いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『隋(ずい)』王朝を建てた人です。589年には陳を滅ぼし、中国を統一しました。
2.『黄河と長江を結ぶ大運河』を作った人です。しかし、彼は父である楊堅や兄弟たちを殺害した煬帝は『中国史上最強の暴君』です。
彼らは親子なのに最初の漢字が違います。
父親で使われている漢字には『明るい、温かい、Good』という意味がありますが、子で使われている方には『炙り尽くす、照り付ける、Bad』という意味があったといい、親子で180度評価が分かれてしまった例です。楊堅は長安に都を定めて、西晋の滅亡依以来300年にもわたる中国の分裂状態を終わらせ、久しぶりに中国を統一させました。しかし、この『隋』も次の代の『煬帝』の時代を持って終わってしまいます。実に、37年という短期間しか持たなかった王朝でした。
しかし、煬帝が作った『黄河と長江を結ぶ大運河』は、後世にとってとても役立つものになったことは事実でした。当時、中国大陸は西から東へ流れる川ばかりで、南北を船で移動することはできませんでしたが、このおかげで南北をつなぐルートができ、大いに助かったのです。
夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋
上記の記事の続きだ。北は『北斉、北周』。南は『斉→梁→陳』へと移り変わる。しかしこれらが次の『隋(ずい)王朝』でまとまっていくことになる。南北朝時代も後半、6世紀頃になると、北周と陳がそれぞれを治めるようになる。
華北 | 北周 |
華南 | 陳 |
だが、580年に北周の丞相だった外戚の『楊堅(ようけん)(文帝)』が全権を掌握し、581年には静帝(せいてい)から禅譲を受けて『隋』を建国する。そして、589年には陳を滅ぼし、中国を統一する。
[楊堅]
楊堅は、遊牧民族だった鮮卑の血を引くとも言われている。彼の娘が北周の皇后となったので、その子であった静帝が即位すると、たちまちこの楊堅が頭角を現すようになったというわけだ。長安に都を定めて、西晋の滅亡依以来300年にもわたる中国の分裂状態を終わらせ、久しぶりに中国を統一させた。
楊堅が最も力を入れたのは、
だった。
を一体化した改革を行った。
土地を民衆に与え、死後返納させる制度。
均田農民に穀物・布・労働の3種の税を納めさせる制度。
均田農民から徴兵する制度。
土地を与え、与えられた者はその代わりに税と兵の義務を果たすということだ。また、『科挙』という試験を導入し、それまであったコネ重視の『腐敗』を断ち切り、実力を正当に評価するようなシステムを考案する。
こういったこともすべて、中央集権化を目的としていた。
しかし、この『隋』も次の代の『煬帝(ようだい)』の時代を持って終わる。実に、37年という短期間しか持たなかった王朝だった。
[煬帝]
煬帝は、『中国史上最強の暴君』の異名を持つ、問題児である。なんと、実の父である楊堅や、兄弟たちを殺害して帝位に就くのである。よく漢字を見るとわかるが、
親子なのに最初の漢字が違う。父親で使われている漢字には『明るい、温かい、Good』という意味があるが、子で使われている方には『炙り尽くす、照り付ける、Bad』という意味があったという。親子で180度評価が分かれてしまった例である。
しかし彼は『黄河と長江を結ぶ大運河』を作った功績が大きい。今まで誰も成し遂げることができなかったことをしたことで、ある種の高い評価がつけられている。ただ、それも女性や子供までをも動員して無理強いしているので、エジプトの『ピラミッド』然り、確かに『それでできたもの』は目を見張るが、『どのように作ったのだ』ということになると、いささか微妙なわけである。
ただ、この大運河の開削は、後世にとってとても役立つものになったことは事実だ。当時、中国大陸は西から東へ流れる川ばかりで、南北を船で移動することはできなかった。だが、このおかげで南北をつなぐルートができ、大いに助かったのである。
[『清明上河図』(一部)]
開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。Wikipedia
しかし、煬帝は一度、楊堅時代に失敗している高句麗(こうくり、こぐりょ)への遠征を、もう一度行ってしまう。なぜなら、北方の脅威だった『突厥(とっけつ)』と高句麗が同盟を組むと厄介だったからだ。しかしその遠征はやはり無謀だった。しかもそれを3回も行う。大運河の無理な建築といい、民衆に無理をさせたツケが回って、煬帝は民心を失う。その後、煬帝は揚州で兵変に遭い、殺されてしまった。
この隋は、日本では聖徳太子が『遣隋使』を派遣することで有名な王朝だった。
下記の記事にも書いたが、古代から中華は『天子』を津中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。
東夷(とうい) | 日本、朝鮮等 |
西戎(せいじゅう) | 西域諸国等 |
南蛮(なんばん) | 東南アジア、西洋人等 |
北狄(ほくてき) | 匈奴等 |
『秦』が中国を統一して以来、歴代王朝を悩ませ続けていたのが、ここでいう『北狄(ほくてき)』にいた匈奴等だった。漢を作った劉邦も、この匈奴には毎年貢物を送るほど、弱腰の外交をしていたのである。
しかしそこに鮮卑が出てくる。この『隋』を作った楊堅の出身だったともされている一族だ。それから前述したトルコ系民族の『突厥』や、『高句麗』。このような異民族と勢力争いを続けて、中国の歴史は作られていったのである。そして617年には、煬帝のいとこだった『李淵(りえん)』が挙兵し、翌年に恭帝から禅譲され、『唐』を建国する。
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