『三国志』の重要人物は誰?わかりやすく簡潔に教えて!
この時代に戦死した、歴史に名を残さなかった大勢の人々です。彼らのことを忘れてはいけません。
5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまいました。
たしかに、
といった3つのエリアのトップ、そして、
といった様々なキーパーソンは重要人物です。しかし、忘れてはならないのは、この時代に中国の人口の85%以上が失われたことです。
夏→殷→周→秦→漢→三国時代
上記の記事の続きだ。こうして『黄巾の乱』が終わり、いよいよ、『三国志』の時代に突入する。この時代の中心人物には、その黄巾の乱にも参加した、
だったのである。
『三国志』というぐらいだから彼らは3つの国のトップだったわけだが、彼らが国を作り、あるいはトップになったのは以下の通りである。
孫権 | 呉 | 229年 |
劉備 | 蜀(しょく) | 212年 |
曹操(曹丕) | 魏 | 220年 |
実は、この曹丕(そうひ)というのは曹操の嫡子なわけだが、曹操自体は、国のトップにはなれなかった。一歩手前の『魏王』、つまり皇帝の次の位には216年にたどり着いたのだが、頂点に立つことはなかった。そして代わりに嫡子の曹丕が魏の初代皇帝となった。
[『南屏山昇月』(月岡芳年『月百姿』)赤壁を前にする曹操]
後漢の最後の皇帝の献帝 (漢)(在位:189年 – 220年)のこと。
この曹操が死んだ後すぐに、曹丕が魏の皇帝となったのである。
だから、有名なあの『レッドクリフ(赤壁の戦い)』の時には、曹操は『魏のトップ』ということではないのである。そして、208年に赤壁の戦いがあったことからわかるように、そのころは劉備も孫権も、皇帝の座にはいないのだ。
下記の記事で、赤壁の戦いにあった『呉』の周瑜、『蜀』の諸葛亮孔明の二人の天才策士の話を書いたが、実際には彼らはまだ厳密に三国の人間としては至っていなかった。
Wikipediaにはこうある。
『三国志』呉書魯粛伝によると魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書 諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って孫権と面会したという。
つまり、
という2つの話が存在しているらしいが、映画では後者のシナリオを用いたようだ。とにかく、映画を観た人は知っているはずだが、曹操軍は圧倒的な人数で、劉備と孫権は手を組むしかなかったのである。曹操は、前述したように様々な戦いで力をつけていて、およそその勢いを止めることはできないと、誰もが諦めていた。
しかし、前述した周瑜、そして諸葛亮公明といった天才軍師と、劉備、孫権軍が力を合わせることにより、この圧倒的に不利な状況を覆し、見事、曹操軍に討ち勝つことになる。それが『赤壁の戦い』なのである。
その後、220年に曹丕が『魏』を建国、そして劉備も『蜀』、孫権も皇帝に即位して『呉』を建国する。本当の『三国時代』というのはここから始まるのであり、曹操がいた時代には、まだ厳密には三国時代とは言えないのである。
Wikipediaにはこうある。
建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年(221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。
劉備は、212年に蜀の乗っ取りに成功し、蜀のトップの座に就いたのだが、曹丕が『魏』の皇帝になったとき、それに対抗して蜀の地に『漢』を作った。したがって、劉備は『蜀漢』の初代皇帝とも言われているわけである。
そして孫権も次の通りの流れで『呉』の皇帝となる。
多くの群臣は、曹操に怯えて『逆らうべきではない』と勧めたが、魯粛(ろしゅく)と、周瑜の意見に従い、『赤壁の戦い』を決意したのである。『赤壁の戦い』は三国志の有名な戦いだが、そこに出てくる3つのエリアの指揮を執った人物たちは、皆この戦いの後に『皇帝』となるか、あるいは嫡子が皇帝となったのである。
まだ映画を観ていない人がいれば、ぜひ観るべきだろう。そうすれば、ここで取り上げた3人の重要人物『だけが重要だったのではない』という事実を思い知るだろう。
といった様々なキーパーソンと、多くの兵士たちの活躍があってこその戦いだったことがよくわかるはずである。実際、この『三国時代』というのは多くの兵士、農民といった『重要ではない人物』たちにとっては、辛い歴史となった。後漢末には5650万人以上いた中国の人口は、この三国時代で800万人にまで減ってしまったという。
魏:443万人、呉:230万人、蜀:95万人。合わせても768万人。
派手な戦と、無理な戦いに知恵で勝つ、下剋上的なシナリオにロマンを感じる人のおかげで、この『三国志』は歴史に名を刻み続ける。だが、戦争とは起こすべきものではない、という事実を、同時に理解する必要があるのだ。
周瑜は言った。
この時代に限らずいつの時代でも、どんな人であっても、そこに人がいるならそれは重要人物なのだ。
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