いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『常に地球上のスペイン領のどこかには太陽がのぼっている』という事実があったからです。
2.『オランダ独立戦争、アルマダの海戦、新大陸の銀産出の減少』という大きな3つの出来事が原因です。
3.地の利を生かしたことが大きな理由の一つです。
4.スペインが『カトリック』で、オランダとイギリスは『そうではなかった』ということが理由の一つです。
『新大陸の征服者』と呼ばれたスペイン人。『太陽の沈まぬ国』と呼ばれたスペイン。
ポルトガルを併合して、スペイン・ポルトガル両国の領土が手中に入ったスペイン。『スペイン帝国』とは、スペインとその植民地・属領などの総称ですが、まさにスペインは『太陽の沈まぬ帝国』だったのです。
勢いのあるスペイン王フェリペ2世は敬虔なカトリック教徒だったので、カトリック以外は弾圧しました。しかしそれに反発して『オランダ独立戦争』が起こったのです。イギリスは女王エリザベス1世のもと、プロテスタントの立場からこのオランダ独立を支援。オランダは、低地という地形を生かし、マース川の堤防を決壊させて洪水を起こし、敵を撤退させました。
そして1588年の『アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊を破り、イギリス・オランダ軍はスペインから覇権を奪いました。ちょうどそこに新大陸の銀産出の減少というダメージも加わり、スペインは沈んでしまったのです。
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『太陽の沈まぬ国』の盛衰
上記の記事の続きだ。記事ではスペイン・ポルトガルの『大航海時代』についてまとめた。両国はブラジルを見つけたポルトガル領にしたり、コルテスがアステカ王国、ピサロがインカ帝国を滅ぼし、占領し、マゼランがフィリピンを発見したときは、当時のスペイン皇太子フェリペの名を取って『フィリピン』とつける等、世界中に大きな影響を与えた。
彼らはみんなスペイン・ポルトガルの出身であり、間違いなくこの時代の海を制したのはこの両国だったのである。実は、コロンブスを支援したスペイン女王イサベル1世は、ここに出ているエンリケと少し揉めている。イサベルの異母兄エンリケは、彼女をポルトガル王の後妻に据え、自分の娘を皇太子に嫁がせてカスティリャ王国とポルトガルとの併合を目論んだ。
[イサベル1世 カスティーリャ女王、レオン女王]
しかしイサベルはアラゴン王国のフェルナンドと婚約し、エンリケを怒らせてしまった。それによって一時イサベルは幽閉されるが、フェルナンドに助けられ、1469年に二人は結局結婚。そして、エンリケ王が死んだ後、イサベルはカスティリャ王国女王に即位。そして、1479年にはフェルナンドがアラゴン王になり、2国が統一され、『スペイン王国』が誕生したのである。
冒頭の記事でフランス王ヴァロア家と、神聖ローマ皇帝のハプスブルク家が60年間戦った『イタリア戦争(1494年 – 1559年)』について書いたが、ハプスブルク家は政略結婚によってスペインの王座を手に入れる。そしてハプスブルク家のカルロス1世は、スペイン王に即位後、神聖ローマ皇帝にも選出され『カール5世』とも呼ばれた。マゼランに世界周航を命じ、ドイツ皇帝としてルターを弾圧したのがこの人物である。イサベル1世の孫にあたる人物である。
[神聖ローマ皇帝カール5世]
1516年にスペイン国王に即位したあと、
…等々、実に70以上もの称号をもち、その領土はヨーロッパを超えて新大陸アメリカにまで及んだ。
彼の死後、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国系とスペイン家に分かれ、その後、スペイン王を継承したのがフェリペ2世だった。カルロス1世は、1565年にフェリペ王子に中南米、スペイン、シチリア・ナポリ、ネーデルラントの統治を任せ、弟のフェルディナント1世にオーストリアの統治を譲っていた。
フェリペ2世が支配する当時のスペイン人は『新大陸の征服者』と呼ばれ、植民地の巨額の銀が王の懐に入ってきた。スペインが『太陽の沈まぬ国』と言われたのは後で説明するが、今言えるのは当時のスペインがそれだけの領土を獲得していたということである。
[スペイン王(カスティーリャ王、レオン王、アラゴン王、……)フェリペ2世]
しかし、フェリペ2世はこの豊かな財源を対カトリック戦争や自らの宮廷に湯水のようつぎこみ、即位翌年の1557年以降、4度も破産宣告をするほどの浪費家だった。また1600年代に20年かけてヴェルサイユ宮殿を作ったルイ14世と同じように、彼の100年以上前にもスペインで同じようなことが起こっていた。巨費を投じ、1563年、20年かけてスペインの郊外に『エル・エスコリアル宮殿』を造営。
その後、『レパントの海戦(1571年)』であのビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取。更に『ポルトガルの併合(1580年)』で勢力を上げた。
しかしその8年後、1588年に『アルマダの海戦』で無敵艦隊がイギリスに敗北すると、国力は弱体化していった。
[アルマダの海戦(1588年)]
さて、スペインが『太陽の沈まぬ国』と言われた理由だが、こうしてポルトガルを併合して、スペイン・ポルトガル両国の領土が手中に入ったスペインは、『スペインの植民地、ポルトガルの植民地』を合わせるととてつもない大国になるわけだ。つまり、『常に地球上のスペイン領のどこかには太陽がのぼっている』という事実が存在していた。『スペイン帝国』とは、スペインとその植民地・属領などの総称だが、まさにスペインは『太陽の沈まぬ帝国』だったのである。
しかし、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争『80年戦争』によって雲行きは怪しくなる。フェリペ2世は熱心なカトリック信者だったため、プロテスタントの信仰を禁じていたのだ。カトリック以外は弾圧した。例えば、ユダヤ人やムスリムも迫害し、多様性を認めず、思想統一を図ろうとしたのだ。
ネーデルラントはスペインのハプスブルク家の領土で、宗教改革後はカルバン派のキリスト教が広がっていた。そうした背景と重税等の問題が重なり、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク等の人々が反乱。『オランダ独立戦争』とも呼ばれる80年戦争が起こる。
これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれる
彼らを企業に例えるなら、
スペイン | 資本金潤沢な大企業 |
ネーデルラント | 下町の中小企業 |
というところだろうか。どう考えても後者の方がお粗末な戦力で、彼らは『乞食(ゴイセン)』と揶揄された。しかし勝ったのは後者だった。20年以上もの抵抗を続け、大企業スペインに勝利し、『ネーデルラント連邦共和国』として独立を達成したのだ。
[1581年のネーデルラントの地図。赤線から北がネーデルラント連邦共和国として独立した領域]
更にそこへ国内への銀流入の減少が重なる。つまりスペインは、
という大きな3つの条件が重なり、ついに斜陽を迎えることになったのである。
一方、独立を果たしたオランダは『東インド会社』を設立。独立後のオランダは、南部から亡命してきた新教徒の商工業などの貢献やバルト海の中継貿易で、急速な経済成長を遂げた。そして、アムステルダムは世界の貿易・金融の中心地となり、スペインに代わって世界貿易をリードする『栄光の17世紀』を迎えることになる。
だが、ここは表面化している『オランダ、インド』という名前に隠れた黒幕が存在していた。それが、今や世界一有名な女王の名にふさわしい、イギリスの『エリザベス女王』その人である。彼女はフェリペ2世の6個下の女性だった。オランダは17世紀後半に、3度にわたるイギリスとの戦争『英蘭戦争』で敗れると、覇権はオランダからイギリスに移るのである。
[背景に描かれているスペイン無敵艦隊に対する勝利(1588年)を祝うエリザベス1世の肖像画。エリザベスの手は地球儀に置かれ、彼女の国際的な力を象徴している。]
ヨーロッパの覇権の推移
イギリスはなぜ最初、オランダ側だったのか。そこには『宗教問題』が関係していた。中世のイギリスでは、フランスとの『百年戦争』、内乱である『バラ戦争』と戦乱が続き、疲弊した封建貴族が没落し、それに代わって国王の権力が強まった。冒頭の記事にも書いたが、この時期のヨーロッパでは『主権国家』が誕生した。
『封建国家→主権国家』へと変わることで、曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけだ。たとえば、現在の日本は『国民主権』という主権国家だ。だが、この時代には『国王主権』だったわけだ。初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられた。
等の理由がそれを可能にした。また下記の記事にも書いたが、ローマ帝国が東西に分かれたときに、キリスト教の解釈も変わったわけである。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
そして更に、ルターら『プロテスタント(抗議する者)』の登場によって『プロテスタント』という新しい一派が誕生した。これでキリスト教は大きく分けて、
の3つに分かれることになる。また、英国では女性問題から宗教改革が行われた。ローマ法王から『カトリックの守護者』と称えられたヘンリー8世は、アン・ブーリンを愛するようになり、妻と離婚したかったが、カトリックでは離婚が認められなかった。そこでヘンリー8世は、ローマカトリックから分離し、『英国国教会(イギリス国教会)』を作ったのだ。
スペイン王フェリペ2世は敬虔なカトリック教徒だった。カトリック以外は弾圧した。そうして『オランダ独立戦争』が起こったわけだ。そして毛織物工業などで経済が発展したイギリスは、女王エリザベス1世のもと、プロテスタントの立場からこのオランダ独立を支援する。そして1588年の『アルマダの海戦』でスペインの無敵艦隊を破り、イギリス・オランダ軍はスペインから覇権を奪ったのだ。
実は、『英国国教会(イギリス国教会)』を作ったヘンリー8世が愛したアン・ブーリンこそ、エリザベス女王の母親なのである。つまり、ヘンリー8世が父親だ。
[アン・ブーリン]
今や世界一有名な女王として有名なエリザベス女王だが、彼女の存在は、かつての英国王がタブーを破ってでも愛した女性の存在がなければあり得なかったのである。彼女はヘンリー8世が他の女性に心を移したことから、不義密通の口実のもと処刑された。
エリザベス女王はこうした母を持ち、またあるいは姉のメアリ1世によってロンドン塔に長く監禁されてしまう。メアリ1世はヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの間の子だから、『自分こそが正当な子供である』と自負していたのである。彼女はエリザベス女王の前にイングランド・アイルランドの女王として1553年に即位する。だが、カトリックを復活させ、血の粛清を行うことで『ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)』と呼ばれるようになる。
[イングランド女王メアリー1世像 ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)]
また、スペイン王フェリペ2世と結婚し、国民の不信を招いた。メアリ1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で死去した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリはエリザベスのことを終生憎み続けており、死の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだったようだ。
そしてエリザベス女王(在位:1558年 – 1603年)の時代が始まった。こうした事情も手伝って生涯一度も結婚することのなかった彼女は『処女王(バージン・クイーン)』とも呼ばれ、
『私は国と結婚した。』
という名言を残している。
[エリザベス1世。彼女の治世に対する関心が最初に復活した1620年頃の作品。時間が彼女の右側で眠り、死が彼女の左肩越しから見ている。2人のプットが彼女の頭上の王冠を支えている。]
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。
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