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始皇帝は偉大だったが、『夏、殷、周』の王同様、黄金律には逆らえなかった

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

秦の始皇帝の時代はどれくらい続いたの?わかりやすく簡潔に教えて!

15年です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

せっかく統一された中国がわずか15年で崩壊したのには理由があります。

秦は、『儒教』の教えが気に食わず、『法律』のみで国を支配しようとします。そのほかにも『外部』から力づくで統治する姿勢が貫かれます。こうしたある種の『恐怖政治』が裏目に出て、民衆の反感を買ってしまい、その後、『万里の長城』の警備をさせられた農民の反乱である『陳勝・呉広の乱』という大反乱につながってしまいます。(人の)内部をおろそかにし、外部(法律、恐怖等)だけで国を力づくで統治しようとした結果、無理が生じて潰れてしまったわけですね。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

春秋戦国時代

夏→殷→周→

夏→殷→周が滅び不安定となる。そして中国の覇権争い『春秋戦国時代』が始まった

 

上記の記事の続きだ。周が滅び、戦国七雄が割拠し、春秋戦国時代に突入することになる。

 

春秋時代 紀元前770年~紀元前5世紀までの約320年間
春秋戦国時代 紀元前770年~紀元前221年までの約550年間
戦国時代 紀元前403年~紀元前221年までの約182年間

 

戦国七雄

 

この戦国七雄を軸にしながら、戦国時代が繰り広げられるわけだ。

 

周の後の支配者は俺だ!
いや俺だ!

いや俺だ!
いや俺だ!

いや俺だ!
いや俺だ!

いや俺だ!
いや俺だ!

 

 

諸子百家

この時、以下の記事でまとめたように、『思想』の部分でも大きな文化が作られた。

 

『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?

孔子に続いた者、対立した者。彼らは結局何を目指し、それは成し遂げられた?

『キングダム』の舞台と『孔子』の思想の関係は?秦の始皇帝がたった十数年で亡んだ理由とは

 

 

諸子百家』といわれる思想家たちが活躍した時代でもあるのである。孔子を筆頭とし、その弟子である、

 

 

道教の創始者と言われる老子や、その教えを継いだ荘子。法家である韓非、墨家である墨子、『孫氏の兵法』で知られるな孫武等が有名である。春秋・戦国の諸国の王は、この思想家の中からお気に入りを選び、招いて、その考え方を取り入れた。

 

中田敦彦のyoutube大学

オリエンタルラジオの中田敦彦さんが諸子百家をまとめた人気動画があります。

 

『秦』の始皇帝

さて、そんな戦国七雄だが、結果的にその覇権争いに勝ったのが、『秦』だった。秦の王、(えいせい)が紀元前221年、ほかの6国を滅ぼし、史上初の中華統一を成し遂げるのである。

 

始皇帝は、都の咸陽(かんよう)に巨大組織を作り、統治を開始する。中央から都に官僚を派遣して統治させる中央集権体制を築く。この体制自体は実に2000年にもわたって受け継がれているので、始皇帝はこの意味では、中国にとても大きな貢献をしたことになる。また、

 

  • 度量衡
  • 文字
  • 貨幣
  • 度量
  • 車騎(馬車の幅)

 

を統一。それまで、戦国七雄それぞれでバラバラだったそれらの規格を統一したわけだ。まあそうしなければ中国を一つの国としてまとめるのは難しいから、それ自体は妥当な手順だろう。だが、この後説明するが、『思想』までをも統一しようとしたのは失敗だった。

 

貨幣 半両銭
文字 篆書(てんしょ)

 

更に、もともと匈奴(きょうど)などの北方異民族から国を守るために戦国の諸国が独自につくっていた長城をつなぎ、『万里の長城』として整備し直したのもこの始皇帝だ。

 

 

 

キングダムと李牧(りぼく)

ちなみにこの匈奴と言えば、こういう話がある。中国文学の第一人者である守屋洋氏の『孫子の兵法』にはこうある。

中国の戦国時代末期、趙の国に李牧(りぼく)という名将がいた。当時、中国の北方に匈奴(きょうど)という異民族が勢力を張り、しきりに北辺を荒らしまわっていたが、趙の国王は、なんとか匈奴の侵攻を押さえようと、李牧を討伐軍の司令官に任命した。ところが李牧は守りを固めるばかりで、いっこうに討って出ない。毎日、騎射の訓練に励む一方、烽火(のろし)を整備し、間諜を放って匈奴の動きを伺いながら、部下には、

 

『匈奴が攻めてきても、けっして戦ってはならぬ。すぐ城内に逃げ込むがよい。』

 

と指示した。この結果、たびたび匈奴の侵攻を許しはしたものの、趙側の損害はめっきり少なくなった。こうして数年経った。相手が逃げてばかりいるので、趙軍遅るるに足らずと判断した匈奴は、十万余騎の大軍をもって襲い掛かってきた。間諜の知らせを受けた李牧は、さっそく奇陣を設けて迎撃し、さんざんに撃ち破った以後、李牧が健在のあいだは、さすがの匈奴もあえて趙の辺城には近づこうとしなかったという。

 

ここにあるのは『風林火山』だ。前述した孫武が書いた『孫氏の兵法』にあるこの兵法を使いこなしていた李牧(りぼく)は、名軍師として、漫画『キングダム』でも登場している。

 

 

 

『法家』の韓非子

では、この始皇帝は先ほどの思想家の中から、どの思想を取り入れただろうか。それは、『法家』である。韓非子が伝えた法家の思想を取り入れ、外部要因の力で国を統治しようとした。それについては先ほどの記事にも書いている。

 

『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。

儒教は、徳や礼を重視し、法よりも慣習によって統治します。しかしそれは理想論で、現実には犯罪に対処しないといけません。そこで、法家の考え方も、取り入れた方がよい。秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。むしろ、儒教と法家の両方の理論を、あわせて国家を運営すべきだ。秦の統一帝国を継承した漢は、そのように考えたと思います。

 

儒教の考えは、徳による支配ですから、支配者がしっかり行動していれば、ほかの人々の行動も正しくなると考える。しかし、いったいどうやって正しくなるのかというプロセスの論理がなく、マニュアルもありません。法家は、法律といったかたちで、そのマニュアルを用意します。儒教と法家が結び付くことで、強力な統治のツールが生まれました。

 

先ほど、『思想』までをも統一しようとしたのは失敗だったと書いた。実は始皇帝は、文字や貨幣だけじゃなく、『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』という言論や思想の統制を目的とした措置を行ってしまったのである。

 

儒家の本を焼き捨て、儒家を穴に埋めて殺し、過度の法治(刑罰)主義を行って、ずいぶんと強硬手段を取ったのだ。『遅れたら死罪』という法律があったほどだった。更に先ほどの『万里の長城』や、道路の建設、陵墓等の建築作業にて、人を酷使した。こうしたある種の『恐怖政治』が裏目に出て、民衆の反感を買ってしまったのである。その後、『陳勝・呉広の乱』という大反乱につながってしまう。それはまさしく、『万里の長城』の警備をさせられた、農民の反乱だった。

 

 

STEP.1
『遅れたら死罪』という法律があった
STEP.2
紀元前209年:大雨のせいで到着が遅れてしまった
STEP.3
どうせ死罪になるからと、反乱が起こる
陳勝・呉広の2人が中心となって大反乱を起こす。
STEP.4
その後、結局反乱は鎮圧される
陳勝・呉広が仲間割れを起こす。

 

儒家の本を焼き捨て、儒家を穴に埋めて殺す。それほどまでに憎んだ孔子の教え(儒教)は、まさに『インサイド・アウト』だった。つまり、『自分の心がしっかりしていれば、法律にも宗教にも頼ることはない』という、目を内に向けて『自律』する考え方だった。孔子は、一人一人が利他的になり、礼を重んじて徳を積み、仁を得ることが出来れば、この世に法律や刑罰などは必要ないと考えた。儒教の考えは『徳』による支配の為、支配者がしっかりしていれば法律など必要ないと説いている。

 

 

だがそれを受けた始皇帝は、

 

始皇帝

俺に意見をするとはいい度胸だ!

 

という態度でもって、それを排斥したのである。結局そこにあった始皇帝の傲岸不遜な心構えが、まるで、最古の王朝『夏』が滅んだときの王と同じ心構えだったのである。司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、

兎(う)が夏王朝を建国したものの、暴君であった17代桀王(けつおう)が人望を失ったため、湯王(とうおう)がこれを討伐して、殷王朝を建国した

 

という旨が記述されている。人は結局、この黄金律に逆らうことはできないのである。

 

中国史上最も古い王朝は『夏』?それとも『殷』?中国『三代』が犯した同じ過ちとは

『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』

 

 

秦が15年で滅んだ理由

だが、実は始皇帝というのは紀元前210年に死去している。この陳勝・呉広の乱は、紀元前209年のことだ。そのときすでに始皇帝はこの世を去っているのである。しかも在位は紀元前211年までだ。こう考えると、秦が滅んだのは単純に、『始皇帝というスーパーワンマンの国だったから』とも言えるかもしれない。

 

今に置き換えて考えても、あまり企業というのは、一人のスーパー経営者に頼ってはいけない。そうすると、当人がいなくなったときに一気に株価と企業価値は下がり、企業の勢いが低下してしまう可能性があるからである。このような動きも多少は関係していたかもしれない。

 

キングダムは、始皇帝が中国を統一したときに終わる予定なのだが、しかし実際には終わった後の秦は少し雲行きが変わるのだ。見事史上初の中国統一をした秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。このようにして、孔子も理想とした『周』の考え方は、一時排斥されたのである。

 

その期間、わずか15年だといわれている。その理由はやはり、始皇帝の『アウトサイド・イン』の図式に依存した思想が関係しているだろう。それについては下記の記事を見れば一発で分かる。

 

『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』

 

さて、この『陳勝・呉広の乱』だが、実はその後の動きに大きな影響を与えた。それから3年後の紀元前206年に、秦に不満を持った人々が次々に現れるようになったのだ。その中にいたのが、

 

  1. 圧倒的な力を持った西楚の覇王『項羽(こうう)』
  2. 任侠の徒から身を起こした漢王『劉邦(りゅうほう)』

 

だ。彼らは約5年間にわたり『楚漢戦争』を引き起こし、結果的に人望で勝った『劉邦』が勝利し、『漢王朝』が秦に代わって中国を統一することになる。

 

 

 

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