いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.イギリスと清の間で起こったアヘン(麻薬)を中心とした戦争です。
2.アヘン依存を力づくで断ち切ろうとした清が、イギリスを攻撃してしまい、イギリスが艦隊を出して清を攻撃しました。
イギリスは清と貿易がしたかったのですが、清が殿様商売をしていました。
清が『お茶』等、イギリスは『銀』で取引するのですが、その取引は清が有利であり、銀が大量に清に流れる状態でした。そこでイギリスは、
という『三角形』の貿易を考えました。『三角貿易』です。そして清の幹部たちを『アヘン中毒』にさせ、アヘンを欲しがらせる状況を作ります。イギリスはただインドに綿織物を流しておけば、後はインドが採算を合わせる為に勝手にアヘンを清に流しますから、これですべての国が『満たされる』状況になるわけです。
しかし、やはりそうした強引な方法は長続きせず、清がアヘンの貿易を厳しく取り締まります。その時イギリス人の居住区までも軍隊で取り締まったことで、イギリスが艦隊を出して清を攻撃し、『アヘン戦争』が開幕しました。戦争は完全にイギリス側の勝利で、負けた清は不平等な条約を結ばざるを得ませんでした。
夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→唐→宗→元→明→清(アヘン戦争)
上記の記事の続きだ。『清』は6代目乾隆帝の時代に最盛期を迎えるが、積極的な遠征が重なり、財政難に陥る。また18世紀末には『白蓮教徒の乱』が起きるなどして、徐々に衰退の途を辿る。
6代目 | 乾隆帝(けんりゅうてい) | 1735~1795年 | 貿易制限令 |
そのころ、イギリスが世界を先駆けて産業革命を達成し、貿易路を拡大させていた。そして乾隆帝時代の末期、インド産のアヘンが中国内に持ち込まれるようになってしまう。これが、後の『アヘン戦争(第一次アヘン戦争)』の原因となる。
『清』は、
等をイギリスに輸出し、イギリスはアヘンを清へ輸出する。特にお茶だ。中国との貿易額の9割がお茶の輸入にあてられた。しかし清は乾隆帝の時代に『貿易制限令』を出していて、貿易港を広州のみにし、『公行(こうこう)』という組織が対外貿易を独占していた。つまり、イギリスを含めた外国は、貿易をする際は必ずこの公行という組織を相手にしなければならず、ほかの選択肢がなかった。
したがって、公行がいかにお茶の値段を吊り上げようとも何も言えず、ただただ『銀』だけが中国に大量に流れ出る形になった。清は殿様商売をしていたのだ。清からすれば、『お茶を輸出させてあげるだけでありがたく思え』という考え方があったのである。
そこでイギリスは『三角貿易』を始める。
イギリスは一度インドへ自国の製品を輸出し、インド産のアヘンを清へ輸出。そしてインドを経由して支払いに使った銀を回収するというする三角貿易によって利益を上げる。
イギリス | 銀、綿織物 |
清 | 茶、絹、陶磁器、銀 |
インド | 綿花、アヘン |
このままでは銀だけが不平等に消えるだけ。そして三角貿易を考えた。
まず、アヘンで清の皇族や官僚を中毒にさせた。清の最高幹部がアヘン中毒になったおかげで、清がアヘンの輸入を公認するわけだ。だが今度はそのせいで清にあった銀が、イギリスに大量に流れてしまうことになる。そこで清は慌ててアヘンの貿易を禁止するが、もはや手遅れ。依存症になった官僚たちが密輸』にて大量に輸入しようとする。
1839年、清国政府はアヘンの輸入を禁止し、『林則徐(りんそくじょ)』を広州へ派遣。
[林則徐(りんそくじょ)]
アヘンの密輸や密売を徹底的に取り締まった。林則徐は皇帝が臨時に全権を与える欽差大臣(きんさだいじん)を務め、地方官を歴任。民衆に慕われる人望のある人物だった。1840年、今回もまさに、8代目皇帝の『道皇帝』から欽差大臣としての特命を受け、アヘンの貿易を厳しく取り締まる。
だが、イギリス人の居住区までも軍隊で取り締まり、イギリス商館立ち入り調査がおこなれると、実力行使に出たことで軋轢が生じる。イギリスがその清王朝の態度に不満を覚え、ついに『アヘン戦争』が勃発してしまうのだ。イギリスは艦隊を出して清を攻撃した。
[イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵]
戦争は完全にイギリス側の勝利。1842年には、清がイギリスに『南京条約』を締結させられる。更にイギリスは、広州だけだった貿易港を5港に増やし、そのお中で最も安い値段を提示した商人からお茶を変えるようになった。
[イギリス軍艦「HMSコーンウォリス」号内で締結された南京条約]
まず香港島をイギリス領土にすること。そして、お茶の独占販売をしていた公行を廃止し、承認同士の自由な取引を可能にさせた。
そのほかにもイギリスは、
等の不平等条約化を推し進めていった。
ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約。この場合、清がイギリスのやることに文句を言わないようにする契約。
[1841年8月26日、厦門で清軍を蹴散らす第18近衛アイルランド連隊]
実はイギリスのこうした行動には裏があった。本当は『綿織物』を売りたかったイギリスだったが、清が綿織物ではなく『銀、アヘン』にしか興味を示さなかったので、こういう結果になったのだ。だからイギリスとしては、戦争を起こしてでも、それによって貿易港が開港され、商売が自由になってほしい。そういうイギリスの野心が、このあたりの歴史から垣間見えるわけである。
更に、1856年、『アロー号』というイギリス船を装った海賊船が広州沖に集まっていた。清は海賊として彼らを逮捕するのだが、その時に使っていたイギリスの国旗を海に捨てたことを理由に、イギリスが激怒。こうして、『第二次アヘン戦争(アロー戦争)』が引き起こされることになる。
[アロー号を拿捕する清国兵]
イギリスは、フランス軍と連合軍を組み、清を襲撃。清は降伏するしかなく、広州や天津は占領された。そこで更に『天津条約』を結んで停戦し、連合軍は一度本国に帰国。だが、その間に清の内部で彼ら外国に対する反発心が芽生えてきて、それが沸点を迎える。そして連合軍が戻ってきたとき、清軍は連合軍の艦隊に砲撃してしまったのである。
『窮鼠猫を噛む』である。だが、しかしネズミはネズミだった。それに激怒した猫(連合軍)は、北京まで侵攻し、清皇帝の離宮である円明園を破壊し、略奪。さすがにもうこれ以上は無理だと思った清は、ロシアに仲介を依頼して、『北京条約』が結ばれ、再度戦争は停戦となった。しかし、『天津条約』の時のようには甘い結果にはならなかった。清は、更に厳しい条件をのまなければならなくなる。
等の条件を求められた。領土をさらにイギリスに取られて、お金が外国に流れる仕組みまで作られたわけだ。戦争に負けるということは、そういうことなのである。そして『銀』もイギリスに流れるようになった。更に、仲介を依頼したロシアにも報酬を払わなければならず、沿岸州を譲り渡すことになってしまったのである。
実はそれは大きな問題だった。当時、清の民衆は『銀』で税金を納めていたので、銀がなくなると状況が厳しくなり、生活が追い詰められる。そこで、洪秀全(こうしゅうぜん)という人物が登場する。彼は、清の官僚であり、学者だった。アヘン戦争に参加し、林則徐を指示していた人物である。彼の思想は日本の吉田松陰、佐久間象山ら日本の幕末開国論者に影響を与えたほどである。
[洪秀全(こうしゅうぜん)]
彼は、清を倒して『太平天国』という新たな国家を建国しようとする。したがって彼の肩書は、太平天国の最高指導者『天王』ということになる。この動きに大いに賛成した民衆は、次々と太平天国に加わり、南京を制圧して、『天京』として新国家建設を宣言。
しかしそれに対抗し清も義勇軍『湘軍(しょうぐん)』を組織。曾国藩(そうこくはん)といった人物を中心として、太平天国に立ち向かう。曾国藩は、清末政界の最大の実力者と言われた、李鴻章(りこうしょう)を指揮し、南京を占領。太平天国を滅ぼすに至る。そこには、イギリス・アメリカからなる『常勝軍』の姿もあった。
曾国藩と李鴻章はこの事件を機に、西洋諸国の技術に感心し、『洋務運動』という近代化運動を行い、兵器工場の建設や鉱山の開発などを通じて、富国強兵を進めた。
[福建省福州の造船所・福州船政局]
明治維新頃の日本、1885年に福沢諭吉が『脱亜論』を発表し、欧米諸国と対等に接して近代化を進めようとしたが、この洋務運動もそれに似ていて、とにかく外国を意識するようになったということである。
この頃、世界はちょうど他国を支配して植民地化したり、開国させたりといったように、世界中の国々が自国の領土や権利を拡大、あるいは保守するために躍起になっていた。そして同じころ、日本にとある船が来航する。
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