いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.例えば『大スキピオ』と呼ばれる名将がいました。
2.確実に拡大していくローマを何度も打ち破り、それを食い止めた人『ローマの強敵』です。しかしスキピオが打ち破りました。
ローマにはスキピオ、カルタゴ(北アフリカ)にはハンニバルがいました。
当時ローマは着々と自国の領土を広げていました。そして地中海の覇権をめぐってフェニキア人の都市国家『カルタゴ』と衝突し『ポエニ戦争』という3回の大きな戦争をすることになります。しかし、後に世界史上最高の名将と呼ばれるハンニバルは想像以上に手ごわく、奇をてらった戦略によってローマはカルタゴをなかなか崩せませんでした。
しかし、『大スキピオ』と呼ばれたローマの名将、スキピオが敵の本拠地であるアフリカに上陸し、ハンニバルに負けじと攻撃に挑みます。たまらず帰国するしかなくなったハンニバルは、スキピオの活躍によって振り回され、1万5千人のカルタゴ軍は壊滅し、戦争は終結しました。これによってローマはすべてのポエニ戦争に勝利した形となり、ローマは地中海の覇者となり、『ローマ帝国』への道を確実に開いていきます。
ローマ帝国(ポエニ戦争)
上記の記事の続きだ。記事に書いたように、ローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始める。つまり、
という2代帝国が、現在のヨーロッパや中東地域で頭角を現していた。アケメネス朝ペルシャとローマ帝国の間には、アレクサンドロスが支配する『アルゲアス朝マケドニア王国』があったが、わずか13年で崩壊してしまった。さて、いよいよ『ローマ帝国』の話だ。ローマの起源は、イタリア半島に建設されたラテン人の都市国家だ。その建国は紀元前753年にさかのぼる。
ラテン人がテヴェレ川流域に移り住み、紀元前509年に専制的な王を追放して、共和制となった。王政から共和制、そして帝政へと移行する間に、
という偉人たちが登場することになる。
支配者が独断で思いのままに事を決する政治。
君主を持たない政体、君主制ではない政治体制。
上記の記事にも古代ギリシャの政治の話があるが、ギリシャでは貴族の特権が過ぎないように、民主政の方向へと動いていったわけだ。そしてそれはローマでも同じだった。政治を独占する貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の間に身分闘争が起きる。当時、国の指導権を持つ会議である『元老院』や、最高官職だった2名の『コンスル(執政官)』は、貴族に独占されていた。ギリシャ同様、貴族の特権の乱用があったのだ。
その後、平民の権利を守る『護民官』、平民の会議である『平民会』など様々な手段でそこにある格差を取り除こうとするが、パトリキとプレブスの立場があまりにも平等になってしまったことで、ますます両者の関係が悪化してしまう。ただ、軍事技術に優れていたローマは、地中海各地に領域を拡大し、イタリア半島を統一していくことになる。
しかし、地中海の覇権をめぐってフェニキア人の都市国家『カルタゴ』と衝突し、3回の大きな戦争をすることになる。『ポエニ戦争』である。
[ポエニ戦争中の両国の領土変遷。 カルタゴ領土(オレンジ) ローマ領土(グリーン)]
『ハンニバル戦役』ともいわれるこの第2回のポエニ戦争では、このハンニバル・バルカが天才的な方法でローマを追い詰めた。紀元前218年、29歳だったハンニバルは、ガリアを横切り、陸路を伝って北からのイタリア侵入を試みる。5万の歩兵と30頭のゾウの大軍を率いて、前代未聞のアルプス越えを敢行した。
[アルプス山脈を越えるハンニバルの軍]
確かに環境は悪く、疲労や転落事故で半数の兵士が失われた。しかし、奇をてらったこの作戦は成功。誰もアルプス山脈をゾウが超えてくるとは思わなかった。不意を突かれたローマは混乱し、危機的状況に陥る。
だが、そこに登場するのが『大スキピオ』と呼ばれたローマの名将、スキピオである。敵の本拠地であるアフリカに上陸し、ハンニバルに負けじと攻撃に挑んだ。そして紀元前202年、イタリアから呼び戻されたハンニバルと対峙する。スキピオの影響によって、ハンニバルは数十年ぶりに母国カルタゴへ戻ることになるのだ。
そして両者は『ザマの会戦』に挑む。1万5千人のカルタゴ軍は壊滅し、戦争は終結した。この戦功から彼は『アフリカヌス』の称号を得て、ローマに胸を張って凱旋した。※ただ、Wikipediaに当時の兵力はこう書いてある。これを見ると、『1万5千人の差があったのに』という解釈が見えてくる。
[『ザマの戦い』(Cornelis Cort,1567)]
ハンニバルがカンナエの戦いでとった戦法を踏襲したものであり、敵の歩兵による攻勢を味方の歩兵で防御しつつ、優勢な味方の騎兵が敵の後方に回ってこれを包囲殲滅する、というものであった。この戦法は現代に至るまで有効とされており、現代の各国の陸軍士官学校でもカンナエの戦いとザマの戦いは必ず教材として使われているという。
そして、第3回のポエニ戦争も勝利し、ローマはすべてのポエニ戦争に勝利した形となった。これによってローマは地中海の覇者となっていくのである。
だが、ポエニ戦争のせいでローマは壊滅状態となってしまう。つまり、長期の戦争の影響で、ローマ社会は疲弊しきっていたのだ。国内では貧富の差も広がり、紀元前2~1世紀は内乱の時代となってしまった。
ローマの政治家や皇帝たちは、大量の失業者に『パンとサーカス』、つまり食事と闘技場での剣闘などの娯楽を与えて、彼らの不満を解消しようとする。ここで『コロッセオ』を想像する人もいるだろうが、コロッセオができたのは紀元後80年頃とされていて、その当時、ローマで剣闘士試合を行えるのは木造仮設で仮復旧していた収容人員約1万人のタウルス円形闘技場と、専用施設ではないため仮設の観客席を設ける必要があるサエプタ・ユリアやキルクス・マクシムスしか無かった。
しかし、そのサエプタ・ユリアは紀元前26年なので、紀元前700年頃からあったキルクス・マクシムスが闘技場の舞台だったかもしれない。
そこで戦ったか、戦うはずだったかはわからないが、『スパルタクス』という剣闘士が反乱を起こしたのも、ちょうどこの時期だ。戦争に負け、ローマの奴隷となったスパルタクスは南イタリアのカンパニア地方のカプアにあるレントゥルス・バティアトゥスなる興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士養成所に属していた。トラキア出身のスパルタクスは幾つかある剣闘士の種類の内のトラキア闘士と呼ばれるスタイルの剣闘士だったと推測されるが、彼の剣闘士としての戦歴について古典史料は何も語っていない。
とにかく、ローマ軍の奴隷として捕らえられ、剣闘士として育成された彼は、紀元前73年、養成所を脱走し、仲間とともに反乱を起こす。反乱参加者は実に12万人にも及んだが、クラッスス率いる鎮圧軍によって敗れる。
[『スパルタクスの最期』(ヘルマン・フォーゲル画、1882年]
このように、ローマの内部では、
という反乱や軍事衝突が行われていて、内乱が絶え間なかった。
イタリア半島の都市がローマに対して反乱を起こした戦争。
そして、ローマの人々はそうした混乱を治める人を求めるようになったのだ。その中で出てくるのが、先ほども登場したが、
といった人物たちだった。
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