産業革命って何?わかりやすく簡潔に教えて!
18世紀のイギリスで革命的とも言える機械や動力が次々と発明され、産業のありかたが変わりました。
例えば今まで手動だったものが、自動になる。
それを考えただけでどれだけ効率と生産力が上がるかはわかるはずですが、1733年に『飛び杼(ひ)』発明をしたジョン・ケイを皮切りに、イギリスで次々と革命的な機械や動力が開発され、産業界に革命が起こります。これが『産業革命 』です。ジョン・ケイは迫害を受けますが、それは彼の発明によって失業者が出る可能性があったからです。それだけのことをやったということですね。
その中でも最も有名なのが蒸気機関を発明したジェームズ・ワット。実はワットが蒸気機関の発明をしたわけではなく、ワットは機械技師ニューコメンが1712年に実用化した蒸気機関に数多くの改良を施したのです。更にそこに、
という2つの革命が加わり、産業革命に拍車をかけました。イギリスでこの革命が起きた理由は、
という理由があり、イギリスに『潤沢な資金』が蓄積されていたからです。更に無駄な戦争を避け、浪費を抑えたことも大きな理由です。こうしてイギリスは『世界の工場』と言われるようになり、ますます世界の覇権を握るようになるのです。
『産業革命』
上記の記事の続きだ。こうしてそして、ロバート・ウォルポールが1721年から1742年まで、20年にわたり事実上の『首相』を務め、土地税を最大時の4分の1まで下げる一方で、商業や工業、貿易の振興を図ることで税収を増加させることに成功する。
また、対外的には戦争をできるだけ避け、安定と平和を追求し、この後にイギリスで起こる『産業革命』へとつながるのである。戦争は避けるが、広大な植民地を持っていた。産業革命を起こすだけの資金が蓄えられていったのである。
18世紀というのは1700年~1800年代のことだが、その18世紀後半になると、イギリスは新たな局面を迎えることになる。革命的とも言える機械や動力が次々と発明され、産業のありかたが変わったのだ。これにより社会や生活の在り方、あるいは交通手段にも大きな影響が出た。これがその『産業革命』である。
ジョン・ケイ | 飛び杼(ひ) |
ハーグリーヴス | ジェニー(多軸)紡績機 |
アークライト | 水力紡績機 |
クロンプトン | ミュール紡績機 |
カートライト | 力織機 |
ワット | 蒸気機関 |
[自動織機の飛び杼]
1733年、飛び杼発明をしたジョン・ケイが迫害を受けた理由は、彼の発明によって失業者が出る可能性があったからだ。それだけのことをやったということだった。1764年、ハーグリーヴスは、1度の1本しか紡げなかった糸車を複数本紡げるように改良した。彼もまたジョン・ケイと同じように他の職人から身の保身のために迫害を受けてしまう。
1769年、多軸紡績機を巨大化させ、工場を建てて水力を利用して大量生産を開始したアークライトは、その労働者からの迫害をなんとか逃れ、富豪となった。先の二人も展開次第では、彼の様に明るい未来があったのだ。1779年、ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を合体させ、良質な糸の大量生産を実現した。更に1785年、カートライトは力織機を開発し、蒸気機関を動力に織機を自動化し、一人で複数台操作できるように進化させた。
このようにして技師や織匠、紡績工、あるいは牧師などが産業に関わる様々な発明をして、この世界の形を大きく変えることになるのだ。その中でも最も有名なのが蒸気機関を発明したジェームズ・ワットだろう。
[ジェームズ・ワット 肖像:カール・フレデリック・フォン・ブレダ画]
実はワットが蒸気機関の発明をしたわけではない。ワットは、機械技師ニューコメンが1712年に実用化した蒸気機関に数多くの改良を施したのだ。
この改善によって、燃費が飛躍的に向上し、それまでは『鉱山の排水用』くらいしか使い道がなかった蒸気機関の用途が大幅に広がったのである。これが後に更にたくさんの技術者を通して、『機関車』などの輸送動力へと進化する可能性が開かれたのである。1765年あたりから彼の蒸気機関の改良は始まった。ワットの改良が、アークライトやカートライトの発明にも大きく貢献していたわけである。
[1784年にボールトンとワットが設計した蒸気機関の図面(エングレービング)。]
更に、以下のような人々の発明にも影響を与える。
スティーヴンソン | 蒸気機関の実用化に成功 |
トレヴィシック | 蒸気機関車を発明 |
フルトン | 蒸気船を実用化 |
世界初の機関車工場を設立したスティーヴンソン、蒸気機関車の父といわれたトレヴィシック、汽船航行を商業的に実現したフルトンらの登場によって、更にこの世界は新たなステージに突入することになる。
蒸気間の動力があれば、物流、運搬、産業方面に大きな影響を与えられる。手でやっていたものが機械ができるようになり、大幅な人件費のコストカットと効率アップにつながるわけだ。例えばこれを現在に置き換えて考えれば、『10年後にはAIに仕事を奪われている』と言われているようなことと同じことである。それまでやむを得ず人の力でやっていたものが、技術革命によって改善され、より合理的な選択肢を選べるようになるのだ。
それはとても素晴らしいことだ。だが、この『AI問題』と同じように問題もあって、それまで必要とされていた人々が失業してしまうということである。だからジョン・ケイや、ハーグリーヴスや労働者から迫害を受けたのだ。そして彼らはこれら機械に恨みを持つようになり、『ラダイト運動』を起こしてしまう。
[織機に対する破壊。1812年]
イギリスがこのような産業革命を起こすことができたのは、冒頭、あるいはそれまでのイギリスの記事にも書いたように、
という理由があり、イギリスに『潤沢な資金』が蓄積されていたからだ。企業に置き換えて考えてもそうだが、潤沢な資本金がある会社であれば、十分な研究開発費が捻出できる。ノーベル賞を受賞する人の中にも、その研究の資金がなくて会社とトラブルを起こし、資金援助ができる会社に転職することがあるが、何かを成し遂げるにはそれだけのお金が必要なのである。そしてイギリスにはそれをするだけのお金があったということだった。
更に、アメリカ大陸から綿花を輸入し、アフリカに綿織物を輸出するというように、原料供給元と製品の輸出先を同時に確保していた。それまでの時代で『販路』を世界中に作っていたイギリスは、その販路を利用して大きな利益を上げることができたのである。そのため、港湾都市リヴァプールに近いマンチェスターに工場がつくられ、綿織物工業が発達したわけである。
[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業記念列車]
また、労働者にも困らなかった。当時、農業の合理化で失業した農民が大勢いたので、いくらでも人を集めることができたのだ。そしてイギリスではそれによる人口急増の対処として『新農法』を導入。『農業革命』である。それも産業革命につながるのである。
Wikipedia農業革命(新農法)を見てみよう。
カブなどの根菜と栽培牧草を特徴とする新農法は、従来の三圃制では地力回復のために避けられなかった休耕地を必要とせず、農業生産の増加と地力の回復を両立させ、また一年を通じた家畜の飼育が可能となった。農業生産が増加した結果、ようやく西欧も他地域と同程度の生産性に達した。人口革命といわれるほどの人口増加をもたらし、産業革命の要因の一つとなった。
更にこの時、『エネルギー革命』も起こる。今までの使っていた『木炭』から『石炭』へと変わるのだ。広大な植民地があるから、その分だけの市場があった。そこで豊富な資源を獲得し、鉄や石炭の採集・生産が実現した。例えば、英ブリストルの製鉄業者だったダービーは、木炭製鉄の危機を、1713年頃に開発した『石炭製鉄法』によって乗り切る。更に、その息子が石炭を蒸したコークスでの製鉄法を発明し、燃料費を従来の1割以下に抑え、イギリス冶金術の急速な発展に貢献した。
こういった様々な革命が、この時代のイギリスで巻き起こったのである。これにより、前述したアークライトは富豪になったと書いた。そのようにして、やはり利益を得る人とそうじゃない人に分かれるわけである。『資本家』と『労働者』である。のちにこの産業革命以来の問題をカール・マルクスが取り上げることになるが、それはもう少し後の話である。
マルクスがいないこの時代は、人々はこの問題にどう向き合ったのだろうか。それはやはり『社会主義運動』につながってしまうのである。技術革新で国が豊かになるのはいいが、格差がひどくなっていくわけだ。すると、最下層にいる人間から悲鳴の声があがるようになってくる。機会による生産はどんな人でもできるから、女性や子供までもが労働に駆り出されて、低賃金で長時間働かされることもしばしばだった。
そこで、1883年にロバート=オーウェンらが立ち上がり、『工場法』が設立。児童の労働禁止が定められたり、女性が保護する規定が加えられ、結果としてイギリスは労働者保護の先駆けともなっていったのである。
こうしてイギリスは『世界の工場』と言われるようになり、
といった国々がそれに追随し、これらの国は『先進国』の立ち位置、そして、アジアやアフリカ等の国々が『発展途上国』の立ち位置を占めるようになる。途上国に該当する国々は、先進国に原材料を提供し、さらにそこで生産されたものを買い取るという、従属国の立場を強いられるようになるのだ。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの時代をまとめた人気動画があります。
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