ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- ウィーン会議(1814~1815年)って何?
- ウィーン体制って何?
1.ナポレオン戦争後のヨーロッパの後始末、微調整です。
2.オーストリアの政治家メッテルニヒが主導した保守反動的な国内政策です。
ハニワくん
博士
ナポレオンが世界に与えた影響は大きく、再び同じような革命が起きたときの話し合いをする必要がありました。
しかしその話し合いである『ウィーン会議』では、最低限の話はすぐに決まりましたが、領土の分配などの細かい話がまとまらず、各国は対立し、なかなか話が進みませんでした。ただウィーン名物夜の舞踏会だけは連日のように開かれたので、
『会議は踊る、されど進まず』
と風刺されました。
メッテルニヒが主導した保守反動的な国内政策『ウィーン体制』とは『昔の政治体制に戻そうとする政治の考え方』です。しかし、ナポレオンの影響力も手伝って、フランス革命後に広まった自由主義やナショナリズムは、度重なる弾圧にもかかわらず各地で広がり続けていました。そして、『諸国民の春』と言われる反乱や暴動が頻発することになります。この時代のヨーロッパは『革命』に憑りつかれていて、
革命をすれば世界を変えられる!
と考えて行動する人々で溢れたのです。したがってウィーン体制はすぐに崩壊してしまいました。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
ウィーン会議
『ウィーン体制』
王を失ったフランスで『ナポレオン・ボナパルト』のエネルギーが大爆発!イギリスの代わりに世界を獲るか?
上記の記事の続きだ。ヨーロッパはナポレオンに引っ掻き回されたから、その後始末、微調整をする必要があった。そこで、オーストリアのシェーンブルン宮殿にヨーロッパの各代表が集まり、 『ウィーン会議(1814~1815年)』が開催される。
[ウィーン会議の様子 Jean-Baptiste Isabey画]
ウィーン体制
そしてその後オーストリアの政治家メッテルニヒが主導し、『ウィーン体制』が取られる。この会議には、
- オーストリア外相メッテルニヒ
- プロイセン王国宰相ハルデンベルク
- イギリス外相カスルリー
- フランス外相タレーラン
といった各国の重要人物たちが参加していた。メッテルニヒはまず1809年にフランスに割譲した領土の回復に成功する。フランスはナポレオンが死んだので、ブルボン朝が復活してルイ18世が王位に就く。更に、ナポレオンの勢いを止めたイギリスにはケープ植民地とスリランカ、ロシアにはポーランドとフィンランドが与えられた。
また、再び同じような革命が起きたときに対応できるように各国の間で同盟が作られらた。
- 四国同盟
- 神聖同盟
である。例えば東南アジアも第二次世界大戦の後に同盟を組み、『ASEAN』という連合体を作ったが、このような動きはこの時代にも見られたということである。
『ASEAN』現在の加盟国
- タイ
- インドネシア
- フィリピン
- マレーシア
- シンガポール
- ブルネイ
- ベトナム
- ミャンマー
- ラオス
- カンボジア
東南アジアで命を燃やした歴史に残る偉人たちと、唯一独立を守り続けた奇跡の国~ASEAN誕生~
『会議は踊る、されど進まず』
このような最低限の話はすぐに決まったが、領土の分配などの細かい話がまとまらず、各国は対立し、なかなか話が進まなかった。しかし、ウィーン名物夜の舞踏会だけは連日のように開かれたので、
『会議は踊る、されど進まず』
と風刺された。
[ウィーン会議の風刺画]
無視される保守反動的な国内政策
ウィーン体制は、保守反動的な国内政策がとられた。しかし、ナポレオンの影響力も手伝って、フランス革命後に広まった自由主義やナショナリズムは、度重なる弾圧にもかかわらず各地で広がり続けていた。せっかく革命を起こし、王を引きずり下ろし、『共和政』の国を作って自分たちの自由と権利を主張してきたのに、またここで元に戻るなんていうことは、受け入れられなかった。
昔の政治体制に戻そうとする政治思想およびその勢力。
そしてそれはフランスだけではなく、ヨーロッパ中に広まっていたのだ。これがナポレオンの影響力だと言っていいだろう。ナポレオン戦争はフランス革命の理念を全ヨーロッパに広めていたのだ。そのため、
- ドイツの学生運動
- イタリア『炭焼き党』カルボナリの反乱
- ロシアのデカブリストの反乱
というように、ヨーロッパ中で自由や権利を主張する『自由主義運動』が行われた。この時代のヨーロッパは『革命』に憑りつかれていて、
革命をすれば世界を変えられる!
と考えて行動する人々で溢れたのである。まるで『革命ブーム』である。
フランスの新たな王ルイ18世は、議会に協力的な姿勢を見せるものの、聖職者や貴族を重用したため、国民に失望された。更にルイ18世が死去して即位した弟のシャルル10世は、絶対王政復活を目指して国民軍を解体し、国民の怒りを買う。そして、1830年7月27日から29日にフランスで『七月革命』が起こる。これはフランスでは栄光の三日間とも言われている。シャルル10世はイギリスに逃亡するが、退位に追い込まれ、自由主義者と知られたオルレアン家のルイ・フィリップが新たなフランス王となる。
[フランス七月革命]
自由主義者のルイ・フィリップは苦労を重ねたが、大資本家や銀行家に担がれ王位に就いた。彼の王政は『七月王政』と言われ、正統主義を否定し立憲君主制を導入することで、自由主義と資本主義を発達させ、フランスに産業革命をもたらす。だが、実際には主権在民の体裁をとった金融資本家のための体制にすぎず、市民から『株屋の王』と呼ばれて揶揄された。選挙権を金持ちにだけ与え、農民や労働階級たちをないがしろにしたのだ。
二月革命
ナポレオン→ルイ18世→シャルル10世→ルイ・フィリップ。
これだけ色の違う人間が王をやったとしても、なかなか世界が変わらない。
やはり国に王様はいらないのだ!
民衆はやがてそういう決断に至るようになった。そこへ、七月革命後に首相となってルイ・フィリップを擁した七月王政の実力者、ギゾーが、選挙権を求める民衆に対し、
ギゾー
と発言。民衆の怒りはついに頂点に達し、1848年、フランスで参政権を求める市民が蜂起し、『二月革命』が起こる。ルイ・フィリップはイギリスに亡命し、フランスに再び『共和政』がやってくるのだ。これがフランスにとっての二度目の共和政なので、『第二共和政』と呼ばれる。
[フランス二月革命]
このようにして、この時代はそこかしこでとにかくすぐに『革命』が起こった。二月革命の影響で、『諸国民の春』と言われる反乱や暴動が頻発することになってしまう。
諸国民の春
七月革命と二月革命の影響
これら一連の騒動で、ウィーン会議でメッテルニヒが作った『ウィーン体制』はもはや完全に崩壊する。結果、シャルル10世は『ブルボン朝最後の王』となり、そしてルイ・フィリップは『フランス最後の王』となってしまったのである。
ナポレオン以降のフランス
フランス革命以降の体制の変遷
第二共和政
しかし、ここからフランスはまだまだ二転三転とすることになる。王がいなくなり、『第二共和政』の時代を迎えたフランスだが、それはそれで問題があった。貧しい人々は『社会主義』を求め、貧しくても生産物を平等に受け取れるように主張するが、中程度の生活を送る農民らは、自分の土地を持っているため、それだと不平等だと感じ、意見が対立。このように、国内のトラブルを自分たちで解決することを強いられたフランスは、頭を抱えることになる。
そこで登場するのがあのナポレオンの甥にあたる人物、ルイ・ナポレオン。『ナポレオン3世』である。フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 – 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 – 1870年)となる男だ。
[ナポレオン3世]
彼は経験も人脈もない人間で、一度終身刑を食らいイギリスに脱獄する経験を持っていた。しかし、ナポレオンの一族ということで大いに期待され、国民投票によって大統領になり、そして3年後、クーデターで議会を解散、翌年には皇帝の座に就いた。
第二帝政
民衆はまだかつてのナポレオンが放った異彩を忘れられないでいたのだ。『ナポレオン3世』を名乗った彼の政治は『第二帝政』と呼ばれるようになる。
- 金融整備
- 鉄道建設
- 都市改造
などの公共事業で経済成長に貢献し、
- クリミア戦争
- アロー戦争
- インドシナ出兵
- イタリア統一戦争
で国内外での威信も向上させた。
『1世を演じ直した茶番劇』
しかし、うだつの上がらなかった彼の経歴がそうさせたのか、彼がフランス王の座に執着するような動きが見られる。例えば、人気取りに頭が支配されるのだ。一度は終身刑になった人間が、英雄ナポレオンと、国民からの人気で王の座を得て人生を変えられた。すると、そこにあるのはやはり王の座への執着心ということになる。
自分に実力があるのではない。私は偶然この地位を得ただけだ。思い上がってはならない。
そう考えなかった彼は、『思い上がり』、つまり傲岸不遜な心を生み出し、身分不相応の戦争に首を突っ込むようになった。メキシコ出兵では、メキシコにフランスの衛星国を作ろうと強引に戦争をするが、大敗する。そして、プロイセンの老練ビスマルクに挑発され、『普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)』を起こし、捕虜にされてしまうという失態も招く。そして、彼の時代第二帝政は終わりを迎えた。
マルクスはナポレオン3世を、
『1世を演じ直した茶番劇。』
と揶揄したのであった。
[中立の代償をもらいに来たナポレオン3世を追い返すビスマルクの風刺画(1866年の『クラッデラダーチュ』誌)]
第三共和政
その後更にいくつかの段階があって再び王のいない国、『第三共和政』となる。ルイ・アドルフ・ティエールがその初代大統領となった。彼はその後にできた『パリ=コミューン』という労働者政権を『血の一週間』で圧殺し、第三共和政へとつなげた。
『第二共和政』以降の体制の変遷
そして、プロイセンが『ドイツ帝国』になると、フランス国民の不満はドイツに向けられるようになり、のちの『第一次世界大戦』が勃発する原因となるのである。
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