ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- ナポレオンは何をした人?
- ナポレオン戦争(1803年–1815年)の原因は?
- ナポレオン戦争の内容と結果は?
1.王がいなくなった後のフランスに貢献し、世界の覇権を獲る為に暴れ回った人です。
2.フランス潰しを画策した外国を倒し、むしろフランスを強国と証明するためです。
3.ほとんどはナポレオンが勝利しますが、『ロシア遠征』に負けるとまたもや『対仏大同盟』を結成され、連合軍に負けて衰退していきました。
ハニワくん
博士
フランス革命を起こしたフランスは外国に『対仏大同盟』を作られ警戒され、孤立していました。
自分たちの国でも『フランス革命』のようなことが起きたら大変ですからね。フランスは間違っていたということを証明するためにも、各国はフランスを潰しにかかりました。そうして内外的に混乱していた状況で、フランスは『強いリーダー』を求めていました。そこに現れたのがナポレオンだったのです。
ナポレオンはイタリア、エジプト、ロシアなどの遠征に赴き、フランス帝国の領土拡大を目指します。幾多の戦争を指導し、オーストリア・プロイセンの軍を撃破し、ヨーロッパ大陸の覇権を握り、イギリスと和約を結び、ヨーロッパに平和が訪れました。しかし、イギリスはフランスにとって最大のライバル国なので、『大陸封鎖令』を出し、イギリスに経済的な制裁を与え、フランスがトップになるように画策します。
ほとんどがナポレオンを恐れてそれに従いますが、ロシアだけがそれを無視してイギリスと取引をします。そのロシアを『裏切り者』として侵略しようとしますが、地の利を生かされて多くの兵士が凍死したりして、敗北。その戦争に負けたナポレオンは、一気に形成が悪くなり、ロシアを含めたヨーロッパ諸国にまた『対仏大同盟』を結成され、徐々に追い込まれていきました。そして最後は大西洋の絶海の孤島、セントヘレナ島に流され、屈辱的な死に方をして一生を終えました。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
フランス革命後のフランス
『ナポレオン戦争』
『フランス革命』の原因はルイ14世?ルイ16世?それともマリー・アントワネット?
上記の記事の続きだ。1793年、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンによって公開処刑されてしまい、フランス史上初の『共和政』が誕生するわけだ。では、王のいなくなったフランスはどういう方向に行くのか。下記の記事ではイギリスのクロムウェルが同じようなことをした歴史を見た。王を処刑したイギリスはこのフランス同様『共和政』となり、クロムウェルが議会派での反対派を追放し、独裁権を得ていたのである。
エリザベス女王の死後『ピューリタン革命』で王を引きずり下ろしたクロムウェル!『名誉革命』で王を『シンボル』にした英議会
『ルソーの血塗られた手』ロベスピエールの恐怖政治
実はフランスも同じような現象が起こる。政治腐敗を憎み『清廉潔白の人』と言われた弁護士出身のマクシミリアン・ロベスピエールなどジャコバン派のうち最も急進的な山岳派が独裁権を掌握する。反対派を次々と断頭台に送る恐怖政治体制を敷いた。
[マクシミリアン・ロベスピエール]
なぜそんな人が恐怖政治をしてしまったのか。人民主権という考えを打ち立てたジャン=ジャック・ルソーに心酔した彼は、実は小市民や労働者側の気持ちを重視し、亡命貴族や反革命分子の土地を没収して、無償で農民に分け与えた。しかし、
『徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である。』
と言って、彼はそのうち同盟である革命の同志も処刑するようになる。『力』に心を支配されてしまったのだ。例えば、彼とともに山岳派を指導したダントンが恐怖政治を止めようと寛容政治を説くと、ロベスピエールは彼を危険視し、処刑してしまった。そうして彼は『ルソーの血塗られた手』と言われ、最後は自分自身がギロチンにかけられてしまったのである。
1年間フランスで独裁政権を握ったロベスピエールが1794年に『テルミドールのクーデター』によって処刑されると、恐怖政治はそこで終焉することになった。
[テルミドール9日のクーデタで撃たれるロベスピエール。それを支えているのが、サン=ジュストである。史実に忠実であるかは疑問が残る。]
このサン=ジュストというのはロベスピエールの右腕と言われた人物で、女性のような風貌から『恐怖政治の大天使』と言われた。ルイ16世の処刑を決定づけた演説を行ったことでも有名な彼は、結局彼同様、ギロチンにかけられ26歳でこの世を去ったのであった。
総裁政府時代の『第二回対仏大同盟』
フランスは再び混乱に陥る。ロベスピエール亡きあと、一度『総裁政府』となり、迷走する。そしてその混乱に乗じて周辺諸国が『第二回対仏大同盟』を結成し、フランスを潰しにかかろうとしてしまう。
[第二次総裁政府の総裁、左からメルラン・ド・ドゥーエー、ラ・ルヴェリエール=レポー、バラス、フランソワ・ド・ヌフシャトー、ルーベル]
1795年11月2日から1799年11月10日までのフランスの行政府である。国民公会の後、統領政府の前にあたる。5人の総裁が行政を担当し、二院制の議会が立法を担当した。
さて、どうする。フランスは再び全ヨーロッパを敵に回してしまうことになった。総裁政府のような弱いリーダーシップではこの窮地を脱することはできそうにもない。ここでそんな当時のフランスにとってピッタリの逸材が現れることになる。
ナポレオンの登場
それこそがかの有名なフランスの軍人であり政治家、ナポレオン・ボナパルト、つまり『ナポレオン(在位:1804年 – 1814年、1815年)』である。総裁政府は最初ナポレオンの能力を利用するだけ利用しようとしていたのだが、ナポレオンには小細工は通用しなかった。1799年、総裁政府はナポレオンに軍事クーデターを勧め、それだけに利用するだけのつもりだった。しかし彼はこのチャンスをつかみ取り、クーデターと同時に自ら『第一統領』を名乗り『統領政府』を樹立し、フランスの実験を握ってしまうのである。
ナポレオン戦争の開幕
ナポレオンはイタリア、エジプト、ロシアなどの遠征に赴き、フランス帝国の領土拡大を目指した。結果はこの後で見るが、どちらにせよ彼が爆発させたエネルギーは並大抵のものではなかった。もし、同じ時代に下記のような人物がいなければ、ナポレオンは世界を獲ったのかもしれない。
- イギリスの海軍提督ネルソン
- ロシア皇帝アレクサンドル1世
- 英国の軍人ウェリントン
見事『第二回対仏大同盟』を破るが、その後、『イギリス最大の英雄』と言われたイギリスの海軍提督ネルソン率いるイギリス艦隊との戦い、『トラファルガーの海戦』では敗れてしまう。ネルソンは、ナイル河口でフランス艦隊を破り、エジプト遠征中のナポレオンを孤立させた。更に、トラファルガーの海戦で、フランス・スペイン連合艦隊を撃破。彼自身はこの戦争で死去するが、戦史上まれに見る大勝利を収めてナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したのだ。
[トラファルガーの海戦(ターナー画)]
皇帝ナポレオンの誕生
ただ、そんなナポレオンは陸戦『アウステルリッツの戦い』では勝利。幾多の戦争を指導し、オーストリア・プロイセンの軍を撃破し、ヨーロッパ大陸の覇権を握った。イギリスと和約を結び、ヨーロッパに平和が訪れた。
- 銀行設立
- 税制改革
- 『ナポレオン法典』の発布
等によって国内の安定を図り、民衆の権利を守って国民の人気を得て、1804年、投票によって『皇帝』に就任することになったのである。その投票結果は実に『357万:600』という圧倒的なものだった。1805年、戦争を再開し、ヨーロッパ中を支配。その支配地域は、西はスペイン、東はポーランドからハンガリーまで及んだ。
1811年時点の最大勢力図
- 茶色:フランス帝国
- 黄土色:衛星国
- ベージュ色:同盟国
大陸封鎖令
だが、ナポレオンが本当に倒したかったのはイギリス。ネルソンに『トラファルガーの海戦』で打ち負かされたように、イギリスはフランスにとって最大のライバル国だった。そこでナポレオンは、自分が制圧したヨーロッパの国々に、イギリスとの貿易を禁止させる。現在でも、北朝鮮が悪いことをしたらアメリカその他の先進国が『制裁』として輸出入を禁止したりして、ダメージを与えることをよく見かけるが、同じように当時のフランスも、イギリスにそうした『制裁』をしようと画策したのだ。いわゆる『大陸封鎖令』である。
[大陸封鎖令の条文]
フランス帝国とその同盟国の支配者になったナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に発令した経済封鎖命令。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令とも呼ぶ。
ロシアとの死闘
ほとんどの国はそれに従ったが、ロシアがタブーを犯し、ルールを破った。イギリスの穀物を輸出する『大陸封鎖令破り』をしたのだ。そして1812年、ナポレオンは裏切り者であるロシアを制圧するため、モスクワ遠征を行う。
しかし、ロシア皇帝アレクサンドル1世は賢く、地の利を生かそうとしてわざと少しずつ敗北しながら、フランス軍をロシア内部におびき寄せる。そして冬を待ち、環境に適応できず弱体化したフランス軍を倒したのだ。実にナポレオン軍は、戦死と凍傷で61万もいた兵士が5千人に激減してしまったという。
[アレクサンドル1世(ステパン・セメノヴィッチ・シチューキン画、1809年)]
中国文学の第一人者である守屋洋氏の『孫子の兵法』にはこうある。
中国の戦国時代末期、趙の国に李牧(りぼく)という名将がいた。当時、中国の北方に匈奴(きょうど)という異民族が勢力を張り、しきりに北辺を荒らしまわっていたが、趙の国王は、なんとか匈奴の侵攻を押さえようと、李牧を討伐軍の司令官に任命した。ところが李牧は守りを固めるばかりで、いっこうに討って出ない。毎日、騎射の訓練に励む一方、烽火(のろし)を整備し、間諜を放って匈奴の動きを伺いながら、部下には、
『匈奴が攻めてきても、けっして戦ってはならぬ。すぐ城内に逃げ込むがよい。』
と指示した。この結果、たびたび匈奴の侵攻を許しはしたものの、趙側の損害はめっきり少なくなった。こうして数年経った。相手が逃げてばかりいるので、趙軍遅るるに足らずと判断した匈奴は、十万余騎の大軍をもって襲い掛かってきた。間諜の知らせを受けた李牧は、さっそく奇陣を設けて迎撃し、さんざんに撃ち破った。以後、李牧が健在のあいだは、さすがの匈奴もあえて趙の辺城には近づこうとしなかったという。
ここにあるのは『風林火山』だ。李牧(りぼく)同様、このアレクサンドル1世もかなりの兵法の使い手だったようだ。彼は一度『アウステルリッツの戦い』でナポレオンに敗北していたが、この時見事にリベンジを果たしたのである。
[アドルフ・ノーザン『ナポレオンのモスクワからの退却』]
再び結成された対仏大同盟
戦争に負けたナポレオンは、一気に形成が悪くなる。そのロシアを含めたヨーロッパ諸国が『対仏大同盟』を結成。『ライプチヒの戦い』で、連合軍に大敗し、ナポレオンはついに退位に追い込まれ、エルバ島に流される。だが、ナポレオンはそこを抜け出し、フランスにもどってもう一度帝位に返り咲く(百日天下)。しかし、英国の軍人ウェリントン率いる英国軍は、プロイセン、オランダと連合を組み、『ワーテルローの戦い』でナポレオンを打ち破る。
彼は『ナポレオンの息の根を止めた戦略家』、あるいは『鉄の侯爵』としてのちに首相も務める。
こうしてナポレオンは、大西洋の絶海の孤島、セントヘレナ島に流されてしまった。
ナポレオンとはどんな人物だったのか
『超訳孫子の兵法』にはこうある。
英雄にも最期は訪れる
(省略)ナポレオンが没落した理由も、負けるまで侵略戦争を続けたからである。ナポレオンは失脚後、セントヘレナ島に幽閉されて、島の総督ハドソン・ロウにさんざん言いじめられた。ハドソン・ロウはいつもナポレオンを『ボナパルト将軍』と呼び嘲笑して、彼の頭を殴ったりした。さらに体格のいい衛士たちをナポレオンの家の前に立たせて、彼が家を出ようとすると激しく殴りつけ、家の中に引き戻した。屈辱の連続に耐えられなかったナポレオンが病気になってしまった時、ハドソン・ロウはナポレオンの医者を英国に強制送還した。
人々のほとんどはナポレオンの立派な姿だけを知っていて、彼の最期がどのくらい惨めだったかは知らない。歴史上最高の戦略家の最期は、ひどいいじめられっ子の姿よりも悲惨だったのだ。負けるとはこういうことである。戦いを好む人は、勝率がいくら高くても、結局誰かに敗北して終わることになる。
[セントヘレナのナポレオン]
好戦的だったナポレオンは敵に捕らえられ、最期に惨めな思いをして屈辱的な死を遂げたのであった。常に国民から戦うことを求められた彼は、確かにみじめな最期を迎えたかもしれない。だが、彼がフランスの皇帝の座を得たときの主体性は、さすがの一言。
私は彼のこの言葉を忘れたことはない。彼がその絶海の孤島に流されたのも、ヨーロッパ諸国列強連合が70万の軍勢で、ナポレオン軍20万に対抗したことを見ても、ナポレオンという人間がどれほどエネルギッシュな人間だったかということがわかるのである。
フランスは、『自由、平等、愛』を主張して、フランス革命を起こした。しかし実際には、その理想を大きく逸脱し、多くの血を流した。ナポレオン戦争も同じことだった。だが、その代償と同時に得たものもあった。これらフランスの騒動は、19世紀の各国の革命や個人の自由・平等を主張する自由主義、ナショナリズム(国民主義)運動の要因になった。また、ナポレオン法が世に与えた影響も大きかった。一つだけ言えるのは、彼がフランスで燃やしたこのエネルギーは、決してないがしろにできるものではなかったということだ。
ナポレオンの盛衰
[ダヴィッド『ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト』]
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