バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』にはこうある。
人類がこの惑星地球に乗り組んで過ごした無数の夜のうち、その四分の三は月が我々にもっとも親しい空の仲間であった。何百万年もの間、人間は誰も実際に月へ着陸することなどありえないと考えてきた。それを自明だと考えなかった人たちは、『狂人(ルナティック)』と見なされた。世界の人間と経済を支配するのは誰かを見極める闘争の渦中で、共産主義ソ連と資本主義アメリカが第二次世界大戦から学んだことは、より高く飛行できる方が敵の行動を監視する優位を得て、兵器の力を制御して、ついには世界の軍事的覇権を勝ち取れるということである第三次世界大戦すなわち『冷戦』においては、ドイツのロケット工学に刺激された米・ソは地球外宇宙空間に砲台をもっとも多く保持する者が、全地球上の軍事力を制御できると考えていた。月は、まさに『永遠の』空の優位性をもたらす星だったのである。
月面着陸するにあたってアメリカとロシアが躍起になって競い合っている背景にこういう理由があったとは。映画『ファースト・マン』ではこのことについて一言も触れていない。これを踏まえた上であの映画を観るとさらに奥行は深くなり、同時に、やりきれない思いがこみ上げてくるだろう。まだ映画を観ていない人でネタバレが嫌な人はこれ以上記事を見ない方が良い。
何故やりきれない思いがこみ上げてくるか。それは、命が失われたからである。映画を観た人全員が知っていることだ。アームストロング船長の友人の命が失われた。彼にとって大切な人の命が失われるということがどれだけ辛いか。それも映画を観た人全員が知っていることだ。
アームストロング船長がホワイトハウスに呼ばれたとき、政治家たちと意見が全く合っていなかった。まるで、彼らが『別々の世界』で生きているとでもいうかのような気配がそこに漂っていた。いつの世もこの世には『駒』がいて、『それを動かすプレイヤー』がいるということだというのだろうか。この映画とそしてその内容を見て私は、ベンジャミン・ディズレーリのこの言葉を思い出した。
参考文献