いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『辛亥革命(しんがいかくめい)』で『清』を打倒し、『中華民国』を建国した人です。
2.袁世凱(えんせいがい)という人物が中華民国ができる混乱時に乗じて作った、一時的な国です。すぐに崩壊しました。
清は戦争に負け続けたのにも関わらず、皇帝が贅沢を繰り返していました。
もはや清の権威は失われていました。そこに孫文が登場し、共和制(王のいない国)『中華民国』の建国を宣言します。しかし、袁世凱(えんせいがい)という清側の人間がやり手で、孫文率いる革命軍は窮地に追い詰められました。そして袁世凱は、
と主張。そして1916年、袁世凱は『中華帝国』に改めます。しかし、そのような無理な政治によって内外から激しい非難を浴び、たったの3か月で退位。本人もすぐに病死しました。結果中華帝国はたったの3か月で袁世凱の命と野望と共に消えた、幻の国となりました。
夏→殷→周→秦→漢→三国時代→晋→南北朝時代→隋→唐→宗→元→明→清→中華民国
上記の記事の続きだ。こうして次々と列強が清に攻め入るようになってしまい、清は『半植民地化』していくわけだが、そうなってようやく清も、本格的に近代化運動をするべきだと考えていく。『洋務運動』だけでは弱かったのである。そして『変法運動』を起こす。光緒帝(こうしょてい)を筆頭に、洋務運動以上の近代化運動、つまり、富国強兵や政治改革を図った。
しかしそこに皇族の『西太后(せいたいこう・慈禧太后(じきたいこう)』という人物が立ちはだかる。
[慈禧太后 晚年の真影]
彼女は『アヘン戦争』のときには7歳、そして第二次アヘン戦争である『アロー戦争』の時には21歳だった。その時はすでに、時期皇帝だった『同治帝(清10代皇帝)』を出産していた。1861年に、夫であり9代皇帝の咸豊帝(かんぼうてい)が病死すると、まだ5歳だった息子を即位させ、摂政となる。彼女の人生も大変だ。そうして幼い頃から戦争に直面し、自国が何度も窮地に陥ることに直面している。
天皇が幼少であるか女帝である場合、天皇に代わって政務を行なう職。
日清戦争、清仏戦争、散々な目に遭った。そして更に、この光緒帝が行った変法運動で、保守派がすでに摂政を退いていた彼女を担ぎ出し、光緒帝を幽閉してしまう(戊戌の政変)。
そしてもう一度清は、保守派が優勢となる。しかし、1900年、外国人への反発から起きた『義和団』という宗教結社が中心となって起きた『義和団事件(義和団の乱)』が起きる。西太后はそれを支持して諸外国に宣戦布告するが、英米仏露日等の、列強8か国連合軍になす術はなかった。
[天津の戦い(義和団の乱)]
しかし西太后はただの『運の悪い人』というわけでもなく、負の渦を巻くような原因も持ち合わせている人だった。上記の記事に、清皇帝の離宮である円明園の話を書いたが、同じくアロー戦争で廃墟同然となってしまっていた『頤和園(いわえん)』の修築命令を出し、そこを離宮にしようとしていた。当時はそんな経済的余裕はなかったはずだが、彼女には戦後の復旧の優先順位として、自分のそばにある離宮の修復を命じてしまったのである。つまり、贅を尽くした生活を送っていたわけだ。それが祟って、様々な問題を呼び起こしたのかもしれない。
列強に敗北した後、彼女はようやく近代化に目覚めるが、時すでに遅し。アヘン戦争らと同じように不平等条約である『北京議定書』を結ばれ、外国軍隊の北京駐留を受け入れたり、首都北京や紫禁城をも占領され、もはや清の権威は元に戻らなかった。
皇帝が済む紫禁城の、後宮は東西に分かれていた。皇后は東に、第2夫人は西の宮に住んだため、西太后と呼ばれたわけである。
そこに登場するのが革命家『孫文』だ。
柔軟性に富み、グローバルな視点を持った孫文は、清王朝を客観的に見ていて、
中国を救うには新たな国家の樹立が必要だ!
と確信した。そして東京にて、日本に逃れ革命運動を起こしていた『黄興(こうこう)』らと共に『中国同盟会』を組織した。孫文はハワイや香港、日本でも暮らした経験があるのである。そんな孫文が、神戸高等女学校で言ったのはこうだ。
『東方文化は仁義道徳を主張する王道、西方文化は功利強権を主張する覇道。世界の前途に対し、西方覇道の手先となるか、東方王道を守る干城となるか、日本の皆様は慎重に考え選択していただきたいものです。』
『ビジュアル 世界史1000人(下巻)
この演説の3か月後、死の床にあった孫文は、駆け付けた日本人援助者に、『私が神戸に残した演説は日本人に響いたか』と尋ねた。『十分に』とのコア絵を聞くと、もう体も起こせなくなっていた孫文の顔に、すっと赤味が差したという。
熱い心を持っていた人だったようだ。そんな彼の熱い心が連鎖して、当時、次々と要人を巻き込み、『清』の次の王朝、いや、『国』である共和制『中華民国』の建国を宣言する。孫文は、中華民国の『臨時大統領』として就任する。これら一連の動きを『辛亥革命(しんがいかくめい)』という。
君主を持たない政体、君主制ではない政治体制。
『ジャッキー・チェン記念すべき100本目の映画』として話題になった『1911』は、この時代を描写したものである。『ラストエンペラー』の時代。つまり、中国に『皇帝』がいた、最後の時代の話だ。
臨時大統領だった孫文だが、では、中華民国の初代大統領は誰か。『袁世凱(えんせいがい)』である。だが実は、彼は最初『清』が用意した人間だった。清は、辛亥革命を鎮圧するために袁世凱を起用したのだが、実は袁世凱は、西太后クーデターを目論む同僚たちを発見し、それを報告して、追放された人間だった。つまり、清との間に遺恨があり、清を恨んでいたのだ。
そして袁世凱は強かった。清朝正規軍を率いた彼は、革命軍を粉砕まで追い詰め、突然攻撃を中止し、こう言った。
『要求通り、共和制を実現させよう。溥儀(ふぎ)は退位、首都も南京へ移す。その代わり新生中華民国の臨時大総統に私を就けよ。』
孫文はその要求をのんだのだ。だが、その後の袁世凱がひどかった。
1916年、袁世凱は『中華帝国』に改めたのだ。だが、そのような無理な政治によって内外から激しい非難を浴び、たったの3か月で退位。まさしく『臨時』の文字通り短命の皇帝となった。そしてその3か月後に病死したのである。そしてここから中国は、反乱を起こした地域の有力者たちが互いに争う、新たな戦国時代に入る。彼の部下たちが新たな『中華民国』を存続するが、各地で革命が起こるようになってしまうのだ。
[中華民国成立を祝うポスター 左に袁世凱・右に孫文]
中国は、政治的には独立をするものの、経済的にはヨーロッパに依存する形となる。かつて、清と言えば東アジアの要だったが、ここから中国の『半植民地化』が進んでいくのである。
中国(CHINE)と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画。人物は前列の左からそれぞれ、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清を示している。
ちなみに、第12代清朝皇帝にして、2000年以上続いた帝政中国の最後の皇帝『溥儀(ふぎ)』は、『ラスト・エンペラー』と言われている。辛亥革命により、紫禁城での暮らしを中華民国政府に許されるのはいいが、12年後、クーデターで応急を追われる。その時手を差し伸べたのは、日本だった。溥儀は、関東大震災の時、義援金を日本に送ってくれていたのだ。それに恩義を感じていた日本は、溥儀に恩返しをしたのである。
日本とトルコにも同じような話があるが、ソクラテスがこう言い、
松下幸之助がこう言うように、
この世に何かを求めるなら、まず自分が相手に奉仕の心で尽くすことが最初なのかもしれない。
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