ペリクレスは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
貴族だけが行っていた政治を、成年男子であれば参加できるようにした人です。
ペリクレスは貴族政から民主政に変えました。
ペリクレスだけでそうしたわけじゃなく、ドラコン、ソロンとその前にも政治家がいて、徐々に貴族だけが持つ特権が薄れてきて、民衆に発言力が与えられていくようになりました。そしてペリクレスのときに民主政治が完成したということですね。また、ペリクレスの時代はアテネの黄金期で、古代ギリシャのアテネが最も栄えた時代だと言われています。
都市国家ポリス・ペルシャ戦争
上記の記事に書いたように、ローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始める。つまり、
という2代帝国が、現在のヨーロッパや中東地域で頭角を現していた。記事には世界初の世界帝国『アケメネス朝ペルシャ』について書いた。次に見るのは、マケドニア王国やローマ帝国が台頭する前の時代だ。それは、
という時代である。エーゲ文明とは、古代ギリシアにおける最古の文明で、
の三文明のほか、さらに古い段階のキクラデス文明やヘラディック期ギリシア本土の文化などがある。紀元前3000年頃から存在していた文明があるのである。
キクラデス | B.C.3000頃~B.C.2000頃 | キクラデス諸島 |
トロイア | B.C.2600頃~B.C.1200頃 | 小アジア半島西部トロイア |
ミノア | B.C.2000頃~B.C.1400年頃 | クレタ島・クノッソス |
ミケーネ | B.C.1600頃~B.C.1200年頃 | ミケーネ・ティリンス |
例えばこの『ミノア』だが、このクノッソスという場所には大きな宮殿跡があり、これがギリシャ神話に登場する『ミノタウロス』の住む迷宮の遺跡だとも言われた。
また、映画『トロイ』のモチーフとなった『トロイア戦争』は、このミケーネの時代に起きたものだと考えられている。この古代ギリシャには様々な神話が存在していた。
そしてそれらの文明が『ギリシャ文明』に移り変わるのだが、実はそれまでの400年間ほどの時代は『暗黒時代』とされていて、実態も解明されておれず、混乱の時代だったという話だけ存在している。とにかく、そのようにして古代ギリシャでの時間が過ぎ、紀元前8世紀頃、ギリシャ人はポリスと呼ばれる都市国家を形成し始めるのである。
『ポリスの高所』という意味をもつ『アクロポリス』は、ポリスの中心となった山のことであった。そこには神殿が建てられ、市民の精神的なよりどころとされた。あの、アテネの守護神アテナを祀るパルテノン神殿がある場所である。
この時代のキーワードは、
だろうか。古代ギリシャで最も栄えた都市国家ミレトスのタレス、ミレトスの隣町のサモスのピタゴラス、
そして、アテネのソクラテス。そのような哲学者たちが息をしたのもこの時代である。
そして、オリンピアでは、スポーツの祭典(古代オリンピック)が行われていて、人々は共通して、神話やスポーツを楽しんでいた。ポリスには『イオニア人』、『ドーリア人』などのグループに分かれて戦争をすることもあったが、それらの共通項を通じて、一体感を得ていたのである。
[オリンポスの古代競技場の眺め]
アテネでは、当初貴族政が敷かれていたが、交易などによって裕福になった平民も、武器を買って国防に参加するようになる。そして、民主主義の原点となる、民主政治が発展していくことになる。
貴族が政治権力を握って人民を支配する統治形態。
ドラコンが成文法(誰でも読める文章で記された法)を作り、『貴族による法の独占』を防ぎ、ソロンが、納税額に応じて4つに市民を分け、段階的に参政権を与えるという『財産政治』を始める。つまり、財産さえあれば、だれでも政治に参加できるという仕組みを作り、政治の形は民主主義に一歩近づいていくのだ。
その後、ペイシストラトス、クレイステネスと次々と指導者が現れ、より良い国にしようと試行錯誤していく。独裁が行われたり、横道にそれることもあったが、徐々に貴族だけが持つ特権が薄れてきて、民衆に発言力が与えられていく。そしてペリクレスの時代になって、アテネの民主政治は完成形を迎える。成年男子は全員が政治に参加できるようになり、国家の政策は多数決、役人も抽選で決めることができるようになった。
[ペリクレス]
しかしもちろん、
等への差別もあるし、問題は山積み。だが、当時の時代から考えて、ペリクレスらがやった功績は大きいと言えるだろう。ペリクレスは、アテネの民主政を確立させるとともに、黄金期を作り上げた偉大な人物だった。ペリクレスは紀元前495年に生まれていて、古代ギリシャで最も有名な哲学者、ソクラテスは、紀元前469年に生まれた。ペリクレスの25歳年下だ。
だが、彼らが登場する前のアテネには、『ペルシャ戦争(紀元前499年)』があった。冒頭の記事にもあったように、当時世界初の世界帝国だったアケメネス朝ペルシャは内乱に陥っていた。3代目のダレイオス1世は、ミレトスを中心にイオニア諸都市が反乱を起こすと、これを支援したアテネを討つべく、ギリシャ本土への遠征を始める。これがペルシャ戦争が始まった理由である。
アケメネス朝ペルシャの王
しかし、1回目の遠征は暴風雨によって撤退、2回目もマラトンの戦いに敗れ、撤退を余儀なくされた。
このとき、ギリシャ軍には先ほどの『ドーリア人』からなるスパルタ兵がいた。スパルタは、アテネと並ぶ有力なポリスだった。『スパルタ教育』の名で知られる『リュクルゴスの制』といわれた厳しい教育制度と軍国主義を取っていた町だった。リュクルゴスとは、紀元前11~8世紀あたりに生きていたとされる人物で、王族出身の立法者である。なぜ彼らスパルタ人が自分たちを強化していたかというと、彼らが従わせていた人々の数が多かったからだ。
スパルタ人 | 5000人 |
奴隷や周辺民 | 7万人 |
この7万人を統治するような立場にあったスパルタ人は、自らを強化する必要があったのである。
このスパルタとペルシャとの戦いと言えば、映画『300』だ。ソクラテスたちのような知識人たちとはまた違った角度で、この時代を見ることができる。レオニダスというスパルタの王を筆頭に、100万人以上のペルシャ軍にも怯むことなく、命を賭して戦い抜いたのである。彼らが自分たちをどのようにして鍛えていたかということもイメージすることができるだろう。
また、マラトンの戦いでペルシャ軍を撃破したミルティアデス。サラミスの海戦を勝利に導いたアテネの政治家テミストクレス。そういった重要人物たちを中心として、ギリシャ軍は見事アケメネス朝ペルシャの大軍勢を追い払ったのである。
[サラミスの海戦までのペルシア遠征軍の動き]
とにかくこのようにしてギリシャは戦争に勝ち、アテネは発展していった。そこで民主制度が根付き、市民が政治に直接参加することになる。この流れが良くも悪くもアテネの雲行きを変えていったのである。
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