いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.ヴァイキング(ノルマン人)の一派の首長リューリクが『ノヴゴロド国(862年)』を作ったときです。
2.東スラヴ人と言われた人々が『ロシア人』となり、先にできていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していきました。
3.モスクワ大公国で『雷帝』と呼ばれたロシア史上最大の暴君イヴァン4世は、絶対君主制を導入し、大帝国ロシアの基盤を築きました。
4.『大帝』と言われたピョートル1世は、ロシアに新首都サンクトペテルブルクを建設したりして、西洋化と近代化を図りました。
5.彼の孫ピョートル3世は頼りなかったので、その妻である彼女が第8代ロマノフ朝皇帝となり、優れたリーダーシップでロシアに貢献しました。
リューリクがノヴゴロドを作り、スラヴ人と同化してロシア人の基礎ができます。
その後『キエフ公国』というロシアの原型ができ、一度はモンゴル帝国に飲み込まれるも、『モスクワ大公国』となり、イヴァン3世が分裂していたロシアを統一し、モスクワを中心とした中央集権国家をつくりあげ、2世紀半も続いたモンゴルによる支配を終わらせます。更に、彼の孫である『雷帝』と呼ばれたロシア史上最大の暴君イヴァン4世の時代に絶対君主制を導入し、大帝国ロシアの基盤を築きます。
その後、『大帝』ピョートル1世がロシアの西洋化と近代化を図り、『ポルタヴァの戦い(1708年)』に勝利し、バルト海の覇権を握るなどして、ロシアの国力が築き上げられてきます。その後、第8代ロマノフ朝皇帝となったエカチェリーナ2世は、ウクライナとクリミア半島を手に入れ、プロイセンとオーストリアを巻き込み、ポーランドを3国で分割して領土にするなどして、ロシアに貢献しました。
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『大帝国ロシアの躍進』
記事としては上記の記事の流れの続きだ。ドイツ、フランス、イタリア、スペイン・ポルトガル、イギリス、ヨーロッパのこれらの国々の14~17世紀あたりの歴史を見てきた。そしてこのあたりから『北方の熊』と言われる『ロシア』が動き出すことになる。
下記の記事にも書いたが、ロシアの起因を再確認してみよう。西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされた。だが、西ヨーロッパをを支配したゲルマン人とちがって、東ヨーロッパは『スラヴ人』が中心となった。東スラヴ人と言われた人々は『ロシア人』となり、先にできていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していった。
このノヴゴロド国(862年)を作ったのは、ヴァイキング(ノルマン人)の一派の首長リューリクだ。ラドガとノヴゴロド(ホルムガルド)を支配してきたリューリクが、どのような人生を送ったかに関してはほとんど情報がないが、原住民を押さえてこの地方で覇権を握ったリューリク王朝は、16世紀まで続いた。
[ラドガに到着するリューリク(アポリナリー・ヴァスネツォフ画)]
彼が北西ロシアにノヴゴロドを作ったことが、ロシアの起源となるのである。
9世紀末、ロシアの原型となる『キエフ公国』が建国される。キエフ大公ウラディーミル1世は、ビザンツ皇帝のバシレイオス2世の妹と結婚し、ロシア正教の洗礼を受け、キリスト教化によって国家を統一し、同時にビザンツ文化も導入した。
キエフ公国のあと、ロアはモンゴル帝国の一部となったが、モスクワ大公国が成立すると再び独立し、シベリアへの領土を拡大して大国への道を歩み始める。イヴァン3世が分裂していたロシアを統一し、モスクワを中心とした中央集権国家をつくりあげ、2世紀半も続いたモンゴルによる支配を終わらせたのだ。
更に、『雷帝』と呼ばれたロシア史上最大の暴君イヴァン4世の時代に絶対君主制を導入し、大帝国ロシアの基盤を築いた。
その10代後、1613年、リューリク王朝が終わり、ロマノフ朝に入る。ロマノフ朝の創始者ミハイル・ロマノフによってロシアは新たな局面を迎えることになる。ロマノフ朝はロシア正教会の影響が強く、他の国が経験したような宗教戦争による内乱とは無縁だった。そのため、皇帝が政治的にも宗教的にも強力な権威を持ち、『ツァーリズム(専制政治)』が成り立ち、統治は安定していた。
そのロマノフ朝の5代目皇帝ピョートル1世は皇帝の中でも最も有名だった。
[全ロシアのツァーリ(皇帝)ピョートル1世]
『大帝』と言われた彼は、しかし、ロシアがカトリック・プロテスタント世界に比べて劣っていると自覚していた。そこで西欧への大規模な使節団を派遣し、新首都サンクトペテルブルクを建設したりして、西洋化と近代化を図った。
ロシアは、当時北東ヨーロッパを支配していたスウェーデンに戦争を挑み、『ナルヴァの戦い(1700年)』には負けたものの、『ポルタヴァの戦い(1708年)』に勝利し、ロシアはバルト海の覇権を握った。
[ポルタヴァの戦い]
ただ、彼の孫にあたるピョートル3世は頼りなかった。しかし、それを反面教師のようにしたのか、彼に嫁いだドイツ人のエカチェリーナ二世が立ち上がった。頼りなかった皇帝の後を継ぎ、第8代ロマノフ朝皇帝となった彼女は、周囲の信頼も勝ち取っていた。
彼女はドイツ生まれなのにロシア語を熱心に勉強。元来、外国語を覚える覚悟を持てるような人間は、何をやらせても強い。彼女は内政、外交ともに手を抜くことなく、優れたリーダーシップでロシアに貢献した。ウクライナとクリミア半島を手に入れ、プロイセンとオーストリアを巻き込み、ポーランドを3国で分割して領土にしてしまった。
世界各地の国々はあり、そこで多くの人や、思想や、文化が生まれ、数えきれない歴史が作られた。例えば島国である日本や、東南アジア、
あるいはアメリカ大陸の山奥にも、インカ帝国やアステカ王国があり、独自の文化が作られた。
16世紀頃、スペインは征服者(コンキスタドール)をアメリカに送り込み、次々とペルー、メキシコ一帯は征服され、スペインの植民地となっていった。また、東南アジアでも、その地の利が生きたタイ以外はすべて列強諸国の植民地となった。『極東の国』、あるいは『島国』だった日本も地の利があって大国の植民地化を逃れるが、18世紀あたりの時代までは、ヨーロッパを中心として世界が渦を巻いていたのである。
ヨーロッパの覇権の推移
なぜこの時代にイギリスが世界の覇権を握ったかというと、それはやはり『海を制覇したから』と言えるだろう。『大航海時代』を開いたスペイン・ポルトガルを『オランダ独立戦争』で打ち破ったオランダを、『英蘭戦争』で打ち負かし、覇権を奪い、世界貿易の勝者となった。更に、冒頭の記事にも書いたが『七年戦争』の裏で行われた、
での『植民地の奪い合い』にも勝利していたのだ。そしてそこには『奴隷狩り』という黒い歴史もあった。
[左上から時計回り:プラッシーの戦い(1757年6月23日)、カリヨンの戦い(1758年7月6日 – 8日)、ツォルンドルフの戦い(1758年8月25日)、クネルスドルフの戦い(1759年8月12日)。]
これらはすべて、多大なる利益につながる条件である。やはり、辺境の地でひっそりと身を守って暮らす人間と比べると、傲岸不遜であっても貪欲に自分の欲望を満たそうとする人間の方がエネルギッシュになるのは必然。人としてどちらの生き方が正しいのかという倫理的な話を完全に無視して考えれば、『色々と』積極的だったヨーロッパ諸国がこの時代の世界の覇権を握ったということなのである。
ピョートル1世は、ロシアをもっと『世界規模』の国にしたいと覚悟し、エネルギーを燃やした。すると、そこから物事がエネルギー拡大の方向に傾き始めた。まさに、下記の黄金律を思い知るワンシーンである。
もちろん、人としての正しい生き方はきっと、下記の黄金律が教えてくれているはずだ。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。
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