いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.複数の主君に仕えることもできる土地のやりとりによる契約関係の集合体です。
2.自己の支配領域を明確にし、君主のみが排他的権力を行使する国で、『植民地』ではなく、『独立国』と同義語です。
3.国王に権力が集中する主権国家です。
4.フランスのカトリックとプロテスタントの内戦です。
5.信仰の自由を容認する王からの指示です。
6.『自分の国を豊かにする戦略』で、例えば外国製品の購入を制限し、輸出を促進して貿易収支を黒字にします。すると、国内におのずとリソース(資金、財源)が蓄積されるわけです。(⇔自由貿易主義)
封建国家だと国境が曖昧になります。
すると、戦争の時に困ったわけです。どこからどこまでが仲間で、集まるべきかということが曖昧だったのです。14世紀頃から『国をあげて戦争ができる国』にするために、『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになりました。これによって曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけです。そして初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられました。
その後フランスはカトリックとプロテスタントの『ユグノー戦争』、そして『サン・バルテルミの虐殺』等を経験します。国王となったアンリ4世が『ナントの勅令』を発布し、信仰の自由を容認する形で騒動は収まりました。これによってフランスの国内は安定し、王権も強化に向かったわけです。そして17世紀に即位したルイ14世の時代には、フランス絶対王政は最盛期を迎えました。
財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をし、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営したルイ14世は『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送りましたが、晩年はその贅沢に使った費用や戦費がかさんで国力を弱体化させ、衰退していきました。
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『封建国家→主権国家』
上記の記事の続きだ。イタリアでは『ルネサンス時代』が、スペイン・ポルトガルでは『大航海時代』が、そしてドイツでは『宗教改革』があった。それがこの14世紀~16世紀という時代だった。そしてこのあたりの時代から『国の在り方』についても変化が見られるようになった。それまで、中世ヨーロッパでは『封建国家』が当たり前だった。
複数の主君に仕えることもできる土地のやりとりによる契約関係の集合体。近代国家と異なる点は主に、明確な領土という観念を持つものではなく、契約に基づく個人の人的結合から成る点である。
しかし、それでは国教が曖昧になり、王たちは『戦争を起こしても、どのぐらいの諸侯や棋士が戦場にかけつけてくれるのかわからない』という悩みを抱えていた。
例えば1100年~1300年頃まで続いた『十字軍の遠征』では、
といった各国の人物が『キリスト教徒(十字軍)』として集まったわけだが、そこにあったのは『キリスト教』というバックボーンで、彼らはそこに仲間意識を覚えることができた。しかし、『国vs国』ということになると、当時の国の仕組みでは曖昧だったのだ。
『封建性』とは、土地を介した主従関係であり、
という順番で主従関係が出来上がっていた。主君から土地を与えられた農民は、荘園領主として土地と農民(農奴)を支配した。当時農民たちは耕作を強いられ、更には教会に納税しなければならず、多大なる負担を背負っていた。そんな封建社会で教会が権力を持ち、当時のウルバヌス2世が、『クレルモン教会会議』を開催し、十字軍の遠征を決定したのである。
[クレルモン教会会議でのウルバヌス2世。1490年ごろ画]
だが、こうした封建社会にも陰りが見えるようになってきた。12~13世紀になると、貨幣経済が浸透し、農民が治める地代が生産物から貨幣に変わったのだ。それによって農民たちは富を蓄えることが可能になり、農民の地位が向上した。また、14世紀にはペストが大流行して人口の3分の1が減り、農業の労働力が減ったことで、更に地位が向上。更に、大砲や銃等の出現により、剣と馬で戦う騎士たちの地位は没落し、徐々にこの『封建社会』が崩れ始める。
それまでは、明確な領土という観念を持たず、契約に基づいて主君に仕えたりする世の中の仕組みだったが、このあたりの時代から『国をあげて戦争ができる国』にするために、『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになった。
自己の支配領域を明確にし、君主のみが排他的権力を行使する国。
『封建国家→主権国家』へと変わることで、曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけだ。たとえば、現在の日本は『国民主権』という主権国家だ。だが、この時代には『国王主権』だったわけだ。初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられた。
等の理由がそれを可能にした。そしてこの時、
が行われ、これが近代国家の基礎となった。
この主権国家の仕組みが特に発展したのは『イタリア戦争(1494年 – 1559年)』の期間だった。フランス王ヴァロア家と、神聖ローマ皇帝のハプスブルク家が60年間戦った戦争で、これによって主権国家が、『戦争向けの国』だという解釈が浸透した。
[パヴィアの戦い]
ちょうどそのすぐあとのフランスでは、新旧の宗派対立からユグノー戦争(1562年 – 1598年)が勃発し内乱が続いた。フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで40年近くにわたり戦った内戦である。
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。
[「サン・バルテルミの虐殺」 フランソワ・デュボア作]
フランスの貴公子アンリは、カトリックである王家が新教徒(プロテスタント)の旗手を婿に迎えれば、両者の対立が緩和するのではないかという考えでマルグリット王女(王妃マルゴ)と婚礼をあげるが、数日後、結婚を祝う新教徒たちの集団にカトリックの一群がなだれ込み、流血騒ぎとなる。それが上の図、『サン・バルテルミの虐殺』である。
結局17年後、国王となったアンリ4世が『ナントの勅令』を発布し、信仰の自由を容認する形で騒動は収まった。それによってフランスの国内は安定し、王権も強化に向かった。そして17世紀に即位したルイ14世の時代には、フランス絶対王政は最盛期を迎えた。
だが、アンリ4世自身は狂信的なカトリック教徒に刺殺されてしまった。
ルイ14世は、フランスブルボン朝初代王であったそのアンリ4世の、2代後の王だった。『太陽王』と呼ばれ、清で『中国の歴代最高の名君』として語り継がれる康熙帝(こうきてい)とも親交があった名君だが、彼自身もなかなか波乱の道を歩んだ。
1648年、『フロンドの乱』によってパリや地方で反乱が起き、市民の暴動や農民一揆にまで拡大。5年間続いたこの騒動の中、ルイ14世も国内逃亡をする。しかし、結局この危機を乗り越えたことで貴族の力が弱体化し、王権が強固なものになったのだ。彼は王の権利を強く主張し、王権は神から与えられた『王権神授説』を唱え、官僚主義、中央集権化を徹底した。
中央集権と言えば、秦の始皇帝がやったことと同じだ。中央から都に官僚を派遣して統治させる中央集権体制を築く。この体制自体は実に2000年にもわたって受け継がれているので、始皇帝はこの意味では、中国にとても大きな貢献をしたことになる。
とりわけ、財務総監のコルベールが行った『重商主義』は絶対王政に大きな貢献をした。この体制を維持するためには、巨額の資金がいる。そこで、国家を富ませるために、外国製品の購入を制限し、国内生産力を伸ばそうとして国力を上げたのだ。金、銀、貴金属等の獲得と貯蔵と同時に、輸出を促進して貿易収支を黒字にする。すると、国内におのずとリソース(資金、財源)が蓄積されるわけだ。
また、領土拡大にも力を入れて、54年の親政の内の実に34年を戦争に費やした。植民地の獲得をして領土を増やせば、国内に流入するリソースが増え、そうした体制を維持、拡大することができるという寸法である。
そして、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した。『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送ったが、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。
[ヴェルサイユ宮殿(1668年)]
ドイツでは、プロイセンとオーストリアの両国家が台頭。フリードリヒ2世やヨーゼフ2世などの啓蒙思想の影響を受けた啓蒙専制君主が現れ、産業育成など国力の増強に努めた。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。
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