Contents|目次

『西遊記』がなければ『ドラゴンボール』はない!『唐』にはあの話のモデルとなる人物がいた!

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

『西遊記』って何がモデルなの?わかりやすく簡潔に教えて!

中国の『唐』の時代にいた『玄奘(げんじょう)』という僧侶は、三蔵法師のモデルです。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

物語に出て来る三蔵法師は尊称であり、法名は『玄奘三蔵』(げんじょうさんぞう)です。

629年8月、中国では国外への旅行は禁じられていましたが、玄奘はどうしても『本当の仏教』が学びたくて、インドへ旅に出てしまいます。しかし、意外なことにその旅はどこへいっても歓迎され、16年ぶりに祖国に帰ってきたときも、中国の皇帝に喜ばれました。彼の覚悟ある誠実な心構えが認められたのでしょうか。この命がけの玄奘の大冒険は『西遊記』のモデルとなりました。

 

そして日本には誰もが知っている『ドラゴンボール』という漫画がありますが、この漫画も最初のモデルはこの『西遊記』でした。玄奘が命がけの旅をしなければ、日本にこの名作漫画も生まれていなかったのです。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

唐と仏教

夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→

中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰

 

上記の記事の続きだ。『唐』の次の王朝である『』の話の前に、唐時代にあったその他の側面について見てみよう。下記の記事に、『南北朝時代に仏教と貴族文化が広まった』と書いた。仏教自体は、後漢時代に中国に伝来したはずだが、実際に広まったのは南北朝時代だった。鳩摩羅什(くまらじゅう)が仏典を正しく翻訳したので、それが大きな理由となったようだ。

 

司馬一族が『晋』で三国志を終わらせるも、中国は南北に分裂!『南北朝時代』に突入する

 

日本にも538年(あるいは552年)に伝えられ、様々な宗派が作られていった。広まったのは『大乗仏教』で、出家せずとも悟りに到達することができるという教えだった。

 

ブッダ(Buddha)とはどんな人物か

 

鑑真(がんじん)

鑑真』がいたのも『唐』の時代である(688~763年)。中国屈指の高僧であり、日本人僧の求めに応じ、渡日する。5回失敗し、12年の時間がかかったが、無事753年に、来日が成功する。彼は、日本仏教界の諸制度を整え、平城京に土地を与えられ、そこに唐招提寺を建立した。

 

[唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像」]

 

 

玄奘(げんじょう)

それから『玄奘』という僧侶は、誰もが知るあの有名な物語のモデルとなる人物である。幼くして聡明であり、13歳で出家。その後、仏教を学ぶにつれ、様々な解釈があることを知る。

 

うーむ。一体どの解釈が正しいのだろうか。

 

そう考えた玄奘は、本場のインドの教えを求めて、インドへの旅を決意。しかし、唐王朝は異国人の出入国は許していたが、唐の人々の国外への旅行を禁じていた。彼は数名とともに嘆願書を提出するが、朝廷は却下。だが、彼は違反をしてでもいいから、と、629年8月、インドへ旅に出てしまうのである。

 

 

そんな玄奘だが、旅先の高昌国では、国王に大歓迎を受け、

 

  1. 4人の侍従
  2. 西域24か国の国王への紹介状と贈り物
  3. 西突厥への献上物
  4. 20年分の旅費として黄金100両
  5. 銀銭3万
  6. 綾および絹500疋

 

等の寄進を受ける。そして無事インドへ入り、本場の仏教を学び、帰路につく。そこで、当時の皇帝である太宗に手紙を送り、処罰を覚悟する。しかし、太宗は罪を許し、それどころか玄奘を大歓迎した。16年ぶりに祖国に帰った玄奘は、

 

  1. 仏舎利150粒
  2. 仏像8体
  3. 経典520侠657部

 

等を唐に持ち帰り、残りの人生を経典の翻訳に捧げた。彼のこのインドへの大旅行は、後にあの『西遊記』のモデルとなるのだ。

 

 

物語に出て来る三蔵法師は尊称であり、法名は「玄奘三蔵」(げんじょうさんぞう)である。

 

 

そしてこの後、玄奘はサンスクリット語の『プラジュニャーパーラミター・フリダヤ』という経典を持ち帰り、それを『般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)』と訳し、中国に広める。これが後にお葬式でよく耳にする『般若心経』のルーツである。

 

この話を受け、『ブッダの言葉』について真剣に考えたことなる私が思う感想はこうだ。

 

あの有名な西遊記も、ブッダの真の教えが何かを探す話だったか…

 

このあたりのことについては下記の記事に書いた。

 

ブッダが広めた教えとは本当に『仏教(宗教)』だったのか?

 

 

南北朝時代の『達磨(だるま)』

ちなみに、これより100年ほど前の、南北朝の時代には『達磨』という僧侶がいた。彼は、『禅宗の開祖』とされていて、今ではあのGoogle社も社内活動に取り入れるほど有名になった『(ZEN)』の創始者である。スティーブ・ジョブズがやっていたことでも有名だ。

 

[達磨を描いた 月岡芳年『月百姿 破窓月』(木版画 1887年)]

 

彼はイランの出身で、南朝の宋にいたるが、武帝と意見が合わず、嵩山少林寺に入り、そこで禅宗を作る。実は彼には手足がない。過酷な修行で手足を失ったのだ。日本人がよく目にする縁起物のあの『ダルマ』は、彼をモチーフにして作られたのである。

 

 

しかも、あの『雪だるま』も雪で作った達磨なのだ。『七転び八起き』の語源も、この達磨からきている。

 

MEMO

目が入っておらず、白目のダルマは、達磨とは関係ない。関東地方の養蚕農家の風習がルーツで、いまでは『何かを祈願し、それが叶うと目を描き入れる』という考え方が生まれた。

 

また、whikipedia『ドラゴンボール』にはこうある。

プロット段階においては『西遊記』の要素も取り入れると共に、「ボールを集める」というアイデアは『南総里見八犬伝』から取られたが、「『八犬伝』が8つの球なので、同じじゃ悔しいから」とボールの数は7個にされ、タイトルは映画『燃えよドラゴン』から取られた。こうして本作の初期の構想がまとまった。

 

当初は鳥山版『西遊記』を目指しストーリーを進めようとしていたが、担当の鳥嶋の反応は「西遊記そのものではないか」と冷たかった。そのため、第二稿(SF要素が取り入れられ、服装が現代風)、第三稿(現行の『ドラゴンボール』にかなり近い設定)と変更が加えられ、最終的には『西遊記』の要素は主人公の名前やキャラクターデザインのほか、初期のいくつかのエピソードやアイテムなどにその名残を留めるのみとなった。

 

『ドラゴンボール』ファンとしては、あの名作もこの『西遊記』、そして『仏教』がなければ存在していないと思うと、感慨深いものがある。

 

 

『西遊記』といい、『達磨』といい、世界遺産『古都京都の文化財』にも選ばれている『唐招提寺』の『鑑真』といい、『ドラゴンボール』といい、我々にとっても中国の歴史というのは、遠い異国の話ではないのだ。

 

 

次の記事

該当する年表

SNS

参考文献