いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『功利主義』という効用と利益を最も重視する考え方を主張した人です。
2.ベンサムのその哲学を完成させた人です。
『全体の幸福のために何人かの幸福を制限する』のが功利主義の基本です。
これは全体的に考えるととても合理的な考え方です。例えばサッカーやなんかのスポーツで、『よく得点を決める子』と『全く活躍しない子』がいた場合、多くの監督は全者をスタメンに入れて試合に出し、得点を決めやすいポジションに決めます。そして後者は最悪試合には出られません。そういう時に考えられているのもこの『功利主義』です。その采配によって結果的に試合で得点を決め、試合に勝てば、『試合に勝つ』というスポーツの世界において成り立つことになります。もちろん、『活躍しない子を切る』という部分に問題点がありますが、一つ、このような考え方があるということですね。
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上記の記事の続きだ。上記の記事までに様々な『半啓蒙主義の哲学者』について考えたが、同じころオーストリアの首都ウィーンに哲学者が集まり、『ウィーン学派』というものを作っていた。彼は実用的なものを重視し、形而上的なものを軽視した。プラトンのような抽象的な考え方から脱しようと試みていたのだ。
それはイギリスも同じだった。オックスフォードとケンブリッジを合わせた、いわゆる『オックスブリッジ学派』が作られた。だがそれはウィーン学派のような正式な学派ではなかったが、どちらにせよ彼らもプラトン哲学を脱するために、現実的で実用的な面に焦点を合わせて考えた。1800年頃。時代がそういう流れにあった。
この頃のイギリスは、資本主義が最も早く勃興した背景もあって、『功利主義』という効用と利益を最も重視する考え方が発達していた。功利主義は、ジェレミー・ベンサムが主張し、ジョン・スチュアート・ミルによって完成された。
[ジョン・スチュアート・ミル]
功利主義のキーワードはこうだ。
この結果を『最大多数の最大幸福』と言う。つまり、『法による人工的な采配で、みんなが平等に幸福になる』というわけだ。だがここには問題がある。例えば、100億円の軍資金がある。それを、功利主義的に、『最大多数の最大幸福』を軸にして考えて、1万人いる社員全員に投資するとする。
吉本興業で考えてみよう。芸人が1万人いるとする。しかし、トップは数えるほどしかいない。『ショートヘッド』と『ロングテール』である。
(縦:売り上げ 横:芸人)
一番左にいるわずかな人たちだけで、吉本興業の売り上げのほとんどを上げているのがわかる。そして、『その他大勢の芸人』たちが、細々とした売り上げを上げている。この一番左の僅かな人たちが『ショートヘッド(頭の短い部分)』であり、それ以降の右にズラーっと並んでいる人たちが『ロングテール(長いしっぽ)』である。
吉本興業におけるショートヘッドとロングテール
ショートヘッド | 明石家さんま、ダウンタウン他 |
ロングテール | 売れない芸人たち |
確かに、ロングテールをかき集めて縦にすれば、明石家さんまとダウンタウンの売り上げに並ぶことになる。だが、吉本興業の場合はそうとも言えないだろう。Amazonなんかの商品で考えるとこのロングテールも武器になるが、吉本の売れない芸人たちの売り上げを1万人分集めても、彼らに匹敵する売り上げを上げることはできないかもしれない。
だが、給料は違う。1万人×5万円だったとした場合、それだけでもう『5億円』だ。吉本は売り上げと芸人の数の調整が合っていないので、ロングテールになればなるほど、給料は低いか、あるいは出ないことも覚悟しなければならない。
そう考えたとき、吉本にある軍資金はどこに使うべきか。単純に考えると、『全員』となる。しかし、明石家さんまやダウンタウンの番組に経費をかけたほうが、よほど費用対効果(コストパフォーマンス)が高いわけだ。
実は『最大多数の最大幸福』というのは『最大の幸福を作り出す』のが目的なので、このような事実がある以上、ショートヘッドに投資をしたほうがいい、という結論が出てしまうことになるのだ。『全体の幸福のために何人かの幸福を制限する』という考え方の正当化に繋がるわけである。
『パレートの法則』で考えてみよう。
世の中の大体のことが8:2(7:3とか)に分かれている、という法則。
パレートの法則の例
同じことである。この『売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出している』事実を考えたとき、『2割側(ショートヘッド)』に投資をした方が、費用対効果を得られるという事実から、功利主義的な考え方をすると、
まあ、『最大の幸福』を得るためには、何人かの幸福が犠牲になるのは仕方ないよな
ということになってしまうわけである。確かに、このような考え方が通用するシーンはあるだろう。私もビジネスをやる人間として、その通りだと考えられるところがある。だが、あくまでも『シーンがある』だけで、人生で起こりうるすべての問題に対してこの考え方を当てはめるのは、いささか首をかしげざるを得ないことになる。
マイケル・サンデルの著書、『これからの「正義」の話をしよう』にはこうある。
『最大幸福原理』ー功利主義
『これからの「正義」の話をしよう(P44)』
1884年の夏、4人のイギリス人の船乗りが、陸から1000マイル(約1800キロメートル)あまりも離れた南大西洋の沖合を、小さな救命ボートで漂流していた。乗っていたミニュネット号が、嵐の中で沈没し、4人は救命ボートで脱出したのだった。持っている食料はカブの缶詰二個だけで、飲み水はなかった。トーマス・ダドリー船長、エドウィン・スティーブンズ一等航海士、甲板員のエドムンド・ブルックー『みんな優れた人格の持ち主』だと新聞は書いている。
4人目の乗組員は雑用係のリチャード・パーカーで、17歳だった。パーカーは孤児で、長期の航海は初めてだった。友人たちの忠告に逆らい、『若者らしい大志を抱いて』契約にサインしたのは、この度が自分を一人前の男にしてくれると思っていたからだ。しかし残念ながらそうはならなかった。
途方に暮れた4人は、船が通りかかり、自分たちを救出してくれることを念じながら、救命ボートから水平線のかなたを見つめていた。最初の三日間は、カブを分けあって食べた。4日目にウミガメを一匹捕まえた。その後の数日間は、ウミガメと残りのカブで飢えをしのいだ。それから8日間は、食べるものは何もなかった。
そのころには、雑用係のパーカーは救命ボートの隅で横になっていた。パーカーはほかの者の忠告にもかかわらず海水を飲み、体調を崩していた。死にかけているように見えた。厳しい試練の日々が19日目を迎えた時、船長はくじ引きで、誰か死ぬべき者を決めようと提案した。そうすれば、ほかの者は生き延びられるかもしれない。だが、ブルックが反対し、くじ引きは行われなかった。
翌日になった。尚も船の姿は見えなかった。ダドリー船長はブルックに目を逸らしているように言い、スティーブンズにパーカーが死ぬべきだと身振りで合図した。ダドリーは祈りを捧げ、パーカーに最後の時が来たと告げると、折り畳みナイフで頸動脈を刺して殺した。良心からパーカー殺害に加担することを拒否していたブルックも、おぞましい恵みの分け前にあずらった。三人の男たちは、4日間、雑用係の少年の肉と血で命を繋いだ。
(中略)三人の生存者は救助された。イギリスに戻ると三人はただちに逮捕され起訴された。 ブルックは検察側証人になった。ダドリーとスティーブンズは裁判にかけられた。二人はパーカーを殺し、食べたと臆することなく証言した。自分たちはやむにやまれずそうしたというのだ。
4人のイギリス人の船乗りのうち3人が生き延びれた理由は、パーカーという仲間を殺して食べたからだ。もちろん、そういう究極的な場面でもあった。パーカーが海水を飲み、体調を崩していて、死にかけているようにも見えた。だから、生き延びるために彼を殺して食べるしかなかったのだ。『全体の幸福のために何人かの幸福を制限する』、『最大多数の最大幸福』、つまり功利主義的に考えたのである。
だがこの話には、例えばこういう問題が存在する。
彼ら3人の行動が正当化されてしまって、本当にいいのか。正義、道徳、倫理、このような問題を考えさせられるシーンが、功利主義を遂行した延長線上に存在するのである。
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