イエスが言った『カエサルの物はカエサルに』の『カエサル』は、ユリウス・カエサル?わかりやすく簡潔に教えて!
第2代ローマ帝国皇帝のティベリウスです。彼は『ティベリウス・ユリウス・カエサル』という名前でした。
よく知られるカエサルは『ローマ帝国の基礎を創った人』です。
そしてローマ帝国の初代皇帝はアウグストゥス。そして2代目にこのティベリウスがいました。彼は『紀元14年9月18日 – 紀元37年3月16日』までローマ帝国の皇帝だったので、イエスが生きた時代のローマ皇帝は彼になります。
Contents|目次
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代
上記の記事の続きだ。カエサルがローマ帝国の礎を作り、彼の暗殺後は、養子であるアウグストゥス(オクタウィアヌス)が皇帝となり、正式な『ローマ帝国』を作った。アウグストゥスの時代は紀元前27年~紀元前14年だ。そしてその後、『五賢帝』という5人の優れた皇帝が登場するが、ローマ帝国は、その200年間が黄金期となった。
ローマ五賢帝
ネルウァ | 第12代皇帝 | 96~98年 |
トラヤヌス | ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝 | 98~117年 |
ハドリアヌス | 第14代皇帝 | 117~138年 |
アントニヌス=ビウス | ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝 | 86~161年 |
マルクス=アウレリウス | ネルウァ=アントニヌス朝の第5代皇帝 | 121~180年 |
だが、その前に見ておくべき時代がある。それが、紀元前から紀元後に変わるときの時代。人間である以上避けて通れない、一人の人物が生まれ、そして彼は十字架に磔になりこの世を去った。イエス・キリストである。
彼とこの時代についての詳細は下記の記事に書いたので、この記事では違う側面から見てみよう。
その記事にも書いたが、『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
『異邦人の庭』に露天商が入るのを禁じる法律はない。神殿のほかの部分は神聖不可侵とされ、体の不自由な者、病人、不浄とされる者、とりわけ異邦人の群衆は立ち入りを禁止されていたかもしれない。だが、境内のそれ以外の場所は、大勢の人でにぎわうバザールやユダヤ人の最高評議会である最高法院(サンヘドリン)の本部として、だれでも出入りの自由な領域として利用されていた。
商人や両替商、生贄用の動物を売る人、不浄な者、異教徒、異端者など、だれでも望むなら『異邦人の庭』に入る権利があり、そこで商いをする権利があった。だから、神殿の祭司たちがこの民衆煽動家は自分を何者だと思っているのか答えよと要求したのは、驚くに当たらない。何の権利があって彼はこの神殿を浄化するべきだと思い込んでいるのか?そのようなずうずうしい犯罪的行為のどこに神意のしるしがあるのか?
[エル・グレコ『神殿から商人を追い払うキリスト』 157-75年ミネアポリス美術館]
イエスが『異邦人の庭』と呼ばれる神殿で、両替商のテーブルをひっくり返し、怒鳴り散らした行為は、当時の常識で考えたら犯罪行為だった。こういうことを考えると、彼は『穏やかな平和主義者』ではなく、『剣を持って戦う革命家』に様相が似ているのがわかる。イエスは言った。
…問題はここである。この言葉は実は、違う訳が存在するのだ。それが、
である。では、イエスが生きていた時代のローマの皇帝は、『カエサル』だったのだろうか。いや、彼は紀元前44年に死んでいる。そしてイエスは、紀元前4年頃に生まれた人物である。つまり、カエサルの養子であり、ローマ帝国の初代皇帝であるアウグストゥスでさえも、皇帝の在位期間は紀元前27年~紀元前14年だ。イエスが生きた時代には、すでに皇帝が変わってしまっている。
実は、ここで言われている『カエサル』というのは、アウグストゥスの養子である『ティベリウス』のことなのだ。第2代ローマ帝国皇帝のティベリウスも、ティベリウス・ユリウス・カエサルという名前だった。そして、『カエサル』という呼称自体が、『ローマ皇帝』という意味を持っていたのである。
[ティベリウス・ユリウス・カエサル]
『イエス・キリストは実在したのか?(Zealot the life and times of jesus of nazareth)』にはこうある。
貧農の反乱と『メシア』
ローマによる占領後のユダヤで数々の騒動が続いていたころ、ローマではポンペイウス・マグヌスとそのかつての盟友ユリウス・カエサルの間に、困難を示唆する内輪揉めが起きていた。ハスモン王朝の末裔たちがこの二人のどちらからも恩顧を得ようとする一方で、『神の土地』を開墾して耕すユダヤ人農家や小作人の暮らし向きは悪くなるばかりだった。何百年物間、農村経済の基盤であった家族だけの小規模農家は、金回りの良い地主貴族階級の管理する大荘園に次第に吸収されていった。
都市化が急激に進み、農村部から都市部への国内移住者はどんどん増えた。かつて貧しい村を支えていた農業は、今や食欲旺盛な都市人口を支える奉仕産業となり、小作人は上と貧困に喘いだ。小作人は普通の税金のほかに神殿の祭祀階級に10分の1税を支払わされるばかりでなく、ローマ政府にも多大な進貢の義務を負わされていた。その合計は、農家の年収のほぼ半分に相当した。
おまけに早害が続き、休耕地や後背地が増えると、多くのユダヤ人小作農は奴隷に身を落とした。耕作できない土地にとどまった人々は、地主貴族階級に法外な利息を払って多額の借金をせざるを得なくなった。ユダヤ法では借金に利息をつけてはいけないことになっているが、返済が遅れれば、多額な罰金をとるのだから、貧乏人にとっては結果としてはどちらでも同じだった。
いずれにせよ、主貴族は小作人が借金の返済不履行になるのは当然だと思い込んだ。借金が迅速に、しかも全額返済されなければ、小作人の耕地は没収され、彼らは新たな所有主のもとで小作人として働かされた。
冒頭の記事にはこう書いている。
貴族の特権があった『専制政治』のような社会に反発し、『共和制』となったローマ。カエサルが王になろうとしたときは、元老院から反発され、何者かに暗殺されることになった。しかし、結局彼の養子であるオクタウィアヌスは、その元老院から『アウグストゥス(尊敬すべき人)』の称号を得て、あらゆる権利を付与され、『帝政』となった。
アウグストゥスはカエサルの養子だった。紀元前27年に元老院から国家のあらゆる権力を付与され、ローマは『帝政ローマ』となったのである。アウグストゥスは広場や神殿、公共施設を建設し、人口120万人の国際都市ローマを造営した。しかし、彼自身は皇帝の宮殿とは程遠い質素な家に住み、更には自分のお金を使って市民に食料を配ったりして、国と国民に尽くした。
これを見て、更に冒頭の『五賢帝までの200年の黄金期』を見ると、まるでアウグストゥス以降のローマ帝国は、とても華々しく、すべての人が格差に憂うことなく、楽しく生きたように見える。だが、実際には違った。ローマ帝国の繁栄の陰にも、決して歴史に誇ることのできない『闇』があったのだ。
イエスが登場する前にあったのは『ユダヤ教』である。ユダヤ教徒ローマ帝国の間に何があったか。そして、なぜローマ帝国の国教にキリスト教が選ばれたのか。それは、宗教編の各記事を見て、理解を深めたい。
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献