ペリーはどうして来日したの?わかりやすく簡潔に教えて!
この時期世界各国で『開国』や『植民地化』が進んでいたからです。
海外から来る国は基本、まず『開国』を求めます。
そして、貿易をしてそれぞれが利益を得るわけです。しかしペリーはかなり横柄な態度でこの国に訪問したようですから、貿易の目的は『お互いの利益』というよりは、一方が不利になるような条件で話を進めようとしたでしょう。当時の政治的最前線にいた人の根底にあるのは『自国の利益と発展』ですから、それが満たされることを何よりも重視して動いていました。
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日本開国
上記の記事の続きだ。こうして『清』は『アヘン戦争』を経て、徐々に衰退していくことになる。そしてちょうどその頃、日本は江戸時代にあった。第二次アヘン戦争でもあった『アロー戦争』は1856年に起こったが、1853年の日本でも大きく歴史が動いていた。
清は、公行が広州のみを開港し、お茶の輸出や、貿易を制限していたわけだが、日本も同じように規制があり、長崎の出島でしか貿易が認められていなかった。そして、海外に自由に渡航することもままならなかった。つまり、『鎖国』していたのである。そこへ1853年、浦賀にアメリカの東インド艦隊(黒船)が来航。ペリーが高圧的な姿勢で日本に『開国』を求める。
[マシュー・ペリー]
ちなみにペリーは浦賀出現の1か月半ほど前に、琉球王国の那覇沖に停泊し、首里城を訪問していた。王国の謝絶を無視して、武装兵を連れて首里城まで行進し、最後には武装解除を条件に場内に招き入れたが、どちらにせよかなり横柄な態度でこの国に訪問したのは確かなようだ。
しかし江戸幕府は彼の意向を承諾し、翌年にはアメリカと『日米和親条約』を結ぶ。そして、
とも同様の条約を結んだ。
日米修好通商条約というのは簡単に言えば、イギリスが清に求めたような『自由貿易』だ。もちろん、清のように不平等な条約を押し付けられたわけではなく、戦争をして結んだ条約でもないので、条約は友好的に結ばれた。だがもちろんそれは表面的なものであり、実際の主導権(イニシアティブ)や有利性(アドバンテージ)は平等かどうかは違う話となる。
しかしとにかくこうして日本も、とうとう海外諸国の文化と接触するようになっていくのだ。
[嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフ]
だが先ほども言ったように、海外諸国は日本に対し、決して友好的というわけでもなかった。日本だけを特別扱いするということはないのだ。つまり、日本も『植民地化』に対する危機が迫っていたのである。
このあたりのことについてはまた『日本史編』の記事を追記し、ここにリンクを張ることになる。日本は聴衆と薩摩藩を中心として討幕運動を起こし、1868年に明治維新となる。そして日本は近代化国家へと歩き出すことになるわけだ。
ちなみに下記の記事に、
春秋時代の最初は、『周王朝を守る覇権争い』という名目で争いが行われた。周王朝を尊重し、異民族から守ることを『尊王攘夷』といい、日本でもこの言葉が使われるようになった。
と書いた。天皇を守り(尊王)、外敵を打ち払う(攘夷)鎖国的な思想の『尊王攘夷派』と、長州・薩摩藩を筆頭とする『開国派』の戦いは、この時代の大きな特徴であり、歴史ファンも多い。新選組、坂本龍馬、西郷隆盛、といった有名どころがでてくるシーンである。
冒頭の記事のイギリスと清の関係を考えてもわかるように、この頃世界は、植民地化運動に躍起になっていた。イギリスは『三角貿易』で登場したインド支配も進めていたのである。
『インド独立の父』と呼ばれたガンジーは、イギリスがインドを植民地として、差別を行っていたことに対して抵抗した。
フランスは1887年から現在の、
に相当するインドシナを支配し、1954年まで植民地化は続いた。オランダは19世紀末にインドネシアを支配し、スペインはフィリピンを支配。日本のこうした海外の動きを無視することはできなかった。そしてその後日本は、1875年に江華島事件を機に朝鮮を開国させ、近代外交の主導者となる。そしてこれが後の『日清戦争』の布石となっていく。
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