黄巾の乱って何?わかりやすく簡潔に教えて!
度が過ぎた政治家を懲らしめるために起こした反乱です。
当時の皇帝は『0歳、2歳、8歳』等、とても幼い段階での即位が続きました。
当然その幼い皇帝では政治はできませんから、近くにいた大人が代わりにやるわけです。しかし、その近くにいた大人が権利を乱用し、彼らのやり方に逆らう者を弾圧したりして、力づくで物事を推し進めようとしました。地方では農民も圧迫され、農民の反乱が相次いでいました。そこで、『張角』という人物を中心に大きな反乱を起こします。彼らは黄色の布を頭に巻き『黄巾賊(こうきんぞく)』と呼ばれました。彼らが起こした反乱だから『黄巾の乱』というわけですね。
しかし黄巾賊は流民や農民が中心であり、政府側には後の『三国志』で活躍する猛者たちがいたためか、一年足らずでこの反乱は鎮められました。
夏→殷→周→秦→漢(黄巾の乱)
上記の記事の続きだ。しかしこの後漢も、前漢同様『宦官(かんがん)』や『外戚(がいせき)』たちによって支配され、滅亡の途を辿ることになる。光武帝と次の『明帝』は30歳を超えていたが、その後の皇帝は、
という幼少の皇帝が続いたため、彼らは裏で暗躍しやすかったのである。そして、その『宦官』や『外戚』の暗躍に逆らう形で起きた反乱が『黄巾の乱』である。彼らに反対する者は弾圧され、政治は荒れてしまっていた。この黄巾の乱というのは、中国史で最も人気のあるあの『三国志』の時代の一歩手前の歴史である。次の三国志を考える前に見ておく必要がある事実だ。
黄巾の乱は、『張角』という人物が中心となって起こした反乱である。
[清代の書物に描かれた張角]
道教の源流の一つである太平道(たいへいどう)の創始者。その教えは、懺悔と呪文による病気の治癒を中心とする。
黄色い頭巾をかぶって武装蜂起をしたことから、『黄巾の乱』と呼ばれるようになる。中心人物の、
彼らは兄弟であった。彼らの黄色い頭巾の意味は、漢の王朝が『赤』を使っていたため、次の色である『黄』を用いたという。これは、彼らが重要視していた陰陽五行説による、
にのっとった形だ。火の次が土で、土徳の色が『黄色』だったのである。
実は、この反乱を治めるために後漢が用意したのが、才知人望高き『皇甫嵩(こうほすう)』らだったわけだが、義勇兵を募って集まったのが、後の『三国志』の中心人物となる、
だったのである。
[清代の書物の黄巾の乱、劉備関羽張飛の三人]
この絵は、劉備が兄弟のように親しくしていた、『関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)』の2人と戦う、黄巾の乱でのワンシーンである。彼らも次の『三国志』において、重要な人物となるのだ。黄巾賊は、流民や農民が中心であり、政府側にはこのような猛者たちがいたためか、一年足らずでこの反乱は鎮められた。
道教と言えば、孔子と対立した老子の教えだ。そして漢は、孔子の教えである儒教を国教としていた。そう考えるともしかしたら、ここにあったのはある種の『宗教戦争』ともいえるのかもしれない。
もちろん大きくは違うだろう。宦官らの暴走が、儒教のそれとは関係がないからである。だが、もし彼らがみんな、同じ宗教や思想を重んじていた場合、このようなことは起きなかったとも言えなくもない。そう考えるとやはり、思想の多様性というのは、自由の証でもあり、同時に争いの火種でもあるのかもしれない。
さて、次はいよいよ、『三国志』の時代に突入する。
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