いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.イスラム教にエルサレムを支配された…と解釈したからです。
2.イスラム教の英雄で、キリスト教徒にも差別なく平等に対応し、十字軍にも勝利した戦死です。
エルサレムというのは相当複雑な場所です。
詳しくは下記の記事に書きましたが、見れば分かります。であるからして、この地を巡って色々な人が争ってしまったのです。イスラム教の言い分も、キリスト教の言い分も、そしてユダヤ教の言い分も、
です。ローマ教皇がキリスト教の立場で十字軍を遠征させ、この地を奪還しようとしたのも、この地の複雑な事情と、根底にこの発想があるからでした。
サラディンというのは、イスラム教の英雄です。サラディンは、宗教的な憎しみにもとづいた無駄な殺傷は一切行わなかったといいます。そのため、キリスト教側から見ても彼のことを、
と評価しているようです。ただ、スポットライトは当てる場所によって景色が全く違って見えます。24歳でこの世を去った『ボードゥアン』という十字軍側の騎士は、そのサラディンにとてつもなく不利な状況で勝ちました。
Contents|目次
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代→ローマ帝国の滅亡→中世ヨーロッパの始まり→東西ローマ分裂→十字軍の遠征
上記の記事の続きだ。『カノッサの屈辱(1077年)』が起き、キリスト教会はますますその勢力を上げていた。そしてグレゴリウス7世は、ウルバヌス2世にローマ教皇の座を引き継ぎ、1095年に『十字軍の遠征』を命じる。
中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のこと。
だが、実はこの十字軍のきっかけは、イスラム教国家のセルジューク朝が、ビザンツ帝国を圧迫し、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地である『エルサレム』を占領したことが原因だった。しかし、イスラム教とキリスト教、一体どっちが先に仕掛けたのだろうか。正直私も、各参考書で言っていることが違うので実態が見えてこない。
上の記事を書いたときには『キリスト教が十字軍を遠征した』ことが原因で、それに『聖戦』という形で対抗するようになったイスラム教徒のイメージが浮かんでいた。しかし、今回世界史の参考書を見ると、『先にイスラム教がビザンツ帝国を圧迫し、エルサレムを占領した』としていて、イスラム教が先にキリスト教に仕掛けたというイメージを連想させるようになっている。
私はせっかく先ほどの記事のときに、
そうか。傲慢に陥っていたキリスト教が先に仕掛けて、それが今もイスラム教が十字軍を恨んでいる理由なんだ
という理解の境地を得たのに、これではまた実態が闇の中に入ってしまう。一体、キリスト教とイスラム教のどちらが先に手を出したのだろうか。
例えば、以下の記事を見てみよう。
600年代には、ムハンマドがキリスト教徒やユダヤ人から迫害を受けた歴史が残っている。どちらも『エルサレムを奪回する!』と主張しているが、真実はどうなのだろうか。今のところ言えるのは、誰もその場所に固執しなければ解決するということだけである。
しかしとにかく1070年代当時、ビザンツ帝国は西ヨーロッパのSOSを出すほどイスラム勢力に追い詰められていて、そうして当時のウルバヌス2世が、『クレルモン教会会議』を開催し、十字軍の遠征を決定したのである。
[クレルモン教会会議でのウルバヌス2世。1490年ごろ画]
そして十字軍とイスラム勢力との戦いは、200年にも及んだ。
第1回十字軍 | 1096年 – 1099年 |
第2回十字軍 | 1147年 – 1148年 |
第3回十字軍 | 1189年 – 1192年 |
第4回十字軍 | 1202年 – 1204年 |
第5回十字軍 | 1218年 – 1221年 |
第6回十字軍 | 1228年 – 1229年 |
第7回十字軍 | 1248年 – 1249年 |
第8回十字軍 | 1270年 |
第9回十字軍 | 1271年 – 1272年 |
[中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃]
参考書には、これらの戦いの行方等について詳細があるが、正直そんなことは私にはどうでもいい。一体なぜこのような争いが行われてしまったのか、その原因はどこにあるのか。それだけが知りたいのである。なぜ私がそこにこだわるかというと、この問題は、現在に至るまで影響が及んでいるからだ。イスラム国を名乗る人間が、『十字軍』という言葉を使っていた。そしてテロリズムによって多くの無辜な命が奪われた。私はただ、こうした問題が二度と起きてほしくないのだ。だからこそ、原因をしっかりと明白にし、前に進んでほしいのである。
現在日本は、近隣諸国とこのような問題でもめている。これも、真実は一つのはずだ。これと同じように、曖昧な部分を明白にし、多くの人々に影響を与える重要な問題を一日でも早く解決してほしい。そう考えるのである。
だがいい機会だから調べてみよう。まず、
の場所から見てみる。
『パレスチナ地域の、エルサレムに、イスラエルを作った』ということだ。元々、紀元前11世紀頃に『イスラエル王国』が成立したが、それは一度滅んだ。だが、ユダヤ人たちが1948年に再び『イスラエル』を建国した。しかしこれが原因でこの地を巡る宗教対立が再燃したのである。
下記の記事にイエス・キリストが十字架刑に処された話を書いたが、この『ゴルゴタの丘』がある場所は『エルサレム』だ。イエスはエルサレムで亡くなったのである。
[『ゴルゴファ(ゴルゴタの丘)の夕べ』ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによる(1869年)、ハリストス(キリスト)の埋葬準備の光景]
また、下記の記事にも書いた、
という言葉があるように、イエスがいた時代のエルサレムは『ローマ帝国』の支配下にあった。
また、Wikipediaで『エルサレム』について見てみよう。
エルサレムは、ムハンマドの時代には東ローマ帝国の支配下にあり、「禁域」とならなかった。第2代のカリフであるウマルの時代に征服された後も、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市であり続けたのである。
ムハンマドは紀元570~632年を生きた人物だ。この時代はまだエルサレムが東ローマ帝国の支配下にあるが、
が共存する柔軟性のあるエリアだったようだ。ここは彼らにとって聖地だから、それぞれがそれに対する配慮があったのだろう。
嘆きの壁(ユダヤ教)
ローマ帝国によって壊されたソロモン神殿の一部分で、ユダヤ人にとっては唯一の聖地。
岩のドーム(イスラム教)
ウマイヤ朝のイスラム世界最古の建造物。岩からムハンマドが天国に旅立ったとされる。
聖墳墓教会(キリスト教)
イエスが処刑された『ゴルゴタの丘』の丘に建つ教会で、イエスの墓があるキリスト教の聖地。
ここまでは分かった。先ほど参考書に『先にイスラム教がビザンツ帝国を圧迫し、エルサレムを占領した』とあったが、Wikipediaでもこのあたりのことについて見てみよう。
636年に東ローマ帝国が正統カリフに敗北し、以後オスマン帝国滅亡(1924年)までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになる。1099年に第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。
『エルサレム』にはこうある。
313年にはローマ帝国がミラノ勅令によってキリスト教を公認し、320年ごろにコンスタンティヌス1世の母太后である聖ヘレナが巡礼を行ったことで、エルサレムはキリスト教の聖地化した。市名は再びエルサレムに戻され、聖墳墓教会が立てられた。ユリアヌス帝の時代には、ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった。
638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。
話はつながったようだ。つまりこういうことである。
ここで一度まとめよう。モーセがヘブライ人をエジプトの奴隷から解放させ、『海を割り』、脱出させてから、イスラエル王国ができ、その後、
という4つの帝国すべてに支配されてきた歴史を持つのがこのエルサレムだ。そう考えるとかなりこじれた場所である。この4つの帝国はまさに『世界で初めてできた帝国アッシリア』からローマ帝国まで、この順番でヨーロッパの覇権を獲った帝国だから、エルサレムはそのすべてに振り回されてきたということになる。更にそこに『宗教問題』が加わるわけだ。
サラディンによって再びイスラムの支配下へ。オスマン帝国の支配下で、各宗教間の共存状態となる。
これが十字軍が出るまでの歴史である。こう考えるとエルサレムがこんがらがる理由がよく分かる。そしてこうしてすべての歴史を見てみると、一見すると確かにこのエルサレムという聖地を『先に自分のものにしてしまった宗教』は、イスラム教だった。636年にイスラム教が東ローマ帝国を圧迫し、638年にはエルサレムがイスラム勢力の統治下になった。そこからイスラム教の支配が続き、ついに1071年にエルサレムが占領されてしまったのである。
そして、それを奪回するべく当時のローマ教皇ウルバヌス2世が、『クレルモン教会会議』を開催し、十字軍の遠征を決定したのである。そう考えると、この地を先に荒らしたのはイスラム教ということになるが、しかし彼らは彼らで、『キリスト教を国教としたローマ帝国が支配したエルサレムを奪回する』という名目の上でそう行動したのだ。
そう考えると、この地を先に支配していた『ローマ帝国(キリスト教)』に原因があるとも考えられる。なるほど。この話はとても複雑なようである。少しかじっただけで見えてこない理由があったのだ。つまり、ローマ帝国が支配していた時代は、ムハンマド、第2代のカリフであるウマルの時代に征服された後も、キリスト教徒とユダヤ教徒、ムスリムが共存する異教徒禁制とは無縁な国際的な宗教都市であり続けた。だから、ローマ帝国が支配していた方が平和が保たれたわけだ。
しかし、それを打破して今度はイスラム教が支配するようになった。そしてついにはエルサレムまで占領したので、ローマ教皇が十字軍を遠征し、この地を奪還しようとした。こう考えると、
という、2つの解釈が出てくることになる。そしてそこに更にユダヤ人の話も混入するわけだからややこしさは激増する。
等、地球には様々なエリアがあるが、エルサレムというのはまるで『人間の欲望の渦』である。そのほかのエリアは決してこういう事態にはなっておらず、ここに人間のエネルギーが集中しすぎているようだ。『パレスチナ問題』があり、『中東戦争』が頻発することを見ても、この地に完全な平和が訪れるのにはまだまだ時間がかかるだろう。エルサレムのその後の歴史については下記の記事に書いた。
冒頭の記事で、グレゴリウス7世がハインリヒ4世を許し、『その後もローマ教皇は味を占めたかのように『破門戦術』を繰り返す』とし、グレゴリウス7世もキリスト教会の権力に腐敗してしまった一人だと書いた。だが、もしかしたら彼は善人だったかもしれない。とにかく、以下の二つの参考書の内容を見てみよう。
『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた
この事件をカノッサの屈辱といいます。この事件によって人々はローマ教皇の権威の絶大さを再認識することとなり、ローマ教皇自身も、その後、自分に逆らおうとする王が現れるたびに、自らの権威を誇示するかのように『破門戦術』を用いるようになります。
次は『ビジュアル 世界史1000人(上巻)
許しを与えた皇帝に追い落とされる グレゴリウス7世
ハインリヒ4世を許したのは一時的な和解にすぎず、グレゴリウス7世は面会を拒絶するが、霊的指導者なら罪を認めた人間を許さねばなるまいと赦免する。だが案の定、ハインリヒ4世はローマを包囲。『私は正義を愛し、不正を憎んだ。そのために私は流謫に死ぬのだ。』グレゴリウス7世の最期の言葉だ。
どうだろうか。前者だけ読むと、まるでグレゴリウス7世がキリスト教会の権力に腐敗し、越権行為に走ったようにイメージできるし、後者を読むと、あくまでもグレゴリウス7世は聖人であり、ハインリヒ4世の方がひどい人間だったというイメージが浮かぶはずだ。
私は前回の記事を書いたとき、実は『十字軍問題は、先に十字軍がイスラム教に仕掛けた』という認識を持っていた。しかし、様々な参考書を読み進めていくうちに、そうではなく、『イスラム教が先にキリスト教諸国にちょっかいをだしたことが原因で、十字軍が派遣された』という内容に触れることになった。つまり私は最初、
やっぱりこの時代のキリスト教関係者はみんな権力に腐敗していたか
と考えていたから、このグレゴリウス7世と、そのあとに続いた『破門戦術』の件も、同じような流れにあると考えてしまった。だが、実際には偉人に関して詳細を追求する後者の本には、グレゴリウス7世自体は正義を愛する人間だったという事実が浮き彫りになったのだ。
様々な事実が乱立しているが、正確に言えることだけをまとめると、
ということになるだろう。その中で、善人も悪人も、いたるところに存在した。それが真実だろう。誰が悪いのではなく、善人と悪人はどこにでもいたのだ。それは、現在で考えても全く変わらない、この世の真理である。
十字軍とイスラム勢力との戦いで一番有名なのが『第3回十字軍(1189年 – 1192年)』で、
といった人物たちが活躍する戦いである。この中で最もスポットライトを浴びるべきなのは『サラディン』だろうか。
[サラーフ=アッディーン(サラディン)]
リチャード1世はフィリップ2世と行動していたが、フィリップ2世が途中で逃げ出したにも関わらず、サラディンと戦った。だが、戦いに勝ったというわけでもなく、結果はいまいち。そして、フィリップ2世と戦って、肩を矢で射抜かれて死んでしまう。何とも言えない2人なのである。
赤髭王(バルバロッサ)と言われたフリードリヒ1世も小アジアのサレフ川で溺死しているので、どうしてもスポットライトはサラディンに当てたくなる。サラディンは、宗教的な憎しみにもとづいた無駄な殺傷は一切行わなかったという。そのため、キリスト教側から見ても彼のことを、
と評価しているようだ。たしかに、前述した部分にも『イスラム英雄サラディンが阻止』としているが、様々な参考書で彼のことを高く評価するのを見かけている。
だが、ここに書き加えるべくもう一人の戦士がいる。『ボードゥアン4世』である。
[諸侯の子弟たちと遊ぶボードゥアン4世と彼の皮膚の病に気付いたギヨーム・ド・ティール(大英図書館蔵)]
1174年、父が死んでボードゥアンは13歳でエルサレムの王位に就いた。そのとき、世はまさに『十字軍時代』だった。彼は、当時不治の病だったハンセン病にかかっていて、顔や手足が変形し、目が少しずつにごって見えなくなることもあった。
エルサレムの最大の敵はサラディン。ボードゥアンは、サラディンのいるカイロを攻撃しようとするが、体調不良で実行できなかった。しかしサラディンはその隙に、エルサレムに2万6千の軍隊を送り込んだ。ボードゥアンはわずか500人の兵士とともに、ボロボロの体で馬に乗って待ち受けた。
しかしサラディンは、王の軍勢があまりにも少ないので、相手にせずにそのまま進軍した。エルサレムの人々は震え上がり、そのまま何もできずにいた。ボードゥアンは大地にひざまずき、十字架に祈りをささげた。祈りが終わると立ち上がり、兵士たちを励まし、油断しきっていたサラディンの軍を完全に打ち負かした。たった500人の兵士を連れた病弱なはずのボードゥアンが、2万6千の軍を引き連れた『英雄サラディン』を打ち負かし、エルサレムを守ったのだ。
ボードゥアン4世は、24歳でこの世を去った。十字軍の歴史を書いたルネ・グルッセは彼についてこう語っている。
『その苦痛と克己に満ちた姿は、十字軍の全史を通じても、おそらくは最も高貴な姿であろう。英雄の雄姿は、膿と瘡におおわれながらも、聖人の面影を宿している。このフランスが生んだ王の純粋な肖像を不当な忘却の彼方からひきだして、マルクス・アウレリウス賢帝やルイ聖王のかたわらに置きたい』
とにかく、この時代の人々は自分の信じる正義を盾に、命を燃やしたのである。
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