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司馬一族が『晋』で三国志を終わらせるも、中国は南北に分裂!『南北朝時代』に突入する

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

三国志ではどの国が勝ったの?わかりやすく簡潔に教えて!

『魏、蜀、呉』の三国とは無関係の『晋』でした。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

司馬炎の『晋』が、呉を滅ぼして三国時代を終焉させました。

しかし、匈奴(きょうど)に華北を奪われ、晋は265年~420年の、わずか150余年の寿命となります。晋は、『周』の時代と同じように、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けています。この西晋のことで言うなら、わずか50年しか持たなかったということになります。司馬炎の死後、『八王の乱』が起こり、皇族たちが主導権争いをした結果、『万里の長城』の守備がおろそかになり、異民族である『匈奴』が侵入して滅亡したのです。

 

司馬睿(しばえい)』が晋を再興し『東晋』時代が始まりますが、それも結局420年に『宋(そう)』に滅ぼされ、中国は南北に分裂する『南北朝時代』に突入します。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

晋(西晋、東晋)

夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代

あの『赤壁の戦い(レッドクリフ)』があった『三国志』の本当の重要人物は誰?

 

上記の記事の続きだ。『三国志』の時代を終わらせたのは、『魏、蜀、呉』の三国とは無関係の『晋』だった。晋にいたのは、魏の臣下である『司馬』の一族だった。司馬炎が魏の最後の元帝から禅譲を受けて建国したのがこの『晋』だ。280年、司馬炎は20数万人の大軍を動員し、呉の都・建業を攻略し、呉を滅ぼして三国時代を終焉させた。

 

[司馬炎]

 

だが、この晋は265年~420年の、わずか150余年の寿命となる。匈奴に華北を奪われ、滅亡するのである。晋は、『周』の時代と同じように、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けている。この西晋のことで言うなら、わずか50年しか持たなかったということになる。

 

夏→殷→周が滅び不安定となる。そして中国の覇権争い『春秋戦国時代』が始まった

 

 

八王の乱

司馬炎は、天下をとった後に怠惰に陥り政治を怠った。司馬炎の死後、『八王の乱』が起こり、皇族たちが主導権争いをした。その結果、『万里の長城』の守備がおろそかになり、異民族である『匈奴』が侵入して滅亡したのである。またもや下記の黄金律に支配された形になったのである。

 

『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』

 

 

そしてなんとこの司馬炎も、女色に溺れて政治をおろそかにした一人だった。

『美女に溺れた統治者が、国政をおろそかにして、国を亡ぼす原因となる』というパターンは、このあとの中国史でも繰り返されることになります。

 

マルクスに言わせれば、全くの茶番である。

 

中国史上最も古い王朝は『夏』?それとも『殷』?中国『三代』が犯した同じ過ちとは

 

 

五胡十六国時代

まず南北朝の『北』には、『五胡』と言われた5つの異民族が次々と国を建てることになる。『五胡十六国時代』である。

 

五胡

  1. 匈奴(きょうど)
  2. 羯(けつ)
  3. 鮮卑(せんぴ)
  4. 氐(てい)
  5. 羌(きょう)

 

五胡十六国時代

304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。

 

この時代は、異民族が争っては国を建国し、消えていくという、大変混乱した時代となる。だが、その華北の混乱を治めたのが、上に出ている『北魏』である。鮮卑族の拓跋氏(たくばっし)という一族が作った国で、これが華北を統一するのである。

 

拓跋氏は拓跋部ともいわれるが、それは、鮮卑族の1部族だった。そこにいた『拓跋珪(たくばつけい)』が北魏を作った。拓跋珪は、敵対する五胡諸部族を平定し、40万の大軍で中原になだれ込み、瞬く間に黄河以北の華北平原を征服した。これによって、異民族が初めて中国で本格的な王朝を作る歴史が作られることになる。

 

 

『仏教』の蔓延

この時代は、思想の部分にも大きな変化があった。『仏教』である。仏教自体は、後漢時代に中国に伝来したはずだが、実際に広まったのは南北朝時代だった。鳩摩羅什(くまらじゅう)が仏典を正しく翻訳したので、それが大きな理由となったようだ。この北魏には、

 

  1. 道武帝(初代皇帝)
  2. 太武帝(3代皇帝)
  3. 孝文帝(6代皇帝)

 

という3人の重要な皇帝がいる。まず道武帝は、この拓跋珪のことだ。彼は仏教の受け入れに積極的だった。だが、3代目の太武帝が、民間宗教の道教を保護し、仏教を弾圧した。しかし孝文帝がまた、仏教の保護を行った。そうして結局、仏教は北朝で盛んになっていった。

 

[龍門石窟の盧舎那仏]

 

MEMO

龍門石窟(りゅうもんせっくつ)は、中華人民共和国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院。「龍門石窟」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。

 

ここまでは、華北(北朝)の話だ。先ほど出た『南北朝時代』の文字通り、中国は南北に分裂することになる。

 

 

南北朝時代

曹操の参謀にして、諸葛亮孔明の宿敵でもあった『司馬懿(しばい)』に、『司馬睿(しばえい)』という曾孫がいて、彼が晋を再興し『東晋』時代が始まるのだが、それも結局420年に『宋(そう)』に滅ぼされ、中国は南北に分裂する『南北朝時代』に突入する。

 

華北 北魏
華南

 

中国は南北に分裂し、それぞれを、北魏と宋が治めた。しかし、結局どちらの国も政権が安定せず、国は分裂していった。

 

華北(北朝)

STEP.1
晋が匈奴に華北を奪われ滅亡
西晋時代。
STEP.2
五胡十六国時代に突入
STEP.3
それを北魏が統一
鮮卑族の1部族だった。そこにいた『拓跋珪(たくばつけい)』が北魏を作った。
STEP.4
しかし北魏は『西魏、東魏』に分裂
更に、北斉、北周へ。

 

華南(南朝)

STEP.1
司馬睿が晋を再興
『東晋』時代が始まる
STEP.2
宋に滅ぼされる
STEP.3
しかし宋も『斉→梁→陳』へと分裂

 

この南朝だが、北朝に広まった仏教文化とは違って『貴族文化』という優美な文化が栄えた。その理由の一つは、長江流域にあった豊かな稲作だったという。つまり、北朝よりも生産力があった。そうした事実が手伝って、南朝の人々は豊かな暮らしをしていたのである。

 

[女史箴図]

 

女史箴図

南朝の宮廷生活の様子を伝える絵画。

 

北は『北斉、北周』。南は『斉→梁→陳』へと移り変わる。しかしこれらが次の『隋(ずい)王朝』でまとまっていくことになる。

 

 

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