いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.東西遠征を繰り返して、世界制覇を実現させようとした人です。
2.インフレによる経済破綻、朱元璋(しゅげんしょう)による『紅巾の乱』。また大きくなりすぎたことも原因かもしれません。
彼が基礎を作り、5代皇帝のフビライ・ハンの時代にその領土は最大になりました。
チンギス・ハンが作った『モンゴル帝国』は、『宗』を脅かした『金』を脅かし、北インドと南ロシアも恐怖に陥れ、中国の統一も果たしました。世界征服もあと一歩というところまで勢力を拡大させることに成功しました。しかし、領土を拡大しすぎて一人のハンだけでは統一が難しく、モンゴルは4つに分かれます。
しかし最後は、チベット仏教にはまった皇帝たちが、豪華な寺院を建てる等して、大量のお金を刷り(交鈔)、それによってインフレが起きて経済破綻し、混乱に陥ります。そして、そこを好機と見た『支配されていた漢民族』たちが、『紅巾の乱』を起こし、滅亡してしまいます。その首謀者は、次の中国『明』の初代皇帝『朱元璋(しゅげんしょう)』でした。
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モンゴル帝国
上記の記事の続きだ。『金』によって8代皇帝の徽宗(きそう)が拉致され、北宋が滅亡する。しかし、徽宗の子である『高宗』が難を逃れて、8年間逃げ回り、臨案(りんあん)(現・杭州)を都にした『南宋』を興す。その南宋が発展した13世紀初めあたりには、金の更に北方の地にテムジンが登場し、全民族を統一する。1206年、彼は『部族会議(クリルタイ)』にて『ハン』の称号を得て、『チンギス=ハン』と名乗り、大モンゴルの皇帝となる。
チンギス=ハンの先祖は『蒼い狼と淡紅色の雌鹿』という伝説もあるくらい、神格化された大きな存在である。父が毒殺されたり、離反、襲撃等の様々な試練が降りかかるが、それを乗り越え、モンゴル高原の遊牧民を統一させる。彼は、普段は国民を遊牧民とさせ、1000人ずつに再編成し、戦いになると軍事組織化するという『千戸制』という制度を採用し、東西遠征を繰り返して、世界制覇の野望を着々と実現させようとしていた。
また、ウイグルを服属させ、『宗』を脅かした『金』を脅かし、北インドと南ロシアも恐怖に陥れた。チンギス=ハンはいきなり戦争を仕掛けるのではなく、まず最初に使者を送って、友好関係を求めた。といっても『降伏する』ことを求めたというのが近いかもしれないが、とにかく彼の意向に従う場合は寛大に、そして逆らう場合は情け容赦なく叩き潰したという。
モンゴル帝国の重要人物
初代モンゴル帝国のハン | チンギス=ハン |
2代目 | オゴタイ=ハン |
4代目 | モンケ=ハン |
モンケ=ハンの弟 | フラグ |
5代目 | フビライ=ハン |
彼が死んだ後も、彼の子孫たちは活躍し続けた。
このバトゥというのはチンギス=ハンの長男ジュチの子供で、チンギス=ハンの攻撃性と残虐性を備え持っていた。そして、ドイツ・ポーランド軍を『ワールシュタットの戦い』で破る。
モンゴル軍2万と、ドイツ・ポーランド連合軍2万5千の戦いだったが、機動力に勝ったバトゥ率いるモンゴル軍が勝利。ポーランド大公ヘンリク2世を含め、多くの兵士が殺され、そこには『死体の山(ワールシュタット)』ができたことが名前の由来。
彼らモンゴル軍がなぜ強かったかを知るためには、冒頭の記事に書いたことを見てみよう。
『五代十国時代』にあった『武断政治』とは違い、『宋』は『文治主義(文治政治)』を行った。『隋』の時代に楊堅が、『科挙』という試験を導入し、それまであったコネ重視の『腐敗』を断ち切り、実力を正当に評価するようなシステムを考案したわけだが、その『科挙』に加え、『殿試(でんし)』という、いわば『科挙の最終試験』を取り入れ、更に優れた役人を採用しようとした。
宗(南宋)は、『文治政治』を行って、軍事力は弱体化してしまっていた。しかし、モンゴル軍はまさに『武断政治』に近いような実力主義を採用して、戦闘に特化した精鋭部隊を作ったからだった。だから少人数で大人数に勝った。下記の記事で、赤壁の戦いにあった『呉』の周瑜、『蜀』の諸葛亮孔明の二人の天才策士の話を書いたが、彼らのように『知恵』を使って勝利したというよりは、単純に彼ら兵士一人一人の力が強かったのである。
そして、5代皇帝のフビライ=ハンの時代へと続いていく。
フビライ=ハンの時代に、国号は『元』となった。しかし、領土を拡大しすぎて一人のハンだけでは統一が難しく、モンゴルは4つに分かれる。
中国 | 元 |
中央アジア | チャガタイ=ハン国 |
西アジア | イル=ハン国 |
ロシア | キプチャク=ハン国 |
フビライ=ハンは、現在の北京にあたり大都に遷都し、『元』を作ったわけだが、元となった後も相変わらず領土拡大の為にせわしなく動いた。
この元寇(蒙古襲来)だが、面白い話がある。
日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。1度目を文永の役、2度目を弘安の役という。蒙古襲来とも。
[蒙古襲来絵詞前巻、絵七。【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵。]
この時、日本に『神風』が吹き、元軍は日本を侵略することができなかった。だが、実際には大風が戦局に影響を与えたわけではなく、国民の国防意識を高めるために創作されたものだったという。下記の記事で、『ワンピース』の『ワノ国』編で、ワノ国(日本)の海域は普通じゃなく、ルフィたちがなかなか島に上陸できない、という描写について書いたが、もしかしたらこの話がストーリーに影響しているのかもしれない。
だが実際には、ベトナムを襲った際にも、暴風雨が艦隊を沈めたという。ただ、ベトナムに関しては食料の不足で退却したという話もあるのでわからないが、上記に書いたエジプトのように、『地の利』というものは戦争に大きな影響を与えることがわかるワンシーンである。
『東方見聞録』で有名なマルコ=ポーロは、ヴェネツィア生まれの商人だが、元の都でフビライ=ハンに17年仕えた。17歳で中国へ旅立つ彼が祖国へ帰国したのは41歳だった。フビライはポーロらの帰郷をしぶったが、イル=ハン国の重臣3人と同国へ嫁ぐコカチン姫を海路無事に送り届ける役目を引き受け、出国の許可を得た。実に24年間もの大旅行を記録したのが、『世界の記述(東方見聞録)』だったというわけだ。
『東方見聞録』に見られる日本の記述。日本(ジパング)は、民家や宮殿が黄金でできている黄金の国だと紹介されている。
では、モンゴル(元)はどのようにして滅んでしまったか。それは、『インフレ』だった。チベット仏教にはまった皇帝たちが、豪華な寺院を建てる等して、大量のお金を刷り(交鈔)、それによってインフレが起きて経済破綻し、混乱に陥る。そして、そこを好機と見た『支配されていた漢民族』たちが、『紅巾の乱』を起こすのだ。
その首謀者は『朱元璋(しゅげんしょう)』という人物だった。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代をまとめた人気動画があります。
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