フロイトは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
『無意識の世界』があるということを主張し、『リビドー(性衝動)』を軸にして色々と主張した人です。
フロイトが『無意識の世界がある』と言ったことは大きなことでした。
例えば、『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』とわかったのは1800年くらいからです。それを主張したPh.ピネルやこのフロイトのような精神分析学者たちの存在によって、精神病者は『悪魔に憑りつかれた人』でも『罪人』でもなく、治療で治すべき人だということがわかったのです。彼らの無意識の世界にある何らかの問題を解決することで、人の精神病は治るのだと主張しました。
彼が言う『リビドー』というのは『性衝動』のことですが、フロイトはこのように人間の深層心理には自分の理性でどうにもできない『潜在意識』というものがあると主張したのです。フロイトは、人々が皆そうした『意識』を上手くコントロールすることができるようになれば世界の秩序は保たれると考えました。少なくとも、その潜在意識を理解することが大事だということですね。
上記の記事の続きだ。このウィトゲンシュタインが生まれる前、彼と同じオーストリアにある精神科医であり、哲学者が生まれた。ジークムント・フロイトである。
[ジークムント・フロイト]
各人の誕生年
ジョン・デューイ | 1859年 |
フッサール | 1859年 |
フロイト | 1856年 |
ラッセル | 1872年 |
ウィトゲンシュタイン | 1889年 |
彼の言葉にこういうものがあるが、
この言葉から垣間見えるように、彼が主張したのは、『人には自分の意識とは別のもう一人の自分がいる』という考え方である。
フロイトの主張で有名なのは『リビドー』だ。これは『性衝動』という意味である。
口唇期 | 唇と口にリビドーが集中し、生後1年まで母の乳を吸うのに快感を抱く |
肛門器 | 1~3歳頃、大小便を排泄するのに快感を抱く |
男根期 | 自分の性器を触るのに快感を抱く |
思春期 | 12~14歳、他人への性的欲求と愛情を抱く |
各時期に欲求不満がたまったり精神的なショックを受けると、リビドーの『固着』が起こったり、成人となった後も障害を起こし、退行現象などの特有の症状が現れるという。
また、
という意識の構造を説明した。
エスは英語、イドはラテン語。
超自我 | 理性を超えた理性 |
自我 | 理性 |
エス | 欲望 |
簡単に言うと、『エス』は子供を支配している意識、『自我』は理性を持とうとしている人の意識、『超自我』は理性を完全に自分のものにしている意識、というようなイメージである。人格者は超自我を持っているというわけだ。理性を超えた使命を知っている人、とも言えるわけである。
それぞれのイメージ
エス | わがままな末っ子 |
自我 | しっかり者の長男・長女 |
超自我 | 厳格な父親、使命を背負った裁判官 |
これは、キルケゴールの記事を見て考えると分かりやすくなる。
キルケゴールの言う美的実存がなぜ地下なのかというと、これは『マズローの5段階欲求』を考えるとわかりやすい。『マズローの5段階欲求』とは、人間の欲求を5段階に分けて示したものである。その人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りである。
出典:『マズローの欲求5段階説』
まず一番下に『生理的欲求』があることがわかるわけだが、まず、人間も含めたあらゆる生命は、自分の命を守るために、そのエネルギー源を確保したり、睡眠を取ったり、排せつ物を処理したりする必要がある。キルケゴールの言う『美的実存』というのは、この最下部の位置にある『生理的欲求』を満たす行為そのものである。このような欲求の『度が過ぎた行為(例えば父親がした不倫行為)』は確かに刹那的にはいいが、すぐに虚無や絶望が襲い掛かり、やがて、
このままではいけない…
と思うようになる。そして次の段階へと進むべきだと考えるわけだ。そして、『倫理的実存』を目指して、道徳的になり、自己中心的な自分を脱しようとする。美的実存では外の世界とのかかわりで成り立っていたが、倫理的実存では、自分の心の内側と向き合うことになる。こう考えたとき、
マズロー | 生理的欲求 |
キルケゴール | 美的実存 |
フロイト | エス |
彼らが主張したこれらの概念は、ほぼ同じ位置にあることがわかる。キルケゴールの場合は、その後『倫理的実存』を得て、やがて人間は完全に倫理的にはなれない矛盾にたどり着くことになるので、最終的には『宗教的実存』を得て、宗教の力を頼ることが大事だと主張した。
この説明に、キルケゴールは旧約聖書のアブラハムとイサクの話を引き合いに出している。
信仰のために愛する息子を殺害しようとするアブラハムだが、キルケゴールはそこに『宗教的実存』があると考えたのである。倫理的に考えたらそれは決して許される行為ではない。だが『倫理的実存』ではなく、『宗教的実存』だったら違う。自分の判断ではなく、神に判断を預けるというのである。キルケゴールは、倫理的な合理性を捨て去り、不条理を受け入れたときだけが『神』の前に立つことができるという、徹底したクリスチャンだったのである。
だがフロイトは違った。キルケゴールの言うように『とても強い意志を持てるようになる』と言い、それを『超自我』と呼んだわけだが、そこに宗教の力が必ずしも必要なわけではないと言った。イメージはこうだ。
このような考え方をしたとき、ここには別に宗教の力は必要ない。両親を見て、愛して、憎んで、そこに『近親相姦』のようなものがあってはならなくて、という考え方の流れは、宗教を全く必要とせず、無宗教の家庭でも行われていることだ。
また、海外の人と違って日本人には『マザコン』という言葉があり、母親のことを外国人ほど近い存在として見ない。『ママ』と言おうものならもうマザコン決定となる。このような文化や価値観の違いも考えたとき、日本人からするとこのエディプスコンプレックスというのは腑に落ちないところがある。
だが、深い根底の部分、あるいはその『マザコン』という言葉の意味を知る前の時期であれば、こういう意識の変化が行われているとも言えるわけである。どちらにせよ言えるのは、キルケゴールの言うように『宗教的実存』は『超自我』を得るためには必ずしも必要ないということだ。
フロイトは、『無意識の世界』があるということを主張し、その影響は大きかった。例えば、古代ギリシャでは精神病は体の病気とされていた。たとえば、ヒステリーは子宮の病気とされていた。そして中世ヨーロッパでは、精神病者は『神により罰を与えられた罪人』とされていた。しかし、1793年に、Ph.ピネルによって『精神病者は罪人ではなく、治療を受けるべき病人』だとわかった。
精神病者に対する見解
古代ギリシャ | 体の病気 |
中世ヨーロッパ | 神により罰を与えられた罪人 |
1793年 | 罪人ではなく、治療を受けるべき病人 |
『図解雑学 こころの病と精神医学』にはこうある。
鉄鎖からの解放
『近代精神医学の父』とされるPh.ピネルは、18世紀末のフランス革命の最中にパリのビセートル病院などにおいて、非人道的な精神病患者の処遇を改善し、『鉄鎖からの解放』を試みた。また、彼は世界最初の近代精神医学の教科書『精神病に関する医学=哲学論』を著し、『精神病者は刑罰を科せられるような罪人では決してなく、苦しむ人に払われるべきあらゆる配慮を、その苦痛からして、当然受けてしかるべき病人なのである』と主張し、これを実践した。
といった精神医学者たちが、間違って蔓延していた精神病患者への対応を覆したのである。
『超自我』と聞くと、私は17歳の頃にやった恩師との日記的なやり取りを思い出す。その日私は何かに葛藤していて、それを日記に書いたのだが、恩師からのコメントはたった一言、
だった。私はその言葉の意味も、辞書を引く習慣もなかったので、
なんか、わがままっていう意味かな?超わがままだな、お前は、って言いたいのかな
と考えてしまった。しかし後でその言葉の意味を知ると、恩師が、『そのような問題について積極的かつ主体的に悩んでいるということは、お前に超自我が芽生え始めている証拠だ』と言葉少なに応援してくれたのである。恩師は他にも、
と書いたときもあるが、いやはや、常に無知の知を忘れないようにしたいものである。そうやって少しずつ誤謬を排除していき、真実に近づいていくのだ。とにかくフロイトは、人々が皆この『超自我』を持てるようになれば世界の秩序は保たれると考えた。これは、
と同じ考え方である。もっともそれぞれの意見や主張は微妙に違うが、間違いなく共通して我々が見ているのは『世界平和』なのだ。
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参考文献