いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.新しいイギリス王に弾圧されたピューリタン(キリスト教の一派)が反乱を起こし、王を処刑した革命です。
2.そのピューリタン革命の中心組織である『議会派』を指導した人です。
エリザベス女王が死去し、スコットランドの王ジェームズ1世がイギリス王を兼ねるようになりました。
彼は、エリザベス1世の父であるヘンリー8世から受け就いだ『英国国教会』の立場からピューリタン(清教徒、カルバン派の一派)を弾圧し、議会との対立が深まってしまいました。ピューリタンを中心とする議会はが国王に抵抗し、『ピューリタン革命』が始まったのです。
ジェームズ1世の次にイギリス王となったチャールズ1世の処刑を指示したクロムウェルは、議会派での反対派を追放し、独裁権を得ていました。イギリスには結果的には『共和政』という『王がいない時代』が到来したので、共和制イギリスのこの時代、国のリーダーはこのクロムウェルとなったわけです。彼は『英蘭戦争』に勝ち、ヨーロッパの覇権を獲ったので勢いはありました。しかし傲慢なやり方に不満があり、彼が死んだ後のイギリスは、再び『王様』を必要とするかしないかで、揉めることになります。
『ピューリタン革命』・『名誉革命』
記事としては上記の記事の続きだ。こうしてイギリスはエリザベス1世が女王となり、ライバル国フランス、スペインを押さえ、『英蘭戦争』でオランダも制圧して、ヨーロッパの覇権を握った。
そしてエリザベス1世は死去し、スコットランドの王ジェームズ1世(在位:1603年7月25日 – 1625年3月27日)がイギリス王を兼ねるようになった。『処女王』だった彼女に子供はいなかったのである。
メアリ・スチュアートの子だった彼の時代はスチュアート朝となった。彼は、エリザベス1世の父であるヘンリー8世から受け就いだ『英国国教会』の立場からピューリタン(清教徒、カルバン派の一派)を弾圧し、カトリックも取り締まったが、これによって、議会との対立が深まってしまった。ピューリタンを中心とする議会はが国王に抵抗し、『ピューリタン革命』が始まったのである。
[内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。 左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。]
1642年から内乱がはじまり、当時英国王だったチャールズ1世(在位:1625年 – 1649年)はその内乱によって処刑された。クロムウェルが指導した議会派が勝利する形となったのである。
[オリバー・クロムウェル]
ちなみに、これによって、国家の基盤、存在自体が危ぶまれてしまったので、精神面の動きにあっては、イギリスの哲学者、トマス・ホッブズが『社会契約論』を主張して、国家がいかに必要であるかを説いたのであった。その詳細は下記の記事にまとめてある。
チャールズ1世の処刑を指示したクロムウェルは、議会派での反対派を追放し、独裁権を得ていた。王が処刑されたイギリスでは、トマス・ホッブスら思想家たちの活躍もあったが、結果的には『王がいない時代』が到来した。これを『共和政』という。共和制イギリスのこの時代、国のリーダーはこのクロムウェルとなったわけだ。このクロムウェルの時代に、冒頭の記事に書いた『英蘭戦争』があったのだ。
1640~1649年 | ピューリタン革命 |
1649年 | 共和政が成立 |
[ネイズビーの戦い後の風景(1645年)]
1645年6月14日に発生した、清教徒革命(イングランド内戦)の帰趨を決定づけた王党派と議会派の戦闘。
1652~1654年 | 第一次イギリス=オランダ戦争 |
1665~1667年 | 第二次イギリス=オランダ戦争 |
1672~1674年 | 第三次イギリス=オランダ戦争 |
[第2次英蘭戦争中の1666年6月11日から14日にかけて海戦が行われた(エイブラハム・ストーク画)]
オランダの代わりに世界の貿易市場をリードすることになったクロムウェル時代のイギリスは勢いがあった。しかし、クロムウェルは徐々に軍事独裁色を強め、自らを『護国卿』という役職にし、終身的に、その地位を確保しようと画策した。
だが、その強引なやり方に民衆の反感を買う。チャールズ1世が死んだ10年後の1658年にクロムウェルが死去すると、チャールズ2世が英国王の跡を継ぎ、1660年に共和政の時代が終わり、『王政』が復古する。しかし、専制的な国王と議会の対立は続いてしまった。
チャールズ2世はフランスのルイ14世と密約を結び、国内のカトリック化を図る。弟のジェームズ2世が1685年に即位すると、宗教裁判の復活をはじめ一連の反動的な政策を展開した。そして議会を解散させて独裁の構えを見せる。だが、1688年、議会は彼の追放を決議し、メアリ2世(在位:1689年2月13日 – 1694年12月28日)とウィリアム3世(在位:1689年2月13日 – 1702年3月8日)の夫妻を共同統治王として迎えることにした。
[メアリ2世とウィリアム3世]
無血で行われたこの革命は『名誉革命』と呼ばれた。名誉革命後、追放されたジェームズ2世はフランスに亡命し、ルイ14世の援助を受けアイルランドに上陸するが、ボイン川の戦いでこのウィリアム3世に敗れた。両王は、『王よりも議会が優位である』ことを宣言した『権利の宣言』を認め、『権利の章典』として国民に発布し、これによって議会が政治を主導するイギリスの立憲王政が確立した。
[権利の章典]
ウィリアム3世の死後、ジェームズ2世の子、アン(女王、在位:1702年4月23日 – 1707年4月30日)が即位する。アンはイングランドとスコットランドを合同し、『グレート=ブリテン王国』を成立させた。だが、アンの子が幼くして亡くなっていたため、1714年にはスチュアート朝が断絶。そしてドイツのハノーヴァー候が『ジョージ1世(英国王としての在位期間は1714年8月1日から1727年6月11日)』として英国王となる。
実は彼とアンには縁談があったが、アンが嫌ったため、破談になっていた。ドイツ育ちの国王は英語が喋れなかった。54歳という高齢で即位したことも手伝って、政治は議会出身の政治家たちに一任された。こうして、
『王は君臨すれども統治せず』
という原則が固定化されたのである。そして、ロバート・ウォルポールが1721年から1742年まで、20年にわたり事実上の『首相』を務め、土地税を最大時の4分の1まで下げる一方で、商業や工業、貿易の振興を図ることで税収を増加させることに成功する。また、対外的には戦争をできるだけ避け、安定と平和を追求し、この後にイギリスで起こる『産業革命』へとつながるのである。戦争は避けるが、広大な植民地を持っていた。産業革命を起こすだけの資金が蓄えられていったのである。
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