バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 』にはこうある。
カール・マルクスは、労働者に語り掛けながら、労働者階級は貴族階級とは生まれながらにして異なっているものと仮定していた。他の労働者階級の支持者たちにしろ、労働者と貴族は身体的にも血統的にも異なったものだと考えていた。貴族もこれを事実として、貴族間の血族結婚が不可欠なものと思っていた。
白人と黒人では人間としての価値が違うと考えたり、労働者と貴族では『血』からして別物であると考えたり、とにかく人間というものは『無知』であるがゆえに、恣意的推論を繰り返す生き物である。
認知の歪みの一つ。『そうであろう』と勝手に決めつけること。
マルクスはここで言う貴族を『ブルジョワジー(資本家)』と呼び、労働者を『プロレタリアート(労働者)』と呼んだ。プロレタリアートが労働にしか生きる術を持たないにもかかわらず、労働することによってますます疎外されていくと考えた。つまり、プロレタリアートが生産した商品は資本家が所有し、資本家はそれを売って利益を得るため、プロレタリアートは永遠にその輪の中から外に出ることができない。
労働者のこと。
資本家のこと。
単純に、『経営者と従業員』の関係を思い浮かべればいい。確かに『パレートの法則』を考えても、いまだにこの世は支配者と従属者の構図が世を支配している。
世の中の大体のことが8:2(7:3とか)に分かれている、という法則。
パレートの法則の例
マルクスは、『資金奴隷たる労働者は団結し、暴力革命によって資本家階級を打倒し、労働者(プロレタリアート)独裁社会に移行していくのが歴史の必然だ』と考えた。社会は常にそうして革命を起こしてきたから、当時支配していた『資本主義社会』から、もうそろそろ違う社会に変わると考えた。それが『社会主義社会』である。
個人が自由に資本を持つことができ、資本を持つ人が労働者を雇って商売をすることができる。したがって、競争があるため経済発展が進む。しかし、貧富の差が生まれやすくなる。
個人が自由に資本を持つことはできず、国が立てた計画に従って生産が行われる。したがって、競争がないため経済発展が遅れる。しかし人間に格差が生まれず、平等に近い社会が生まれる。
そして事実、レーニンが主導したロシア革命によってそれは現実のものとなったが、その後ソ連は破綻してしまったのである。
人間は遥か昔から階級同士で争いを続けてきた。そして『経営者と従業員』の関係を思い浮かべればわかるように、その考え方は今でもまかり通っているのである。パレートの法則を考えても、むしろ『1対9』の構図もある。
世界にある9割のお金を、1割の大富豪が所有している
のである。私はこの構図をよく理解する一人である。私の実家の隣人は超が付くほどの大富豪だ。昔ボールが入ったから塀をよじ登って侵入したら、正門は宮殿のような丸い柱が立っていたし、夏場は庭で打ち上げ花火をする。日本の資産家として数えられる本物の資産家だ。私は生まれてこのかた、彼らと接触したことがほとんどない。私の祖父も父も中小企業の社長だったが、その規模とは一線を画すのだ。
だからよくわかるのだが、彼らはまるで、『勝利者側』である。まさにここで言う貴族であり、ブルジョワジーであり、勝ち組であり、労働者を使って合理的に生産し、利益を得るというシステムを完全に自分のものにしている。『カジノで100億円する』とかそういうことをするお騒がせなせがれでも出てこない限り、彼らはその地位から転落することはないだろう。それは、30年間微動だにせずにどーんと豪邸を構え続けるのを間近で見てきた私の本音である。
実際にはそういうせがれが出てもそう簡単には崩れないのが資産家である。
マキャベリは言った。
これだけは民衆に言いたい。このことだけは、肝に銘じて覚えておいてほしい。為政者であろうと指導者と呼ばれようと、支配者の存在しない社会は、あったためしはないのである。(マキャベリ『政略論』)
おっと。『人間は平等なのだ』と言い始めたつもりなのに、いつの間にか『人間の一部は永遠に支配される運命にある』という話に変わってしまったようだ。一体なぜそうなってしまったのか。まるで『流れに身を任せて変えようとしないと、いつの間にか支配される』とでもいうかのようだ。さて、もし支配されたくない人は下記の記事を読むといいだろう。つまり、これを読めないのであれば、言わずもがなである。
当然、私は一度たりともこの図式を甘んじて受け入れたことはない。隣人の一部が傲慢な人間でよかった。隣人が資産家でよかった。私は彼らから学ぶことが大いにある。彼らからもらえるエネルギーが大いにある。覚えておかなければならない。私の恩師が言ったこの言葉を。
優しくなければ生きる資格はない。でも、厳しくなければ生きていけない。
参考文献