いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.聖職者に課税を求めたフィリップ4世に対し、教皇ボニファティウス8世が謝罪を求めたのに、逆に捕らえられた事件です。
2.1453年5月29日です。
以前に『カノッサの屈辱』という事件がありました。
この事件の流れもあって、教皇が怒れば、皇帝もひざまづくという風潮がありました。しかし、フィリップ4世とボニファティウス8世の時代には、その形勢が逆転していて、逆に教皇のボニファティウスが皇帝のフィリップ4世に捕らえられて謝罪しなければならなくなりました。この少し前から長く続いたキリスト教一強の時代の雲行きが怪しくなっていて、キリスト教の権威が下がっていたのです。
現在のトルコの前段階であるオスマン帝国は、十字軍にも勝利するほど力をつけていました。そして1453年5月29日、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを征服。これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのです。
Contents|目次
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代→ローマ帝国の滅亡→中世ヨーロッパの始まり→東西ローマ分裂→十字軍の遠征→中世ヨーロッパの終結
上記の記事の続きだ。では、そのような『十字軍問題』で、結果的にどうなってしまったのだろうか。まずは、『意外な恩恵』である。下記の記事にはこう書いた。
そうして戦いに負けたキリスト教徒だったが、東方からもたらされた文化、学問、技術によってキリスト教社会が大きく発展していくことになる。そして1231年、法王グレゴリウス9世は、『神聖な義務(宗教裁判)』を開始する。
ここに書いた『東方からもたらされた文化、学問、技術によってキリスト教社会が大きく発展していくことになる』という理由は、この時に十字軍の通り道になった場所で、商業が発展したことが関係しているのである。
恩恵を受けた地と取引された商物
ヴェネツィア、ジェノヴァ | アジアの香辛料、絹 |
ミラノ、フィレンツェ | 手工業、金融 |
リューベック、ハンブルク | 木材、穀物 |
ブリュージュ(フランドル地方) | 毛織物 |
十字軍の戦いは、こうした意外な恩恵を各地にもたらした。そしてもう一つは、『カトリック教会の権威低下』である。まずは、十字軍が敗北を続けたため、その主軸となっていたローマ教皇の権威が落ちてしまった。そして、下記の記事では『カノッサの屈辱』でローマ教皇の権威が引き上げられたと書いたが、その真逆の現象が起きてしまう。『アナーニ事件(1303年)』である。
フィリップ4世が国内の聖職者へ課税を行うのだが、教皇ボニファティウス8世に謝罪するよう突き付けられる。まさに、『カノッサの屈辱』の時と同じ流れを作ったわけだ。しかし、フィリップ4世は謝罪せず、むしろ家臣を使ってボニファティウスを襲撃する。
[アルフォンス·マリー·アドルフ=ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」]
ボニファティウスは生まれ故郷の山間の小都市アナーニに逃げ込んだが、フランス軍とコロンナ一族のために捕らえられた。アナーニ住民の頑強な抵抗で教皇は救出されたが、ボニファティウスはこの一連の事態に怒りと失望で傷心し、3週間後に死亡した。まさに『ボニファティウスの屈辱』とも言える事件である。
私が今勝手に考えた言葉。正式にはこれら一連は『アナーニ事件』とされる。
先ほどのルターの記事の続きにはこうある。
そして1231年、法王グレゴリウス9世は、『神聖な義務(宗教裁判)』を開始する。しかしこの宗教裁判は、ただ法王とキリスト教会を批判し、挑戦する者を叩くのが目的に自己防衛手段に過ぎなかった。
この事件の70年前に、すでに『宗教裁判』というシステムが導入されていた。しかしこの宗教裁判は、ただ法王とキリスト教会を批判し、挑戦する者を叩くのが目的に自己防衛手段に過ぎなかった。様々な問題を通して教会の権威が低下していく中、キリスト教会は『火に油を注ぐ』形で、事態をより深刻化させていったのである。
『臭い物に蓋をする』ことで問題を隠ぺいしたまま先に進ませようとしていたのだ。そこにあるのは傲岸不遜に陥ったキリスト教会の堕落した姿であった。そして、『ルター、カルバン、ツウィングリ』といった人物たちが現れ、その記事の『宗教改革』につながるのである。
[ルター]
さて、西ローマ帝国がそういう流れにある中、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はどうだっただろうか。ビザンツ帝国は、西ヨーロッパのSOSを出すほどイスラム勢力に追い詰められたわけだが、わずか100年足らずで滅亡した西ローマ帝国と違って、1000年続いたローマ帝国の正式な継承国家の流れができていた。一度下記の記事あたりの東ヨーロッパを考えてみよう。
西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされた。だが、西ヨーロッパをを支配したゲルマン人とちがって、東ヨーロッパは『スラヴ人』が中心となった。東スラヴ人と言われた人々は『ロシア人』となり、先にできていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していった。
このノヴゴロド国を作ったのは、ヴァイキング(ノルマン人)の一派の首長リューリクだ。ラドガとノヴゴロド(ホルムガルド)を支配してきたリューリクが、どのような人生を送ったかに関してはほとんど情報がないが、原住民を押さえてこの地方で覇権を握ったリューリク王朝は、16世紀まで続いた。
[ラドガに到着するリューリク(アポリナリー・ヴァスネツォフ画)]
彼が北西ロシアにノヴゴロドを作ったことが、ロシアの起源となるのである。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
上記にあるように、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はギリシャ正教を軸としていたので、ロシアもこれを受容し、『ロシア正教』といわれるようになる。そして、
というように、様々な宗教や国家による分断が進み、東ヨーロッパには多くの国が密集するようになった。ビザンツ帝国の社会は、ギリシャ、東方的な性格を帯びていって、7世紀ごろには政治の公用語がラテン語→ギリシャ語に変更された。
9世紀末、ロシアの原型となる『キエフ公国』が建国される。キエフ大公ウラディーミル1世は、ビザンツ皇帝のバシレイオス2世の妹と結婚し、ロシア正教の洗礼を受け、キリスト教化によって国家を統一し、同時にビザンツ文化も導入した。
10世紀頃、バシレイオス2世はブルガリアを滅ぼし、帝国は最盛期を迎える。しかし、その間に冒頭の記事にもあったように『十字軍問題』があり、それは200年も続いたわけだ。
そして13世紀以降になると、ビザンツ帝国は衰退に向かうことになる。そして1453年には、オスマン帝国によって滅ぼされてしまう。
[オスマン帝国の国章]
オスマン帝国の創始者オスマン1世は、1258年に生まれた。13世紀、アナトリアにはガーズィーと呼ばれる略奪を主な目的とする戦士集団が無数にあり、オスマンはそのなかのひとつの君侯だった。オスマンは他の君侯やキリスト教徒の領主と戦いを繰り返す。そして、ムラト1世、バヤジット1世と続く。『雷光』と言われたその4代目のバヤジット1世のときには十字軍を破り、ドナウ川に達するバルカンの支配を確立。
メキメキと頭角を現すオスマン帝国だが、7代目スルタンのメフメト2世のときに、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服したのである。1453年5月29日、これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのである。
[オスマン帝国の領土拡大]
1480年、『モスクワ大公国』が独立し、独立を果たしたイヴァン3世は、ほかの諸公国を併合してロシアを統一。また、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪を后に迎え、『ローマ帝国の継承者』と『ギリシャ正教の保護者』を名乗る。
ビザンツ帝国最盛期の皇帝は、下記の記事に書いた東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝ユスティニアヌス1世である。彼は妻であり、皇后のテオドラに背中を押されながら、ペルシャのホスロー1世とも戦いながら、ローマを守り続けた。また、『ローマ法大全』の編集を行い、酒井井さんにもなったビザンツ様式の『ハギア=ソフィア聖堂』を建てた。
しかし、以下のような流れで最後には滅亡してしまった。
こうして中世ヨーロッパ時代は幕を閉じることになる。中世ヨーロッパでは、封建社会の中で権威を高めたキリスト教会が権力を持ったが、様々な問題を通して権威を失い続け、最後には権力が国王へと移行していったのであった。
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