いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.イングランド王とフランス王の『フランスの王座』を巡る争いです。
2.前半はイギリスが活躍しましたが、フランス王国側が勝利し、ヴァロワ朝によるフランスの事実上の統一となりました。
3.神のお告げを聞き百年戦争の末期にフランス軍を先導してオルレアン(都市)を解放した女性です。
フィリップ4世が死去した後、フランスの王位をめぐって争いが起き、それが『百年戦争』の原因となりました。
フランス王になったフィリップ6世は、先王のフィリップ4世の血筋ですが、同じくイングランドのエドワード3世もフィリップ4世の女系の孫だったので、王位継承権を要求します。しかしそれははねのけられ、フィリップ6世がフランス王に即位しました。その後、国王フィリップ6世と対立していた、義弟のロベール3世・ダルトワは、エドワード3世にフランス王を主張することを勧める。
そうして始まった百年戦争ですが、前半は『黒太子(ブラックプリンス)』と呼ばれたエドワード3世の子『エドワード黒太子』が大活躍しました。1356年には『ポワティエの戦い』で、4倍の兵力のフランス軍を打ち破り、国王ジャン2世を捕虜にすることに成功し、スペイン遠征でも勝利をおさめます。しかし、後半になるとフランス軍が優勢になります。
フランスを救え…フランスのために立ち上がるのだ
という神のお告げを聞いた16歳だったジャンヌ・ダルクは、廃位を求められたシャルル王太子のもとに駆け付け、自ら軍隊を先導してオレルアンを解放。2か月後に王太子は、シャルル7世として戴冠しました。これによって彼女は『オレルアンの乙女』として名を知られることになります。結果的に彼女はイングランドに捕らえられ、処刑されますが、その後愛国心が芽生えたフランス国民が決起し、百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じました。
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ハプスブルク家『百年戦争』
上記の記事の続きだ。こうしてスペインからオランダに覇権が移り、17世紀後半に、3度にわたるイギリスとの戦争『英蘭戦争』で敗れると、覇権はオランダからイギリスに移るのである。さて、冒頭の記事でスペイン・ポルトガル、ドイツ、オランダ、イギリスについてまとめ、下記の記事で少しフランスについてまとめたが、もう一度中世のフランスについてちゃんと見てみよう。
中世のイギリスでは、フランスとの『百年戦争』、内乱である『バラ戦争』と戦乱が続き、疲弊した封建貴族が没落し、それに代わって国王の権力が強まった。今回中心として考えるのは、この『百年戦争』である。下記の記事で、十字軍とイスラム勢力との戦いで一番有名な『第3回十字軍(1189年 – 1192年)』で戦った、
について少しまとめたが、フィリップ2世はイギリスのジョン王に勝利し、フランス内のイギリス領を奪い返し、王の権威を高めていた。
[フィリップ2世、フランス・カペー朝第7代の王(在位:1180年 – 1223年)]
『尊厳王』フィリップ2世の孫、ルイ9世(在位:1226年 – 1270年)は『聖王』の称号を受け、更にフランスの士気を高めていた。更にその孫のフィリップ4世(在位:1285年 – 1314年)は、『端麗王』と呼ばれた。下記の記事で書いた『アナーニ事件』の当事者である。フィリップ4世が国内の聖職者へ課税を行うのだが、教皇ボニファティウス8世に謝罪するよう突き付けられる。しかし、フィリップ4世は謝罪せず、むしろ家臣を使ってボニファティウスを襲撃したのである。
[アルフォンス·マリー·アドルフ=ドヌー「教皇ボニファティウス8世の捕縛」]
このあたりから『権力者=教皇』という図式は『権力者=国王』という図式に塗り替えられ始めていた。そんな中、イギリスとフランスが中世ヨーロッパの覇権をかけて『百年戦争』を始めるのである。
伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
当時、そのフランス王フィリップ4世の子供であるシャルル4世(在位:1322年 – 1328年)が死去すると、カペー朝が断絶。ヴァロワ朝フィリップ6世(在位:1328年 – 1350年)が国王になる。フィリップ6世はヴァロワ朝初代のフランス王となるわけだ。だが、野心家だったイングランドの王、エドワード3世が王位継承権を要求した。彼はフィリップ4世の女系の孫だったのだ。
だが、フィリップの即位は異議なく受け容れられ、両者の間には遺恨が残っていた。その後、フィリップ6世と対立していた彼の義弟のロベール3世・ダルトワを巡って亀裂が生じる。彼がエドワード3世に、フランス王になることを勧めたのだ。そしてエドワード3世は親英家のフランドル伯を味方につけ、フランスに上陸、そして1337年、『百年戦争』の火ぶたが切られることになる。
[エドワード3世]
戦争の結果は、前半がイギリス、後半はフランスの勝利だった。前半で活躍したのはエドワード3世の子である『エドワード黒太子』だった。『黒太子(ブラックプリンス)』と言われた時の王太子エドワード黒太子は、黒い鎧に身を固めたイギリスの猛将であり、軍事的才能があった。16歳の時、『クレシーの戦い』で勝利し、1356年には『ポワティエの戦い』で、4倍の兵力のフランス軍を打ち破り、国王ジャン2世を捕虜にすることに成功し、スペイン遠征でも勝利をおさめる。
[エドワード黒太子]
だが、後半にフランスで活躍したブラックプリンスよりも有名な人物がいる。それこそが、『ジャンヌ・ダルク』その人である。
フランスを救え…フランスのために立ち上がるのだ
という神のお告げを聞いた16歳だったジャンヌ・ダルクは、廃位を求められたシャルル王太子のもとに駆け付け、自ら軍隊を先導してオレルアンを解放。2か月後に王太子は、シャルル7世として戴冠した。これによって彼女は『オレルアンの乙女』として名を知られることになる。
[『シャルル7世年代記』の、ジャンヌとシャルル7世が描かれたミニアチュール。]
だが、ブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランド軍に売り飛ばされ、宗教裁判にかけられた彼女は、19歳の若さで火刑に処せられ、この世を去ったのであった。1431年5月30日に火刑に処された彼女の命がつないだのか、同年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップ善良公とシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。
これを機にシャルル7世はブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年にはフランス・イングランド・ブルゴーニュの三者協議においてイングランドの主張を退け、ブルゴーニュとアラスの和約を締結、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。
[ヘルマン・スティルケが1843年に描いた『火刑台のジャンヌ・ダルク』(エルミタージュ美術館、サンクトペテルブルク)。ジャンヌは白いロングスカートを身に付け、頭には罪人を示す被り物がある。]
その後更にいろいろあるが、1453年7月17日、フランス軍はカスティヨンの戦いに大勝し、イギリス軍人タルボットが戦死、10月19日に再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。結果的には、フランス軍がイギリス勢力のほとんどを大陸から追い出す形で戦争が終結したのである。
しかしこの後のイギリスは『バラ戦争』という内乱が起きるし、フランスはフランス王ヴァロア家と、神聖ローマ皇帝のハプスブルク家が60年間戦った戦争『イタリア戦争(1494年 – 1559年)』が起きたりして、まだまだ戦乱は続いていく。
[百年戦争の変遷、フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)]
さて、これで14~16世紀のヨーロッパ、
の動きの輪郭を見た。冒頭の記事にも書いたように、ヨーロッパの覇権の推移は以下のとおりである。
ヨーロッパの覇権の推移
エリザベス女王の時代に、イギリスがヨーロッパの覇権を握ったわけだ。
[背景に描かれているスペイン無敵艦隊に対する勝利(1588年)を祝うエリザベス1世の肖像画。エリザベスの手は地球儀に置かれ、彼女の国際的な力を象徴している。]
しかし、イギリスの最大の脅威はスペインとこの『フランス』だった。1560年、スコットランド、フランスとの和議を締結し、不毛な争いを終結。これによってフランス軍をスコットランドから排除し、スコットランドにおけるプロテスタントの優位を確立させる。こうしてイギリスはライバル国を出し抜き、ヨーロッパの覇権を握ることに成功したのだ。
ちなみにその和議の翌年に即位したフランスの王はシャルル9世(在位:1561年 – 1574年)だった。フランスの貴公子アンリは、カトリックである王家が新教徒(プロテスタント)の旗手を婿に迎えれば、両者の対立が緩和するのではないかという考えでマルグリット王女と婚礼をあげるが、数日後、結婚を祝う新教徒たちの集団にカトリックの一群がなだれ込み、流血騒ぎとなる。それが下の図、『サン・バルテルミの虐殺(1572年)』である。
[「サン・バルテルミの虐殺」 フランソワ・デュボア作]
彼はこの2年後、惨劇の重圧に耐えられず、24歳の若さで亡くなった。ジャンヌ・ダルクは19歳、エリザベス女王の母、アン・ブーリンも『あってはならない密通』によって若くして処刑されたが、戦争で亡くなった多くの人々と同様、第一線で先陣を切る要人たちもまた、安穏たる日々とは無縁だったようだ。戦争、宗教(思想の違い)、無知、傲慢といった『人間から生まれた概念』が、地球を生きるこれだけの人々に強く影響を与えたのである。
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