Contents|目次

『ギリシャ、ペルシャ』と世界を支配したアレキサンダー大王がこの世界に与えた影響とは

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. アレキサンダー大王(アレクサンドロス)は何をした人?
  2. マケドニア王国はなぜ崩壊したの?

1.アッシリア、ペルシャの次に、つまり史上3番目に世界的な帝国を創った人です。

2.彼は32歳で亡くなり、帝国の拡大も短期間で行ったので、すぐにそのしわ寄せがきて崩壊しました。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

アレキサンダー大王は『アルゲアス朝マケドニア王国』の皇帝です。

彼が創った帝国が『世界最古の帝国』だと書いてある専門書がありますが、その前に、

 

  1. アッシリア(紀元前7世紀)
  2. アケメネス朝ペルシャ(紀元前525年)

 

がありますから、世界3番目の世界帝国です。アレクサンドロスはそのアケメネス朝ペルシャの最後の王、ダレイオス三世を打ち破り、ギリシャ軍、ペルシャ軍に勝ちました。

 

若かった彼がやったことは確かに世界に大きな影響を与えたでしょう。しかし彼が統治したアルゲアス朝マケドニア王国は、紀元前336~323年の、たったの13年間しか持たず、始皇帝が統一した『秦』の時代よりも短い帝国だったようです。急速に拡大させたことが原因となって、民族の融和なども進んでおらず、アレクサンドロスが死んだ紀元前323年とともに瓦解してしまったこのマケドニア王国は、『成長』というよりも『膨張』的に膨らんだ帝国だったと言えるかもしれません。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

アルゲアス朝マケドニア王国

アルゲアス朝マケドニア王国

 

アテネに貢献したのはペリクレスだけではない!では『ペロポネセス戦争』以外の衰退の原因とは?

 

上記の記事の続きだ。

 

ローマ帝国を力づくで作った時、帝国内の『宗教観の違い』の問題はどうクリアした?

 

上記の記事に書いたように、ローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始める。つまり、

 

  1. ローマ帝国
  2. アケメネス朝ペルシャの帝国

 

という2代帝国が、現在のヨーロッパや中東地域で頭角を現していた。記事には『アケメネス朝ペルシャ』について書いた。

 

アケメネス朝ペルシャの王

  • 初代:キュロス2世
  • 2代目:カンビュセス2世
  • 3代目:ダレイオス1世

 

[アケメネス朝の最大勢力域]

 

史上初の世界帝国『アッシリア』と、その滅亡から学んだ大帝国『アケメネス朝ペルシャ』

 

 

カイロネイアの戦い

その後、ヨーロッパには『ローマ帝国』という巨大帝国ができるのだが、その250年ほど前、紀元前330年頃に、それら大帝国に匹敵するはずの、『アルゲアス朝マケドニア王国』があった。ギリシャのポリスが衰退したちょうどその頃、アテネの上の方に『マケドニア』という国があった。フィリッポ2世は、アテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシャを支配するのである(カイロネイアの戦い)。

 

[カイロネイアの戦い、戦略図]

 

マケドニアの王フィリッポス2世は、スパルタを除く全ギリシャのポリス代表を集めて『コリントス同盟』を結成し、その盟主として最高軍事指揮権を掌握したが、私怨によって暗殺される。その跡を継いだのが、息子『アレクサンドロス三世アレクサンドロス大王)』である。

 

 

 

アレクサンドロス三世(アレキサンダー大王)

『アレキサンダー大王』という呼び方もされる彼は、この後にヨーロッパを支配する『カエサル』の前にヨーロッパを支配した、大帝国の支配者である。アケメネス朝ペルシャの最後の王、ダレイオス三世は、彼の遠征運とのイッソス、ガウガメラの戦いで敗れ、逃亡中に暗殺された。そして家族はアレクサンドロスに捕らえられた。

 

[アレクサンドロスとダレイオス3世の家族]

 

つまりアレクサンドロスは、

 

  1. ギリシャ軍
  2. ペルシャ軍

 

の両軍を制圧し、ヨーロッパからインドにまたがる巨大帝国を築いたのである。

 

MEMO

フィリッポス2世がギリシャを、アレクサンドロスがペルシャを制圧。

 

[紀元前333年、イッソスの戦い(ポンペイのモザイク画。左の騎馬の人物がアレクサンドロス大王、右で戦車に搭乗しているのがダレイオス3世)]

 

[ガウガメラの戦い(ヤン・ブリューゲル)]

 

 

東方遠征での逸話

その後アレクサンドロスは東方に遠征するのだが、その時の逸話がいくつか存在している。例えば、単純に、『兵士が疲れ果てた』というもの。そのせいで、インダス川流域まで侵攻したところで快進撃が止まる。だが、その時の兵士は老兵で、彼らの拒否がなければどこまででも侵攻したと言われている。

 

またこういう話もある。遠征中に、『アレクサンドロスが帰国する』というデマが兵士の間に広がった。長い遠征に疲れていた兵士たちはそれを聞いて大喜びした。だが、世界帝国建設を目指していたアレクサンドロスは、帰国どころか、まだまだ東へ行くつもりだった。

 

アレクサンドロスは、疲弊した兵士たちに言った。

 

それを聞いた兵士たちは心を打たれ、大王と共にどこまでも行くことを決意した。いずれも微妙に話がかみ合っていないように見えるが、とにかくアレクサンドロスはエネルギーの塊であり、その証拠にヨーロッパ史に残る大帝国の王として歴史に名を刻んだのである。

 

MEMO

事実、彼は2人のペルシャの王女と結婚している。

 

[アレクサンドロスのインド行軍路(赤線)]

 

 

わずか13年の帝国

しかし、どのみち彼は、そのインダス川に到達したあたりで引き返すことになり、直後に熱病に倒れ、32歳の若さでこの世を去った。彼が統治したアルゲアス朝マケドニア王国は、紀元前336~323年の、たったの13年間しか持たず、始皇帝が統一した『秦』の時代よりも短い帝国だったようである。当サイトで彼のこの王国が、『ローマ帝国、アケメネス朝ペルシャ帝国』とあえて並べて数えなかったのは、その寿命が短かったからである。

 

始皇帝は偉大だったが、『夏、殷、周』の王同様、黄金律には逆らえなかった

 

急速に拡大させたことが原因となって、民族の融和なども進んでおらず、アレクサンドロスが死んだとともに瓦解してしまったこのマケドニア王国は、『成長』というよりも『膨張』。膨張は破裂するのが相場なのだ。あまりにも有名な彼の名前の背景にあったのは、若さゆえの人生の黄金律への抵触だったのである。

 

『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』

『基礎工事をしない建築物、基礎土台をおろそかにする人間。どちらもその限界は、知れている。』

『「一歩」の価値をどう評価するかで、その人間の人生は決まる。』

 

 

ヘレニズム文化

ただ、彼がこの世界に与えた影響は大きかった。アレクサンドロスの東方遠征によって、ギリシャ文化が東へ伝播する。『ヘレニズム文化』である。『浄土宗 大信寺』のHPにはこうある。

仏像の無い時代

 

仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られなかった。さて、造る技術がなかったのか、それとも造る必要がなかったのか。その謎に迫る。

 

釈迦の生前には

 

釈迦の教えというのは、自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を多くの人々に分かりやすく説いたものなので、自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されなかった。

 

実は、仏教では『偶像崇拝』が禁止されていて、仏像を作ったり、個人を崇拝することが良しとされていなかった。ブッダ(釈迦)の死後500年ほど経って、アレクサンドロス三世がエジプトを征服後、ペルシアを滅ぼし、西北インド(ガンダーラ地方)まで進出した。それによってヘレニズム文化が入ってきたことにより、『仏像』が作られるようになった。

 

 

彼はこの世の形を大きく変えてしまったのである。

 

 

家庭教師アリストテレス

ちなみに、彼が支配したギリシャにいて、プラトンの弟子のアリストテレスは、アレクサンドロスが13歳~16歳の頃の家庭教師を務めた。

 

[アリストテレスの講義を受けるアレクサンドロス]

 

アリストテレスが『不動の動者』と呼んだものは、ソクラテスが言う『真理』である

 

アレクサンドロスはこう言い残していた。

 

アレクサンドロス

最も強き者がわが跡を継げ!

 

これによって帝国の領土をめぐって部下が争い、

 

  1. アンティゴノス朝(マケドニア)
  2. セレウコス朝(シリア)
  3. プトレマイオス朝(エジプト)

 

という3か国に分裂してしまった。

 

 

次の記事

該当する年表

SNS

参考文献