いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
二人とも『ポスト・モダニズム』の時代として過去の哲学を否定した人です。
『ポスト・モダニズム』の記事と合わせて読むと理解が早くなります。
まず時代的に戦争等が起こって多くの人々の思想に大きな影響を与えました。そこで、その記事で書いた人、あるいは今回出てくるフーコーやデリダといった人物たちが中心となり、『新しい哲学(現代哲学)』を考えるようになりました。
フーコーは、『逆らうと処刑する!』と言われていた近代までの時代と比べ、自由になったのはいいが、今度は『この常識に従わないと生き残れないぞ!』という脅しを受け、『規格化された人々』が増えてしまったことを懸念しました。つまり、主体性がなくなってしまったと言ったのです。デリダは昔の哲学が『上下関係がある』と言って、そこに当然のようにあった『差別』の感覚が古いと指摘しました。
このようにしてポスト・モダニズムの哲学は行われたわけですが、『現代哲学』は『過去の否定』だけして、『未来をどうするべきか』と主張していません。哲学はまだまだ発展途上にあるのです。
上記の記事の続きだ。戦争という人類史上最大の失態と新しい局面を通し、人間の思考も大きく変化した。そして、マルクーゼやリオタールといった哲学者が、人間の主体性と可能性の埋没について警鐘を鳴らした。そして、フランスの哲学者ミシェル・フーコーも同じようなことを考えた。
[ミシェル・フーコー]
各人の誕生年
マルクーゼ | 1898年 |
サルトル | 1905年 |
レヴィ・ストロース | 1908年 |
リオタール | 1924年 |
フーコー | 1926年 |
近代の人間には一見して『主体性』があるが、実際には今まで出てきた考えと同じで、そうではないと。近代以前の権力者は、
として『死の恐怖』で人を操ったが、近代は、
という昔とは違った角度で、人を操るようになった。つまり『生の恐怖』を煽るようになったのだ。これをフーコーは、功利主義の哲学者ジェレミー・ベンサムが好感した『一望監視施設(監獄)』を引き合いに出した。まず、普通の刑務所はこういう感じである。
この場合、看守が一つ一つの房を見て回らなければならない特徴がある。だが、『一望監視施設』ではこうなる。大きな画像は出典元を見てもらいたい。
参考
森友質疑、首相からの電話 「国会の爆弾男」も質問封印朝日新聞デジタル
『監視者の姿は見えないが、囚人は監視者不在時でも監視を意識する』とある。囚人は常に、監視者に見張られているプレッシャーとストレスを強いられることになるわけだ。たとえ監視者が寝ていたとしても、囚人にはそれが見えないのだ。フーコーはこの例を持ち出し、近代社会がこの一望監視施設のような状態になっていると指摘する。これが『生の恐怖』が煽られていると言った理由なのである。
どこにいても人々は『規格化』されることになる。
するとどういう人間が生まれるようになるか。例えば以下の記事に書いたような『東大生』のような人々である。東大生ならまだいいが、多くの場合はそうではない。つまりそこにいるのは『規格化された人々』であり、それは=主体性のない人々なのである。
こう考えると今も昔も人間などそうたいして変わっていないように見えるが、このように、主体性のない人々に対して警鐘を鳴らし、人類の潜在能力の埋没に首をかしげるようになったのは、一つの進化と言えるだろう。
この動画が表すように、現在でもまだ名残は消えていないが、人間同士の不要な格差や身分差別をなくし、多様性と個々の主体性を尊重する流れがあるのは間違いない。
例えば、ジャック・デリダはオリエンタリズムを批判した。
各人の誕生年
マルクーゼ | 1898年 |
サルトル | 1905年 |
レヴィ・ストロース | 1908年 |
リオタール | 1924年 |
フーコー | 1926年 |
デリダ | 1930年 |
白人の傲慢がそこに存在したのだ。デリダは、啓蒙主義以降の西洋合理主義を批判した。彼の哲学を『解体主義(脱構築)』と呼んだ。
世界を西洋と東洋に分けて考える考え方。トルコから日本を含めた東洋(オリエント)を馬鹿にし、ヨーロッパを世界の中心と考える傲慢。
[ウジェーヌ・ドラクロワの「アルジェの女達」。退廃的で官能的でもある、この作品は西ヨーロッパ人の持った東方世界のイメージの現れ]
西洋の哲学は『始源論』であると。始源論とは、
と以前の哲学者たちが『求めたもの』、『見た方向にあったもの』は虚構に過ぎないという考え方だ。確かにそれらの存在を証明することはできない。デリダは西洋哲学が、『無知と傲慢の上に成り立つ哲学』だと批判した。まずこれらの存在は対立していて、それは左右ではなく『上下』である。
例えばプラトンの『イデア』は、個体よりも上の位置にある。つまり、上司というか、上の存在というか、上位にあるわけだ。このように、『上下関係』が当然として考えてしまうのは、当時から人間社会が『男性社会』だったことが原因だと主張する。
しかし、下位にある人間が、上位にある『それら』を規定することはできるのか。そういう疑問が浮かびあがるわけだ。つまり、このような考え方は結局『無知と傲慢の上に成り立つ哲学』なのである。
例えば『地球平面説』が常識だった時期で考えてみよう。ソクラテス以前の哲学者はほとんどが地球平面説を維持していた。紀元前330年頃にアリストテレスが経験的見地から地球球体説を採用し、それ以降ヘレニズム時代以降まで地球球体説が徐々に広がり始めた。しかし、アレクサンダー大王は紀元前300年代、チンギス・ハーンは1200年代の人間であり、チンギス・ハーンともなるともうアリストテレスのそれから1000年以上経つのにまだ、
地球は平面である
と考えていたのである。
このような考え方から『天国と地獄』の発想が生まれ、あるいは『天動説』が常識だった。
地球の周りを太陽が回っているという考え。
太陽の周りを地球が回っているという考え。
ガリレオとコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だったのである。
[画像]
『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
偉大な20世紀の哲学者、ウィトゲンシュタインは、友人の一人にこう尋ねたことがあった。
友人はこう答えた。
ウィトゲンシュタインは反論した。
多くの人はウィトゲンシュタインのような冷静な発想はできなかった。それは、『人間がこの世の中心』だからだ。このような考え方が蔓延している時に生まれるものとはまさしく、『無知と傲慢の上に成り立つ哲学』なのである。
人間を中心『としない』考え方とは、例えばこういうものだ。
間違った基礎・土台の上に立てる城は、いくら表層が立派でも『砂上の楼閣』なのである。
砂の上に建てるお城のように、もろくて崩れやすいもの。
デリダのこうしたオリエンタリズムの批判は、時代の流れ上必然的のようにも見える。女性が強いられ、黒人が差別され、そんなことが当たり前だった時代から進化しようとしている動きが垣間見えるからだ。
このように時代は『ポスト・モダニズム』にあり、過去の哲学は否定された。では、どうすればいいのだろうか。この記事に出た哲学者たちの意見を見てみれば分かるように、実は彼らは『過去の否定』だけして、『未来をどうするべきか』と主張していない。哲学は完全に終わってしまったのだろうか。過去の哲学を『無知と傲慢の上に成り立つ哲学』と言うのなら、もはや今まで考えて哲学そのものが無意味だったということにも聞こえなくもない。
では一体哲学はどうなってしまうのだろうか。いよいよ次で、『哲学編』が終わることになる。
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参考文献