ハニワくん
先生
ガリバルディは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
カヴール、マッツィーニと並んで『イタリアの統一三傑』に数えられる人です。イタリア統一に貢献した人ですね。
ハニワくん
博士
イタリア統一に向けて『1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争』が起きました。
ガリバルディは20倍以上もいる両シチリア王国軍に、たったの1000人の革命軍で立ち向かい、イタリア統一がなされることで得られるメリットについて、説きました。すると、農民たちは彼の義勇軍に加わり、南イタリアである両シチリアは彼の手中に入りました。人々は彼にイエス・キリストのイメージを重ねたといいますが、それは外見以外にも理由がありました。
北にはサルデーニャ、南にはガリバルディ。この勢力がぶつかれば、イタリア統一はまた一歩遠ざかります。しかし、ガリバルディの目的はあくまでも『イタリア統一』であり、自分のエゴを満たすことではありませんでした。つまり、彼はサルデーニャに統一した南イタリアを献上し、身を引いたのです。
1870年、普仏戦争が勃発するとフランス軍はローマから撤退。これに乗じたイタリア軍はローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ここにイタリアの統一は完成します。
ガリバルディの偉いところは、その後、かつての敵国フランスを支援したことです。普仏戦争中、フランス第二帝政が崩壊したことをきっかけに、ガリバルディは新たに成立したフランス第三共和制を自由主義の観点から支援し、プロイセン軍に対するイタリア人義勇兵を率いて戦いました。イタリア国民の多くと同じく、長年の反仏感情を持つガリバルディは民衆に言いました。
『私は今までナポレオンの軍を倒せと言ってきたが、今はこう言うべきだろう。フランスの自由を救おう。』
彼はまさに『偉人』と呼ぶにふさわしい人物でした。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
イタリア統一
『イタリア統一』
『黙れオーストリア!』鉄血宰相ビスマルクがナポレオン3世を破って『ドイツ帝国』が成立!
上記の記事の続きだ。『ドイツ帝国』が1871年に成立した話をまとめた。ちょうどその頃、イタリアでも統一運動がなされていた。
1843年時点のイタリア。
- 青:サルデーニャ王国
- 緑:パルマ公国
- 黄:トスカーナ大公国
- 橙:両シチリア王国
- 黄緑:ロンバルド=ヴェネト王国
- 桃:モデナ公国
- 紫:教皇国家
フランク王国での相続争い
冒頭の記事にも書いたように、カール大帝が死ぬと、フランク王国での相続争いによって、
- 東フランク王国
- 西フランク王国
- イタリア
の3つに領土が分けられた。それがその後の、『フランス、イタリア、ドイツ』の原型となるわけである。そして、フランク王国はフランク王国で、それぞれの歴史があったと書いたわけだ。西フランク王国は神聖ローマ帝国となり、プロイセン、オーストリアが対立して主導権争いをし、最後にビスマルク率いるプロイセンが、『プロイセン=オーストリア戦争』、そして『普仏戦争』に勝ち、『ドイツ帝国』を作った。
1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争
ではイタリアはどうなったかというのが今回のテーマだ。イタリアは下記の記事に書いたように、『七月革命と二月革命の影響』を受けて、統一運動が起こっていた。『1848-49年革命と第一次イタリア独立戦争』である。
[バリケードを組み戦いに備えるミラノ市民。 Felice Donghi画。1848年。]
1848~1849年。サルデーニャ国を中心に反乱が勃発。しかしこれはオーストリアが鎮圧していた。
イタリアの統一三傑
このイタリア統一戦争で中心となったのは、『イタリアの統一三傑』である以下の3人だ。
- カミッロ・カヴール(サルデーニャ国首相・イタリア王国初代首相)
- ジュゼッペ・マッツィーニ(ローマ共和国を建国した革命家)
- ジュセッペ・ガリバルディ(イタリア統一に貢献した革命家)
[左:カヴール 中:ガリバルディ 右:マッツィーニ]
1848年、マッツィーニは『ローマ共和国』を打ち立て、三頭執政官(Triumviro)の1人となった。この共和国はナポレオン3世の軍事介入により短命に終わるが、イタリアの自由主義、国民主義はなおも高まりを見せた。ガリバルディはこのときローマ防衛の責任者となり、フランス軍に対抗した。
我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する。
ローマ共和国は短命だったが、ガリバルディに灯された火は決して消えていなかった。
ガリバルディと『赤シャツ1000人隊』
サルデーニャ国の王であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と、首相であったカヴールは、フランスの支援をとりつけて北部と中部のイタリアを統一した。そして1860年、ガリバルディは義勇軍『赤シャツ1000人隊』を率いて、イタリア南部のシチリア島やナポリを占領した。
ガリバルディは20倍以上もいる両シチリア王国軍に、たったの1000人の革命軍で立ち向かったわけだ。彼は七らの農民に言った。
『大土地所有が解体されれば、農民の土地は増えるだろう。』
彼はイタリア統一がなされることで得られるメリットについて、説いたのだった。すると、農民たちは彼の義勇軍に加わった。そして南イタリアである両シチリアは彼の手中に入った。
[ナポリ・シチリア王国軍を破る赤シャツ隊(カラタフィーミ)]
長髪に頬髭、痩身のガリバルディに、人々はイエス・キリストのイメージを重ねたという。それがわかるもう一つの逸話がある。
北にはサルデーニャ、南にはガリバルディ。この勢力がぶつかれば、イタリア統一はまた一歩遠ざかる。しかし、ガリバルディの目的はあくまでも『イタリア統一』であり、自分のエゴを満たすことではなかった。つまり、彼はサルデーニャに統一した南イタリアを献上し、身を引いたのだ。こうしてガリバルディは、人々の称賛を得た。
ただし、完全には統一されていなかった。イタリア北部の一部であるイタリア人居住地域をオーストリアが支配していたため、ここが『未回収のイタリア』としてイタリアとオーストリアの間で対立が起きる原因になる。
ガリバルディと南北戦争
その後ガリバルディは、南北戦争勃発に際し、ガリバルディはアメリカ大統領リンカーンより、自由主義を奉じる北軍の司令官に加わるよう依頼された。ガリバルディは「奴隷の即時解放」を条件に了承したが、開戦初期の時点では農業問題から北部もまた奴隷解放には慎重な姿勢を取っており、リンカーンはガリバルディへの司令官打診を断念した。
1861年から1865年にかけて、アメリカ合衆国の北部諸州とアメリカ連合国を称した南部諸州との間で行われた内戦。
またイギリスでも民衆からの歓迎を受け、彼の名声は高まっていた。1866年6月、ドイツの主導権をめぐって争っていたオーストリアとプロイセンが開戦した(普墺戦争)。オーストリアが支配していたヴェネト地方を奪取する好機と考えたイタリアはプロイセンと同盟を結んだ。
イタリア統一
ガリバルディは再び“アルプス猟兵隊”を招集する(このときは40000人もの大軍だった)。猟兵隊を引き連れチロルへと進軍したガリバルディは、『ベッツェッカの戦い』においてオーストリア軍を撃破し、トレント近郊に迫った。
[ベッツェッカの戦い]
結果、戦争は北部戦線におけるプロイセン軍の攻勢によって終了し、戦勝国としてヴェネツィア回収に成功した。1870年、普仏戦争が勃発するとフランス軍はローマから撤退した。これに乗じたイタリア軍はローマを中心とした教皇領の奪回に成功し、ここにイタリアの統一は完成する。マッツィーニの夢見た共和政とは違う形になったが、1870年。イタリアはついに統一されたのだ。
かつての敵国を支援したガリバルディ
また普仏戦争中、フランス第二帝政が崩壊したことをきっかけに、ガリバルディは新たに成立したフランス第三共和制を自由主義の観点から支援し、プロイセン軍に対するイタリア人義勇兵を率いて戦った。イタリア国民の多くと同じく、長年の反仏感情を持つガリバルディは民衆に言った。
『私は今までナポレオンの軍を倒せと言ってきたが、今はこう言うべきだろう。フランスの自由を救おう。』
彼はただただ、『在るべき姿』に在ってほしいと願っただけだったのである。
この頃の世界の動き
この頃、世界はちょうど『第二次産業革命』の最中で、欧米諸国では石油や電力など、新しいエネルギーを背景とする技術革新があった。イタリアが統一され、『ドイツ帝国』が成立した1870年あたりから、欧米は定期的に不況にも見舞われた。そして、
という声が高まっていた。そして資本主義列強は、『帝国主義』に走った。
工業原料の産地や製造品の輸出先、国内資本の投資先を求め、植民地獲得競争に躍起になること。
なぜこのような『帝国主義』に走ったかというと、民衆の目を政府から外に反らすカモフラージュという策略があった。単純に、国内の不況を改善するためという理由もあったが、政府への不満があると、何が起こるかわからない。それは下記の記事等々で書いてきた内容を見ればわかることだろう。当時の民衆は不満があったらすぐに『革命』を起こして、ルイ16世等はギロチンで処刑されてしまったのである。
『フランス革命』の原因はルイ14世?ルイ16世?それともマリー・アントワネット?
踊る要人と、憤る民衆。ナポレオンが引っ掻き回した世界の後始末『ウィーン会議』とその体制の崩壊
欧米列強は、それぞれ自国の事情に合う膨張政策を採用した。下記の記事で見たように、イギリスはフランス等とは違った政策を取っていたから、各国が選ぶ選択肢は違ったのである。
ヴィクトリア女王は2人いた?『大英帝国』黄金期の象徴が持つ真の姿とは
見事統一を果たし、列強の仲間入りをしたドイツやイタリアが、オーストリアと『三国同盟』を作ったり、イギリス、フランス、ロシアが『三国協商』を作ったりして、それぞれが利権争いとして対立する等、各国の政策の違いは対立の原因ともなってしまった。
[三国同盟(赤)と三国協商(青)]
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