『宋』はなぜ『北宋、南宋』に分かれたの?わかりやすく簡潔に教えて!
宋は一度滅亡しました。しかしそこから南に『南宋』として新しく作り直したので、その南宋時代と分けてそれ以前を『北宋』と言います。
『女真族(じょしんぞく)』が作った『金』という国家がありました。
彼らは宋の弱体化に付け込み、宗に乗り込み皇帝一家を捕らえます。しかし、当時の皇帝徽宗(きそう)の子である『高宗』が難を逃れて、8年間逃げ回り、臨案(りんあん)(現・杭州)を都にした『南宋』を興します。その『南に建てた宋』である南宋と比較し、それまでの宋を『北宋』と呼ぶことになっています。
実は、この南宋が作られた場所はとても恵まれた土地でした。それに気づいていなかった金は、南宋の存在を認め、彼らと和解して維持させ続けました。
夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→唐→宋
上記の記事の続きだ。『唐』が衰退し、『五代十国時代』は武力がものをいう時代、つまり『武断政治』が行われ、それが次の王朝である『宋』に影響してくるのである。『唐』は『安史の乱』以降も、16代も皇帝が続いたので結構長続きしたが、結局、その節度使の『朱全忠(しゅぜんちゅう)』に国を乗っ取られ、滅亡してしまう。それが907年のことである。
[朱全忠(しゅぜんちゅう)]
一度流れを見てみよう。
『唐』が滅亡し、『五代十国時代』が続き、再び中国が再統一されるのが、979年のことだった。こうして作られた『宋(そう)』王朝だが、実は趙匡胤が皇帝になったのは、弟の太宗が黒幕だったという話がある。兄である趙匡胤は穏やかな性格で、弟に絵を描かれて、いつの間にか皇帝の座に座らされたという。これは『陳橋の変』としても有名で、あるとき趙匡胤が酒を飲みすぎて泥酔し、朝起きてみると外が騒がしかった。そして半ば強制的に皇帝にさせられたというのだ。
[趙匡胤(ちょうきょういん)]
後周の『世宋(せいそう)』の下についていた趙匡胤だったが、世宋が死んだ後、後を継いだのが7歳の幼児だった(恭帝)。だから、彼の代わりに趙匡胤を皇帝にし、国を治めようとしたのだ。
しかし、兄である趙匡胤は、酒を好み、武人気質であり、弟の太宗は、酒は飲めず、遊興を避けて政務に励み、余暇には読書や書を楽しむ、文化人だった。一説には、兄の趙匡胤が、無欲で人望があり、穏やかだったというが、どちらかというとその評価がふさわしそうなのは、弟の太宗かもしれない。
[太宗]
とにかく、『五代十国時代』にあった『武断政治』とは違い、『宋』は『文治主義(文治政治)』を行った。『隋』の時代に楊堅が、『科挙』という試験を導入し、それまであったコネ重視の『腐敗』を断ち切り、実力を正当に評価するようなシステムを考案したわけだが、その『科挙』に加え、『殿試(でんし)』という、いわば『科挙の最終試験』を取り入れ、更に優れた役人を採用しようとした。
そして、『唐末期』、『五代十国時代』の混乱を『節度使』にあると見て、節度使を廃止。地方の役員たちのような立ち位置にあった彼らのような部署ではなく、皇帝の直属の軍を強化し、精鋭部隊を作ったのである。しかし、そのメリットとデメリットを見てみよう。
節度使廃止のメリットとデメリット
メリット | 地方に無駄な勢力がつかない |
デメリット | 地方が弱体化し、異民族の侵入に弱くなる |
皇帝周りが強くなるのはいいが、『国全体』として考えたとき、バランスが悪くなった。先ほどの隋の記事にも書いたが、古代から中華は『天子』を津中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。
東夷(とうい) | 日本、朝鮮等 |
西戎(せいじゅう) | 西域諸国等 |
南蛮(なんばん) | 東南アジア、西洋人等 |
北狄(ほくてき) | 匈奴等 |
『秦』が中国を統一して以来、歴代王朝を悩ませ続けていたのが、ここでいう『北狄(ほくてき)』にいた匈奴等だった。漢を作った劉邦も、この『匈奴(きょうど)』には毎年貢物を送るほど、弱腰の外交をしていたのである。『隋』を作った楊堅も『鮮卑(せんぴ)』の出身だったともされている一族だ。それからトルコ系民族の『突厥(とっけつ)』や、『高句麗(こうくり)』。このような異民族と勢力争いを続けて、中国の歴史は作られていったのである。
そしてこの『宋』の時代も、北方民族に『契丹族(きったんぞく)』があった。節度使を廃止し、異民族からの侵入に弱くなった宋は、これを『お金』で解決する選択肢を選ぶ。劉邦も匈奴に貢物を送っていたのだから、まあ同じようなことだろう。
具体的には、3代目の『真宋(しんそう)』の時代に、契丹族の『遼(りょう)』という王朝と『澶淵の盟(せんえんのめい)』を結び、
また、別の民族である『西夏(さいか)』には、
を貢いだ。しかし、劉邦の時代と比べて、もっと金遣いが荒かったのだろう。皇帝の私利私欲に使ったわけではないが、こうした防衛費たる『金遣い』は、結局財政難を招くことになるのだ。その後、宗の雲行きは怪しくなる。6代皇帝の『神宗(しんそう)』が、王安石という人物を用いて行政・財政・教育を改革しようとしたが、保守勢力の抵抗にあってしまう。
だが、本当に金遣いが荒かったのは、そんな中皇帝についた8代皇帝の『徽宗(きそう)』だった。
[徽宗(きそう)]
彼は、芸術家としては一流だったが、政治家としては素人だった。つまり、自分の趣味には惜しげもなく金を使うが、皇帝として『生き金、死に金』を理解していなかったため、『死に金』を使い続け、民衆が反乱を起こす。これが、中国の四大奇書の一つ『水滸伝(すいこでん)』のモデルとなる。
1127年。そんな中、その弱体化に付け込んだのが、北方のツングース系民族である、『女真族(じょしんぞく)』だった。彼らは『金』という国家を建立し、瞬く間に前述した契丹族の『遼(りょう)』を飲み込み、北宗に乗り込み、皇帝一家をとらえた。これを『靖康の変(せいこうのへん)』という。
これにより、太上皇だった欽宗(きんそう)、そして8代皇帝の徽宗(きそう)が拉致され、北宋が滅亡する。しかし、徽宗の子である『高宗』が難を逃れて、8年間逃げ回り、臨案(りんあん)(現・杭州)を都にした『南宋』を興す。
[高宗]
宗の初代皇帝
北宋 | 趙匡胤 |
南宋 | 高宗 |
こうして宗は高宗によって『南宋』という形で何とか形成を保った。南宋では北宋を滅亡に追いやった金に対し、意見が分かれた。
この時、主戦派には『岳飛(がくひ)』がいて、保守派には『秦檜(しんかい)』がいた。秦檜は岳飛の暴走を恐れ、謀反の罪をかぶせて死に追いやる。それほどまでに、戦争を避けたかったのである。だが、後でこの歴史を知る人からすれば、岳飛に英雄の像を見た。それに比べて秦檜は『卑怯者』として、石像が作られた後も、棒で叩かれたり罵声を浴びる等の、散々な扱いを受けているという。
[杭州岳王廟(岳飛の廟)にある秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があった。右が秦檜で、左が妻の王氏。]
結局南宋は、この秦檜の考えもあって、北宋と同じように、金にお金を払い、和解することにする。Wikipediaにはこうある。
和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。
これにより、国土が半減したとはいえ、金と和解できたことで脅威が減少し、南宋は王朝を維持できるようになった。
実は、『岳飛』と『秦檜』の決断で正しかったのは、『秦檜』の方だったと言われている。下記南北朝時代の記事に書いたのはこうだ。
この南朝だが、北朝に広まった仏教文化とは違って『貴族文化』という優美な文化が栄えた。その理由の一つは、長江流域にあった豊かな稲作だったという。つまり、北朝よりも生産力があった。そうした事実が手伝って、南朝の人々は豊かな暮らしをしていたのである。
中国というのは、南の方がもともと生産力が強かった。南宋は金に北を取られるが、南は抑えたわけだ。これによって、かつて南北朝時代の南朝に、優雅な貴族文化が栄えたように、南宋は余裕のあるライフスタイルを送ることができ、150年は王朝を維持することができたのだ。
北め!南の力を知らないな?
ということなのである。
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