いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.800年のカール大帝戴冠以降、962年のオットー1世戴冠以降の2つで意見が分かれているようです。
2.神聖ローマ皇帝(ハインリヒ4世)がローマ教皇(グレゴリウス7世)に波紋されて権力を失い、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪した事件です。
更に厳密には『神聖ローマ帝国』という名称自体は、1254年から使うようです。
1254年、ローマ王ヴィルヘルム・フォン・ホラントによって『神聖ローマ帝国』の国号が初めて正式に用いられます。しかし『神聖ローマ帝国の始まり』となると、その800年、962年が用いられます。
正式には1254年からだが、あの時からこの帝国の基礎は作られていた。
とかそういう解釈でしょう。しかし、『神聖ローマ帝国の初代皇帝』という肩書を持っているのは、カール大帝とオットー1世の両者ということになります。
『カノッサの屈辱』は、神聖ローマ皇帝でもあったハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世に破門され、ことごとく権力を失ったことから、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪し、教皇に許してもらおうとした事件です。この事件で『ローマ皇帝<ローマ教皇』という図式が明確になり、ローマ教皇率いるキリスト教会が確実に力をつけていうようになります。
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代→ローマ帝国の滅亡→中世ヨーロッパの始まり→東西ローマ分裂
上記の記事の続きだ。800年のクリスマス、カール大帝はローマ教皇レオ3世より、継承者不在だった西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。これによってカール大帝率いるフランク王国は、新しい西ローマ帝国として公認されたのである。
実は、上記の記事に書いたように、この帝冠を授与された背景にあるのは『キリスト教会の東西分裂』だった。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
『東ローマ帝国(通称ビザンツ帝国)』は、コンスタンティノープル教会の後ろ盾になっていたが、ローマ教会の後ろ盾はなかった。そうした背景も手伝って、ローマ教会はローマ教会で、西ローマ帝国をローマ教会の保護者にしようとしたのである。
カール大帝が死ぬと、フランク王国での相続争いによって、
の3つに領土が分けられた。それがその後の、『フランス、イタリア、ドイツ』の原型となる。そして西フランク王国は、987年カペー朝が成立し、『フランス王国』となった。イタリアでは小王国や都市の分裂状態が続き、東フランクでは、国王のオットー1世が戦功を挙げ、962年にローマ教皇よりローマ帝国の帝冠を授けられた。一つの解釈では、これが1806年まで続く『神聖ローマ帝国』の始まりである。
[オットー1世]
冒頭の記事で、初代神聖ローマ皇帝は2人いる、と書いたが、wikipediaでこの2人のページを見てみよう。
2人ともに『初代神聖ローマ皇帝』という称号があることがわかる。だが違うページには、
東フランク王国の国王オットー1世(ザクセン朝)は962年アウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれる連合体を形成した。
とあるので、やはりオットー1世の時代からを『神聖ローマ帝国』と呼ぶことが多いようだ。確かに違う参考書にもその962年、ヨハネス12世から『神聖ローマ帝国』の帝冠を授かったとある。それは古代ローマ帝国を受け継ぐ、ヨーロッパ最高君主の称号だった。この称号を得た東フランク王国は、『神聖ローマ帝国』となる。しかし、東フランク王国は『ドイツ』にあるため、ドイツにある国が『ローマ』を名乗るわけだから、ローマがあるイタリアを奪うために、何度もイタリアに攻め入ることになる。
さて、カール大帝の死後はとにかくこのような流れになった。しかし『フランク王国が分裂した』という事実は大きく、神聖ローマ帝国の方も勢いはいまいちだった。すると、そのフランク王国の後ろ盾となっていた『カトリック教会』が、次第に西ヨーロッパで最高の権威をもつようになっていった。西ヨーロッパの各王に、彼らに逆らうだけの度量がある者がいなかったのである。
そんな中、上記の記事に書いたようなことが起こるわけだ。
ここにあるのは『権威を持ったキリスト教の腐敗』である。少しおさらいしてみよう。ギリシャ哲学が1000年の歴史の幕を閉じ、『人間精神の暗黒時代』とも言われた中世とルネサンス時代に突入した。ここからは、どうしても哲学が『神学』と向き合わなければならない時代へと突入する。
戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代。また、文明全体に及ぶ大きな事象でなくても、特定の芸術・技術・文化などが為政者や宗教組織から弾圧を受け衰退したり、革新者の不在などの理由で停滞した時期を指して、暗黒時代と呼ぶこともある。
古代が終わり、近代にいたるまでの1000年間。ローマ帝国滅亡後の1000年間のこと。
この時代が『暗黒時代』と言われ、そして哲学から『神学』へと注目が集まったのは、それまでヨーロッパを支配していたローマ帝国が没落した事実があったからだ。その地を巡って様々な諸国が乱入してきて、地は混沌に陥った。
[アウグスティヌス]
アウグスティヌスは430年に他界している。カール大帝が死んだのは814年。神聖ローマ帝国が作られたのは936年。これらの間には500年以上の間隔が空いているが、この膨大な時間をかけて、キリスト教はじわじわと、だが確実にその勢いを上げ、それと同時に特権の乱用と越権行為にひた走る『腐敗問題』も生んでしまうようになってしまったのである。
そうした腐敗を何とかしようと第157代ローマ教皇のグレゴリウス7世は、
と定めた。つまり、当時は賄賂を使って聖職者になることができたのである。しかし、その『テコ入れ』でダメージを受ける者の中には『皇帝』もいたのだ。ハインリヒ4世である。彼はまさにそうした賄賂でもって、神聖ローマ帝国を安定させていた。したがって、そのテコ入れが入ると国内が不安定に陥る。
そこで、ローマ教皇(グレゴリウス7世)と神聖ローマ皇帝(ハインリヒ4世)は『叙任権闘争』という争いを行う。しかし、グレゴリウス7世に波紋を宣告されると、ハインリヒ4世は支配下に置いていた諸侯たちからの信頼をあっという間に失ってしまうことになった。それだけキリスト教会というのはヨーロッパで絶大な力を得ていたのである。
まるで、膨大な財力を持つ創業者一家の息子ということで許されていた地位が、その後ろ盾が無一文になったことで何の価値も無くなり、一気に白い眼を向けられるイメージで、ハインリヒ4世もまた、みるみるその立場を危うくしていったのである。ハインリヒ4世は、廃位の決議をされるところまで追い詰められていった。
そこで彼が行ったのが『カノッサの屈辱(1077年)』と言われる、教皇への謝罪である。波紋を解いてもらおうとしてグレゴリウス7世のいるカノッサ城の門の前にて、裸足で3日間も立ち尽くして謝罪したのだ。しかし結局この事件によって、ローマ教皇の権力がどれほどのものかということが世に知れ渡ることになってしまった。ローマ教皇自身もその件を境にその権力を『乱用』するかのように、幾度となく『破門戦術』を繰り返すのだった。
[カノッサの屈辱 ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左)]
グレゴリウス7世は、『キリスト教会の腐敗を何とかしよう』と思って立ち上がったはずなのに、結局は自分もそうした腐敗行為に手を染めてしまったのである。立ち上がったときにどれだけの善意があり、越権行為をする際にどれだけ悪意があったかはわからないが、権力を持つ者がほんのわずかでも悪意があった場合、それが次の者や周りの者に連鎖し、負の連鎖が生まれてしまうのである。
そしてグレゴリウス7世は、ウルバヌス2世にローマ教皇の座を引き継ぎ、現在も尚尾を引き続ける『十字軍の遠征』を引き起こすことになるのだ。ただし、このグレゴリウス7世について、違う見方をしなければならない記述が存在する。彼はやっぱり善人だったかもしれないのだ。それを、次の十字軍の問題とともに考えてみよう。
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