『秦』の始皇帝の次の王朝は何?わかりやすく簡潔に教えて!
劉邦(りゅうほう)が作った『漢』王朝です。
項羽(こうう)と劉邦が戦って、劉邦が勝ちました。
約5年間にわたる彼らの『楚漢戦争』は、結果的に人望で勝った『劉邦』が勝利し、『漢王朝』が秦に代わって中国を統一することになります。その前にあった秦が滅亡したのは紀元前206年。そしてこの楚漢戦争も、紀元前206年から始まりました。秦が滅亡し、再び中国は混乱することになるのですが、それをこの劉邦率いる『漢』が、秦の代わりに中国を統治することになるわけです。
Contents|目次
夏→殷→周→秦→漢
上記の記事の続きだ。『陳勝・呉広の乱』の後、
らが約5年間にわたり『楚漢戦争』を引き起こし、結果的に人望で勝った『劉邦』が勝利し、『漢王朝』が秦に代わって中国を統一することになる。秦が滅亡したのは紀元前206年。そしてこの楚漢戦争も、紀元前206年から始まった。秦が滅亡し、再び中国は混乱することになる。しかし、それをこの劉邦率いる『漢』が、秦の代わりに中国を統治することになるのだ。
だが、冒頭の記事で『秦が作った中央集権体制は2000年も引き継がれる』とあったように、始皇帝はこの部分では中国に大きな貢献をした。漢王朝が長続きした理由も、それが大きな理由の一つとして挙げられることになる。
上記の記事に、周の国が『西周(さいしゅう)』と『東周(とうしゅう)』と分けて呼ばれていると書いた。
最盛期を誇った前半の段階 | 西周 |
弱体化した後半の段階 | 東周 |
西周の時期は勢いがあったが、東周時代には衰退化していくわけだ。この『漢』でも同じように、時期によって呼び名が違う。
前半の漢王朝 | 前漢 |
後半の漢王朝 | 後漢 |
前漢にはもちろん『漢』という王朝を作り上げた劉邦が活躍したわけだ。劉邦はとにかく、前王朝だった『秦』の失敗と同じ轍を踏まないように努めた。急激な中央集権化で失敗したわけだから、『漢』では官僚制を都周辺だけにし、地方には功績のあった重臣に仕事を任せた(郡国制)。だが、劉邦が死んだあと、この『任された』重臣たちが天狗になって権利を主張し始め、『呉楚七国の乱』を起こし、結局同じように、中央集権国家になってしまう。
そう考えると、冒頭の記事に書いた始皇帝の話が思い出される。
実は始皇帝というのは紀元前210年に死去している。この陳勝・呉広の乱は、紀元前209年のことだ。そのときすでに始皇帝はこの世を去っているのである。しかも在位は紀元前211年までだ。こう考えると、秦が滅んだのは単純に、『始皇帝というスーパーワンマンの国だったから』とも言えるかもしれない。
秦では始皇帝、漢では劉邦という『絶対権力者』がいなくなった後に、こうして反乱が起きたり、統治が崩れて混沌が生まれる。やはりここでも、『インサイド・アウト』の黄金律の重要性が問われるようになるのだ。
ここで、劉邦がどれほどの人物だったかについて書いておく必要がある。古代中国の大帝国、『漢』の高祖となった劉邦の天下取りを助けた三羽ガラスは、
である。彼らの職務を現代風にいえば、張良はさしずめ企画室長で、韓信は営業部長、蕭何は総務部長であろう。劉邦は皇帝の位について、論功行賞を行ったとき、『最高の功績は蕭何にあり』とした。これにたいして功臣たちは一斉に不満を表明した。ある者は、
と言い、またある者は、
と言った。つまり、営業の人間は、
と言い、企画の人間は、
と主張したわけである。それにひきかえ総務の人間は何をしていたのだ、会社の中に座っているだけで、何の利益も生み出していないじゃないか、という言い分である。そういわれれば総務担当の人間はこれといった大きな手柄はない。得意先の開拓をしたわけでもないし、営業キャンペーンを指揮したわけでもないし、新商品を開発したわけでもない。
それでは何の仕事もしていないのかといえば、そんなことはない。裏方で目立たないけれども、営業や企画の社員たちが存分に働けるように、職場環境を整え、さまざまな雑用をしているのである。劉邦が、『蕭何に最大の功績あり』としたのは、この『裏方の地味な仕事』が天下平定になくてはならないものだったことを知っていたからである。
劉邦は、ライバル項羽(こうう)と足かけ五年の戦いの末、勝利を握ったが、初めのころは連戦連敗だった。ところが、それでも屈することなく闘い続けているうちに、流れが変わり、ついには項羽を破ることができたのである。この大逆転を呼び込んだのは、負け続けながらも弱体化せずに挑戦し続けたからである。
そして、劉邦が不死鳥のように挑戦し続けられたのは、後方から蕭何が絶えず兵員と物資を補給していたからである。この蕭何の補給のおかげで、劉邦は戦闘に敗れても破れても、態勢を立て直して項羽に挑むことができたのだ。いかなる勇将、猛将も、またいかなる戦略家たちも、蕭何の途切れることのない補給なしには大きな功績を上げることができなかったわけである。
営業や企画、そして開発の仕事は華々しい成果が上がるので、傍目には目立つが、それだけが企業を支える仕事ではない。その陰で、キチンと帳簿をつけたり、必要な人員、必要な資金、必要な物資を調達することもまた、企業にとっては重要な仕事なのである。こういう裏方で、地味ではあるけれども、コツコツと仕事をしていくことも、高い評価を得る要因となろう。目立たない仕事であるけれども、腐らずにコツコツやれる人間は、出世の階段を着実にあがっているのである。
by『PRESIDENT』
劉邦は適材適所を見極めて、人を正当に扱った人間だった。彼の器の大きさがわかる逸話である。
またもう一つこういう話もある。冒頭に、項羽と戦った楚漢戦争について書いたが、その項羽は、始皇帝を見かけたときこう言った。
しかし同じく始皇帝を見た劉邦はこう言った。
この違いがわからない人には、人の上に立つ資格はないかもしれない。
さて、そんな劉邦が収めた漢だが、この国が長生きした理由は3つある。
という3つである。冒頭の記事にも書いた文献をもう一度見てみよう。『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
儒教は、徳や礼を重視し、法よりも慣習によって統治します。しかしそれは理想論で、現実には犯罪に対処しないといけません。そこで、法家の考え方も、取り入れた方がよい。秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。むしろ、儒教と法家の両方の理論を、あわせて国家を運営すべきだ。秦の統一帝国を継承した漢は、そのように考えたと思います。
儒教の考えは、徳による支配ですから、支配者がしっかり行動していれば、ほかの人々の行動も正しくなると考える。しかし、いったいどうやって正しくなるのかというプロセスの論理がなく、マニュアルもありません。法家は、法律といったかたちで、そのマニュアルを用意します。儒教と法家が結び付くことで、強力な統治のツールが生まれました。
秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。むしろ、儒教と法家の両方の理論を、あわせて国家を運営すべきだ。秦の統一帝国を継承した漢は、そのように考えたと思う、とある。
まず、変革を急がずに時間をかけて中央集権体制を築いたことも大きい。そして今見たように、劉邦の人徳の大きさも影響しているだろう。そしてもう一つの背景にあるのは、この『最強の統治ツール』だっただろう。つまり、
の両方向から人々を統治したのだ。これに関しては、私は『この話(思想)の続き』を書いているが、当サイトで最もボリュームが多いため、余裕がある人だけ見るといいだろう。
したがって、漢は前漢、後漢と合わせると実に400年もの間その統治を維持し続けることができたのである。さて、次の記事で、『前漢、後漢』についてさらに詳細をまとめて、漢の時代の話を終わりにする。
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