神は死んだ』という意味にもなるし、『ニヒリズム(神も真理もなくあるのは虚無だけ)』ということの意味にもなる。
ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張。
キリスト教が支配した中世の1000年間では哲学はほとんど発展しなかった
だが実際には彼は『絶望的な人』というよりは、『唯一無二の人間の命の価値を尊重した人』という見方をするのが、実態に近いと言えるだろう。私とニーチェの考え方が似ているのは、
- 幼少期に親の影響でクリスチャンだった
- しかし自分の意志でその『呪縛』から解放された
という共通点があるからだろう。そして『天上天下唯我独尊』の思想にたどり着いた。私もニーチェも、ブッダの思想を尊敬したわけではなく、自然にたどり着いたのだ。つまり、ブッダとたどり着いたところが同じだったのである。それは、長い間『神』を信じていて、その後、その呪縛から解放されたとき、
これからは何を信じて、何を軸にして生きていけばいいか
ということを考えたことがある人なら、至極当然の発想なのである。私は以下のような記事を出しているが、それも私が『半可通』だからであり、厳密に言うなら『神(真理・愛)』の実体が何であるかをよくわかっていないのである。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
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参考文献