いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.ソクラテス、アイスキュロス、ソフォクレス等たくさんの人がいました。
2.『ペロポネセス戦争』に負けた外部問題と、アテネ内の混乱、つまり内部問題が重なったからです。
ペリクレスというのは優秀な指導者でした。
しかし、彼一人で革命を起こしたわけではなく、同じ志を持った様々な人のリーダーとして活動していたので、彼以外にも偉大な展望を持っている人はいました。例えば悲劇作家のソフォクレスですが、ペリクレスが将軍に立候補した際に、同時にソフォクレスを自分の同僚として推挙します。そして紀元前440年にソフォクレスは将軍に選ばれました。ペリクレスには同志と呼べる人が何人もいたのです。
しかしそんな風に勢いがあったアテネに対し、そのうち、同じギリシャ人であるはずのスパルタ人が、
と腹を立て、アテネとスパルタで戦争を起こしてしまいます。『ペロポネセス戦争(紀元前431~404年)』です。この時、クレオンという『デマ』を流す政治家のせいでアテネは混乱し、スパルタと戦争をしなければならないというような雰囲気がありました。そして紀元前404年に降伏したアテネはギリシアの覇権を失いました。
Contents|目次
都市国家ポリス・ペルシャ戦争→ペロポネセス戦争
上記の記事に書いたように、ペリクレスの時代になって、アテネの民主政治は完成形を迎える。成年男子は全員が政治に参加できるようになり、国家の政策は多数決、役人も抽選で決めることができるようになった。
[ペリクレス]
しかしもちろん、
等への差別もあるし、問題は山積みだった。そもそもペリクレスの時代の前には、『ペルシャ戦争(紀元前499年)』があり、ギリシャはその戦争に勝ち、発展していった。そこで民主制度が根付き、市民が政治に直接参加することになる。この流れが良くも悪くもアテネの雲行きを変えていったのである。
『ソフィスト』というのは、『知恵のある人』という意味で、知識人のようなイメージだ。その後アテネにはこのようなソフィストで溢れるようになった。下記の記事に書いたゼノンの『アキレスと亀』のような、詭弁とも屁理屈とも言えるような話術や論理を持つソフィストが目立つようになった。
そこへ、
といった人物が登場し、
という『弱肉強食』的な発想にまで至るようになった。つまり、アテネの人々の考え方は、乱れていたのだ。
だが、そういう考え方を野放しにしていたら独裁政権となり、民主的発想が崩れ、真の平和が見いだせない。のちのヒトラーやスターリンがしてしまったような転落ぶりを予期するかのように、そういう状況を改善しようという動きを見せる人物が現れた。それがソクラテス、その人なのである。
ソクラテスの時代には、ペリクレスがいた。つまり、ペリクレスの陰にいたのが、ソクラテスのような哲学者たちだったのである。決してペリクレスたち為政者たちだけがアテネを作り上げたわけではなかったのだ。
更に、『ソクラテス われらが時代の人
ペリクレスを支持する人々の集まり
ペリクレスはアテナイのヒューマニズムを壮大な展望とともに語ったが、そうした展望をもっていたのはペリクレスだけではなかっただけに、これは重要な問題だった。ペリクレスは、そうした偉大な展望をもっていた人々を率いる指導者にすぎなかった。ペリクレスの周囲には、人間の能力についての強い信頼に支えられた様々な種類の有能な人々が集まっていたのである。例えば、年長の悲劇作家のアイスキュロスがいる。
彼はペリクレスが権力を握ってから五年後の紀元前456年に亡くなった。彼の最後の未完成の作品『縛られたプロメテウス』は、人類に人技術を与えたために、ゼウスに罰せられる神秘的な英雄プロメテウスを描いたものである。(中略)このヒューマニストたちの集団にはさらに、同じく悲劇作家のソフォクレス(紀元前469~408年)もいた。
彼はソクラテスよりも25歳ほど年長だったが、ソクラテスの一生を通じた知り合いだった。彼の『アンティゴネー(紀元前441年に上演)』は、残酷さと自死と希望のなさを描いた絶望的な悲劇だったが、きわめて高貴な人間性を描き、男性と女性への賛歌になっている。この悲劇はあまりにも大きな成功を収めたので、ペリクレスが将軍に立候補した際には、同時にソフォクレスを自分の同僚として推挙したのであり、紀元前440年にソフォクレスは将軍に選ばれた。
ペリクレスを中心として、彼とともにアテネを良くしたさまざまな偉人たちがいたのだ。
だが、ペルシャ戦争に勝った後にアテネとそのライバル関係にあったスパルタは、戦争で一時共闘はしたものの、今度は主導権争いを起こすことになる。アテネは、ペルシャの再来に備えて周辺のポリスと『デロス同盟』を結ぶのだが、その行為がスパルタにとっては面白くなかった。まるで、アテネがギリシャの中心であるという風にとらえたのだ。
そしてスパルタは『ペロポネセス同盟』を結び、アテネに対抗した。そして、アテネとスパルタで、『ペロポネセス戦争(紀元前431~404年)』を巻き起こしてしまう。ソクラテスが参加したのはこの戦争である。
[ペロポネソス戦争の両陣営。赤がペロポネソス同盟軍の進路、青がデロス同盟軍の進路]
最終的に戦争に負けたのはアテネだ。その背景には、デーマゴーゴス(扇動政治家)の存在があった。wikipediaにはこうある。
デマゴーグ(独: Demagog)は、古代ギリシアの煽動的民衆指導者のこと。英語ではdemagogueであり、rabble-rouser(大衆扇動者)とも呼ばれ民主主義社会に於いて社会経済的に低い階層の民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴える事により権力を得かつ政治的目的を達成しようとする政治的指導者を言う。
先ほどのソフィストもそうだが、このようなデーマゴーゴスの存在も、アテネを混乱に導いた要因の一つだった。例えば、その代表者であるクレオンについて、wikipediaにはこうある。
クレオン(Κλέων)はアテナイの政治家である。典型的なデマゴーグとされ、好戦的な主張で民衆を煽動した。ペロポネソス戦争中の紀元前429年に指導者ペリクレスが病死すると、弁論術を武器に民衆の人気を集めたクレオンらは、スパルタとの和平案に反対し、民会で戦争の継続を主張した。このため戦争は続行されたが、クレオンは紀元前422年に戦死した。
彼の死の翌年にニキアスの和約が成り、平和が訪れるかに思えたが、後に遠征軍が悲劇的な末路を遂げたシケリア遠征を唱えたアルキビアデスによって戦争は再開された。アテナイは適切な指導者を欠いたため漸次敗北した。紀元前404年に降伏したアテナイはギリシアの覇権を失い、デロス同盟は解散し、全てを失った。アリストパネスやトゥキディデスはクレオンを粗野な成り上がりのデマゴーグ、主戦論者として酷評している。
ペリクレス、アイスキュロス、ソフォクレスやソクラテスの様に、アテネを光の方向に導く存在もいれば、トラシュマコスやカリクレス等のソフィストやデーマゴーゴスであるクレオンの様に、アテネを闇の方向に導く存在もあったということだ。そうこうしているうちにポリス社会は滅亡への道をたどることになる。
[ジャック=ルイ・ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』]
紀元前480年。マラトンの戦いの10年後映画『300』の舞台となったことでも有名で、この戦い自体は『ペロポネセス戦争』の前にあった『ペルシャ戦争』でのシーンである。スパルタ人のイメージとして掲載。
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