いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.フランス、イギリス、ドイツ、イタリアの大元の国を創りました。
2.『トゥール・ポワティエ間の戦い』(732年)で、キリスト教の勝利に終わりました。
3.ビザンティウム(コンスタンティノープル)を都にしたためにつけられた通称で、『東ローマ帝国』のことです。
4.これによりカール大帝率いるゲルマン人が創ったフランク王国が『新しい西ローマ帝国』として公認されました。
ゲルマン人がやってきて現在のヨーロッパの国々の大元を創りました。
フランス=『フランク王国』、イギリス『アングロサクソン七王国』、ドイツ『東フランク王国』、イタリア。また、彼らはデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となりました。
そんなフランク王国のメロヴィング朝のカール=マルテルの時代に、イスラム史上最初の世襲であるウマイヤ朝との戦いもあり、『キリスト教VSイスラム教』の最初の戦いでもある『トゥール・ポワティエ間の戦い』(732年)が行われました。
ビザンツ帝国というのはあくまでも通称ですが、西の『神聖ローマ帝国』、東の『ビザンツ帝国』として覚えられることが多いです。西ローマ帝国が『神聖ローマ帝国』と呼ばれるまで『帝国』とか『ローマ帝国』と呼ばれていたので、それと区別するためにこう呼ばれたのかもしれません。
『カールの戴冠』は、異民族であるゲルマン人が認められた証拠でもあります。
このような彼らのキリスト教やローマ人への敬意が伝わり、ついにローマ教皇から王冠を授かり、フランク王国が『新しい西ローマ帝国』だと承認されました。
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代→ローマ帝国の滅亡→中世ヨーロッパの始まり
上記の記事の続きだ。その後、西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされた。その後彼は、皇帝の紋章を東ローマに返還し、東帝の代官として王となった。オドアケルは、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王だから、『初代イタリア王』という称号を得ることになる。歴史的には、ここから『古代→中世』へと変わる分岐点となる。中世は、ローマ帝国の東西分裂後、大航海時代やルネサンスが始まるまでの1000年間のことである。
こうしてローマにゲルマン人の部族国家が生まれるわけだが、オドアケルの支配自体は、わずか17年で幕を閉じる。493年、東ローマ帝国への内政干渉を機に、東ローマ帝国の皇帝ゼノが、東ゴート王のテオドリックにオドアケル討伐を命じ、殺されたのである。
[テオドリック]
東ゴート族の王テオドリックは、493年、イタリアに入ってオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国した。彼もオドアケル同様、ローマか化したゲルマン王だった。オドアケルの政策を踏襲し、イタリア半島とシチリア半島を33年間支配した。
ゲルマン人たちの勢いは止まらなかった。それまで北西ヨーロッパに住んでいたケルト人や、ローマ帝国内のラテン人を圧迫しながら、次々とローマで建国し続けた。そして、『フランス』の語源となったフランク族、『イングランド』の語源となったアングロサクソンの諸民族もここに建国し始めた。そうこうしているうちに、『ローマ帝国』の流れをくんでいた『西ローマ帝国』が滅亡していくことになる。
その中で最も力を持ったのが、そのフランク族のクロヴィス1世が建国した『フランク王国』だった。481年に即位したクロヴィスはライン川北岸のフランク人を統一、486年にはガリア北部を支配していた西ローマ系軍閥のアフラニウス・シュアグリウスをソワソンの戦いで破り、版図を一挙にロワール川北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた。
[クロヴィス1世]
また、前述した東ゴート王国のテオドリックに妹のアウドフレドを嫁がせて同盟を固める等、確実に領土を固め始めた。彼の影響で、キリスト教の正統派である『カトリック』が国教となった。その影響でローマ帝国の人々も彼の言うことを聞く気になり、フランク王国が徐々に西ヨーロッパの中で勢いを持ち始めた。
その後も、ゲルマン人とローマ人との戦いは続いた。例えば、『ビザンツ帝国』と呼ばれた『東ローマ帝国』のほうでは、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝ユスティニアヌス1世(527年8月1日 – 565年11月14日)は、20年余りゲルマン人と戦い、イタリア、北アフリカ、スペインに至るローマ領を取り戻すことに成功した。
[ユスティニアヌス1世]
ビザンティウム(コンスタンティノープル)を都にしたためにつけられた通称。
彼は妻であり、皇后のテオドラに背中を押されながら、ペルシャのホスロー1世とも戦いながら、ローマを守り続けた。
[テオドラ]
ペルシャ王ホスロー1世は、ユスティニアヌスの長年のライバルだった。彼らは532年に『永久平和条約』を結ぶが、540年にホスローがそれを破り、争いとなる。そして562年に更に和平条約が結ばれるが、ローマは多大な賠償を強いられ、いつまでも平和的解決ができない。更にペルシャは、シリア、東はバクトリアまで版図を拡大。ホスロー1世は、ササン朝ペルシャの最盛期を築いた人間だけあって、エネルギッシュな王だった。
ユスティニアヌスは、ローマを支配するだけの力を持つゲルマン人と、それだけ勢いのあったペルシャを相手にしなければならなかったということだ。しかし565年、その3年後には病気でこの世を去った。83歳だった。
[ユスティニアヌス1世の即位(赤:527年)から崩御(オレンジ:565年)までの東ローマ帝国領の拡大]
さて、前述したフランク王国のクロヴィスはメロヴィング家の一族だったため、彼の時代は『メロヴィング朝』だった。メロヴィング朝は、その相続方法として、『子供に人数分の領地を分け与える』という考え方を取り入れていたため、王の領土が次第に小さくなっていき、『宮宰(きゅうさい)』という最高の行政職が権力を握るようになる。その中で最も有名なのがカール=マルテルで、彼はイスラム史上最初の世襲であるウマイヤ朝との戦いであり、『キリスト教VSイスラム教』の最初の戦いでもある、『トゥール・ポワティエ間の戦い』で破る。
[トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)]
預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。
トゥール・ポワティエ間の戦いはユスティニアヌスが死んだ200年後に起きたことだった。カール=マルテルはこれだけの勢力があったウマイヤ朝を倒すだけの力があったか、メロヴィング朝から実権を奪ったのは、息子ピピン3世の時代である。彼はメロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、代わりに『カロリング朝』を開いた。
[ピピン3世]
彼はキリスト教会の長、ローマ教皇にゲルマン系民族ランゴバルドから奪った土地を寄進し、自分のクーデターを承認してもらい、キリスト教世界公認の王として、フランク王国の継承を認めてもらう。この段階で、冒頭の記事に書いた『ローマ帝国最後の重要な3皇帝』である、コンスタンティヌスとテオドシウスの影響で力を持った『キリスト教』が、ヨーロッパでどれだけ力を持ち始めているかということが垣間見えるはずである。
そしてピピン3世の息子『カール大帝』の時代に突入する。フランク王国の全盛期を築いたのがこの男だ。
カール大帝の実績
南東 | バイエルンを併合 |
ドナウ川中流域 | アヴァール人を打ち破る |
南方 | ランゴバルド王国を併合 |
西方 | イベリア半島北ににスペイン辺境伯領を建設 |
フランク国に多大なる貢献をし、800年のクリスマス、カール大帝はローマ教皇レオ3世より、継承者不在だった西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。これによってカール大帝率いるフランク王国は、新しい西ローマ帝国として公認されたのである。彼の時代に、キリスト教の価値観とゲルマンの文化が融合し、西ヨーロッパ世界の原型が完成した。
[ジャン・フーケ「カールの戴冠」 (1455年-1460年)]
カール大帝は、『初代神聖ローマ皇帝』ともみなされる。wikipediaにはこうある。
「神聖ローマ皇帝」とは古代ローマ皇帝や東ローマ皇帝と区別するための歴史学的用語である。カール大帝以降を指す場合とオットー1世以降に限る場合がある。理念的には、中世西ヨーロッパにおける世俗の最高支配者とされ、カトリック世界において普遍的な世俗支配権を主張した。特にドイツとイタリアで国法上最も重要な位置を占め、指導的役割を担った。ドイツ皇帝と通称される場合もあり、これは近世以降の国号に「ドイツ国民の」が加わったことによる。
『神聖ローマ帝国』というのは、『古代ローマ帝国、東ローマ帝国』と区別するためにある用語だが、今出てきた『新しい西ローマ帝国』のことを指すのではない。ここまではまだ『帝国』や『ローマ帝国』と呼ばれることになる。このあたりも複雑なので、東は『ビザンツ帝国』と呼ばれたのかもしれない。
この後に出てくる、『西ローマ帝国内の、東フランク(ドイツ)』の成立から、1806年まで続く国のことを言うのである。しかし、東フランクができる前のこの段階で、カール大帝は『初代神聖ローマ皇帝』とも呼ばれているので、初代神聖ローマ皇帝は2人いるということになってしまう。次の記事でその二人目を見てみよう。
[帝国王冠]
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