いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.中華民国の初代総統、蒋介石(しょうかいせき)率いる『北伐(ほくばつ)軍』は中国統一の為に満州が邪魔でした。
張作霖(ちょうさくりん)は満州の重要人物だったので、彼がいなくなれば満州の進出が容易になり、そして北伐軍が中国を統一しやすくなるからだったと言われています。
2.爆殺したのは日本軍(関東軍)ですが、蒋介石率いる『北伐軍』が関与していたとされています。
3.中国内で内乱的な状態になりますが、『打倒日本』という一つの目標を作って結果的に中国はまとまりました。
『打倒日本』になった理由は、領土拡大を狙って日本が積極的に他国を侵略していたからです。
更にその張作霖爆殺事件が起き、実際に日本軍がそれに関わりました。そうした日本に抗うという意味で『抗日』という考え方が生まれました。ただ『中国国民党』の蒋介石はどちらかというと抗日には興味はなく、同じ国内の『中国共産党』を警戒していました。むしろ、爆殺事件の裏にはその蒋介石がいたとも言われています。
ですね。しかし、張作霖の息子だった張学良(ちょうがくりょう)は、日本を敵視します。そして、日本寄りでもあった蒋介石を拉致して監禁し、説得。内戦停止と共産軍との共闘を約束させます。そして『第2次国共合作』という、『中国の同盟』が作られました。これで、
という構図が作られやすくなってしまいました。それがこの後起こる日中戦争の原因になる『満州事変』に影響していきます。
日本開国→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦・日中戦争
上記の記事の続きだ。こうして日露戦争が終わり、その5年後、1910年に日本は、『大韓帝国』を併合した。大韓帝国とは、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号である。
ある国の領土の全部または一部が、他国の完全な主権(支配)下に置かれること。
『第一次世界大戦』についてはヨーロッパ編で書く。今はアジア地域の世界史をまとめているため、別記事に詳細を書こう。ここで追及していくのは、『日中戦争』までの経緯である。
『清』の滅亡2年後、1914年、サライェヴォ事件を契機としてヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、欧州諸国は4年にわたる長期戦を受けて、手一杯となる。それを好機と見た日本は、手薄になったアジア、中国大陸での勢力拡大を狙った。日本は、『日英同盟』にて連合軍入りしているということで、第一次世界大戦に参戦し、ドイツに宣戦布告する。
中国には、青島(チンタオ)を中心とする山東半島、赤道以北の南洋諸島といったドイツ領の島があったが、日本はここを狙って中国で自国の領土を拡大しようとしたのだ。更に日本は中国の袁世凱政府に『二十一カ条の要求』を突き付け、袁世凱にこれを受諾させる。
遼東半島や山東半島での日本の利権を拡大するという内容のもの。
小池張造(1873-1921) 明治-大正時代の外交官。加藤高明外相秘書官などをへて、ニューヨーク・奉天などの総領事をつとめる。大正2年外務省政務局長となり、加藤外相のもとで対華二十一ヵ条要求の原案作成にあたった。のち久原本店理事。福島県出身。東京帝国大学卒。
つまり日本は、日露戦争に勝ち、列強の仲間入りをして『思い上がり』、自国の領土を拡大しようと躍起になっていた。中国、ドイツを敵に回し、本格的に自分たちの力を世界に知らしめようと画策していたのである。
しかしこの時、北京大学の学生たちが中心となったデモ、『文学革命』が起こる。
らを筆頭に、抗日的な思想が巻き起こることになる。胡適は北京大学の学長を務め、魯迅は日本に留学した経緯もある。同じ日本に滞在した孫文とは違い、日本には悪い印象しか持たなかったようだ。それもそのはず、その『二十一カ条の要求』があまりにも一方的で理不尽だったのだ。
しかし、第一次世界大戦での『パリ講和会議』でこの要求を列強が承認。それを受け、北京大学の学生を中心に、5月4日、『五・四運動』が起きる。中国はますます日本への嫌悪感を抱くようになっていった。
[デモ行進する北京大学の学生]
しかしこの『五・四運動』は、中国内部での結束を固めるような側面もあった。孫文の『中国国民党』、社会主義政党の『中国共産党』は意見が合わなかったが、外部である日本等への問題を通じ、一時的に手を組む形となったのだ(第一次国共合作)。しかし国共合作は長くはもたなかった。
その頃、中国の激しい北伐戦が始まっていた。北伐は軍閥を討つために孫文が発案していて、それを蒋介石(しょうかいせき)が引き継いでいた。蒋介石は、中華民国の初代総統の地位にある人物である。
[国民革命軍を率いる蒋介石(1926年)]
蒋介石は、反共産主義だったため、北伐過程で労働運動を抑え、浙江(せっこう)財閥などと手を組み、中国共産党への大弾圧(上海クーデター)を行う。共産党員を虐殺し、これによって国共合作は破綻。蒋介石は、孫文の興した『中国国民党』だけを率いて軍閥を破り、北京に入って北伐を完成させ、国民党による中国統一を宣言した。
権力を掌握する政治勢力としての軍の組織。
軍閥は、相互対立と内部腐敗でガタガタの状態だったのだ。蒋介石は日本との衝突を避けながら、北京に入城し、満州にいた張作霖(ちょうさくりん)を追い払い、退避途上で爆殺された張作霖に変わり、長男の張学良が蒋介石に従属し、ついに全中国の統一が成し遂げられた。
この張作霖が満州で爆殺された事件を『張作霖爆殺事件』と呼ぶ。爆殺したのは日本軍(関東軍)だった。彼が列車で満州に戻る途中で、列車ごと爆破して、彼を爆殺したのだ。実は、この事件にはその蒋介石率いる『北伐軍』が関係しているともいわれている。
[爆破現場の状況、右下の残骸があるところが爆破地点]
言ったように、北伐軍は軍閥を討滅しながら中国の統一を行っていた。しかし、その途中にもちろん『満州』がある。張作霖は、満州の軍閥だった。最盛時には36万もの兵力を誇るほどで、日露戦争でロシア側スパイとして捕まり、日本に寝返っている人物でもあった。袁世凱の引き金で軍閥の首領に成りあがった彼は、北伐軍からすると、打倒の対象だと考えられた。
彼がいなくなれば、満州の進出が容易になり、そして北伐軍が中国を統一しやすくなる。『張作霖爆殺事件』の裏にあったのは、様々な政治的陰謀だったと考えられているのである。では、蒋介石は日本とつながりがあったのか。蒋介石は、日本の高田の砲兵学校で軍事教育を受け、日本に亡命した際には日本政財界による支援で清朝打倒に奔走するほか、宋美齢との結婚式を日本で挙げることを希望していたなど、その後敵味方に分かれて戦うことになった日本と、生涯に渡り深い関係を持っていた。
[蒋介石を日本亡命中に庇護していた犬養毅と頭山満とともに(1929年)]
蒋介石は日本軍との戦いには消極的で、むしろ中国共産党を警戒していた。しかし張学良による西安事件が起こり、共産党と協力して、日中戦争から1945年までは日本軍と戦う事となったが、その当時の自身の日記では一転して日本を「倭寇」と表記し終始蔑んでいた。彼は明治天皇を尊敬する一面も持っていたという。
しかし、今出てきたように、爆殺された張作霖の息子である張学良は、日本が嫌いだった。彼は、抗日の為に蒋介石の国民政府の支配下に入る。そして、命令によって共産軍の討伐をするが、内戦の停止を呼びかける共産軍の方に同調することになり、蒋介石を西安で拉致して監禁し、説得。内戦停止と共産軍との共闘を約束させる。そして『第2次国共合作』を成立させることになる。
そしてそのあと、日中戦争の原因になる『満州事変』が巻き起こってしまうのである。
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