いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.オスマン帝国やその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題です。
2.ロシアがオスマン帝国に対し、聖地エルサレムの管理権を要求し、自ら戦争を引き起こしました。
3.オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ロシアが敗北しました。
4.クリミア戦争で看護師の立場から献身的な活躍をした人です。
ロシアは冬季でも凍結しない港が必要でした。
そのため、ロシアは不凍港を求めて『南下政策』を取るのですが、最寄りの不凍港がオスマン帝国の領土内にありました。そこでロシアはオスマン帝国の支配から抜け出したがっている国々を味方につけ、オスマン帝国を潰そうとします。こうした一連も『東方問題』の一部です。
そして1853年、ロシアは聖地エルサレムの管理権を要求して『クリミア戦争』を起こし、オスマン帝国を正面から潰そうとします。しかし、オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ライバルではあったが利害関係が一致した両国は、
ロシアにこれ以上力をつけられては困る
ということで、オスマン帝国側につき敗北してしまいます。こうした戦争の裏では、
等の様々な偉人たちが活躍しました。この後ロシアは何度か南下政策を遂行しますが、
地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。
そう考え、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとします。しかし今度はそこで、日本と満州や朝鮮半島の主導権を取り合うことになり、『日露戦争』へとつながっていくのです。
ロシアの南下政策
『東方問題』
上記の記事の続きだ。17世紀~19世紀のロシアの動きである。ピョートル1世(在位:1721年 – 1725年)やアレクサンドル1世(在位:1801年3月23日 – 1825年12月1日)の活躍によって、ロシアはヨーロッパの列強の仲間入りを果たしていた。
[アドルフ・ノーザン『ナポレオンのモスクワからの退却』]
そして下記の記事に書いたように、アレクサンドル1世が焦土作戦でナポレオンを撃破すると、『ウィーン会議』でその功績が認められ、ロシアの鼻息は荒くなっていた。
ロシアは海外進出するために、冬季でも凍結しない港が必要で、南の方に進出する必要があった。ロシアは不凍港を求め、『南下政策』を取ることになったのである。そこでロシアが標的としたのは最短距離にあった以下の2つの海峡。
しかしこの海峡を支配していたのは、『オスマン帝国』だった。
そこでロシアは、オスマン帝国の支配から抜け出したがっている、
等の国々を味方にし、オスマン帝国を潰そうとする。いわゆる『東方問題』である。
「東方問題」の典型的な事例:ブルガリアはサン・ステファノ条約によってロシアの影響下にオスマン帝国から独立したが(1878年3月、図:黒線枠内)、列強の勢力均衡外交のもとにベルリン会議では分割され(同年7月、図:緑色)、結局はオスマン帝国の朝貢国として半独立国にとどめられた。この決着では民族問題が未解決に残り、後に、2度にわたるバルカン戦争や第一次世界大戦の要因の一つとなった。
そして1853年、ロシアは聖地エルサレムの管理権を要求し、ロシアは自ら戦争を起こし、オスマン帝国を正面から潰そうとする。『クリミア戦争』である。しかし、オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ライバルではあったが利害関係が一致した両国は、
ロシアにこれ以上力をつけられては困る
ということで、オスマン帝国側につく。ヴィクトリア女王、ナポレオン3世を味方につけたオスマン帝国に、敗北してしまう。
[クリミア戦争 セヴァストーポリ包囲戦]
戦争に負けた国は不平等条約を結ばれるのが常である。『パリ条約』にてロシアは、狙ったそのオスマン帝国の海峡どころか、黒海にさえ港を作れない条件を強いられ、当時のロシア皇帝ニコライ1世(在位:1825年12月1日 – 1855年3月2日)は、失意のうちに死去する。
ニコライ1世は列強の東アジア進出にともない、プチャーチンを日本へ派遣。1855年に日露和親条約を締結した。
そしてロシアはアレクサンドル2世(在位:1855年3月2日 – 1881年3月13日)の時代に入る。クリミア戦争でロシアの立ち遅れを痛感したことは、初代ロシア皇帝ピョートル1世のごとく、勘が良かった。
等、様々な対策でロシアに貢献した。特に農奴解放をすることで、主体性のある民衆を生み出そうとしたのだ。主体性の有無が与える影響は確かに甚大である。下記の記事でも書いたが、この20年後の、1894年8月に『日清戦争』が起きる。実は、日清の軍事力は、同等だったのだ。それは紛れもなく、清が行っていた洋務運動のおかげだった。
だが、この洋務運動には他の側面もあって、強い独裁政権を持つ皇帝のもと、官僚が一方的に国民を支配する体制が築かれ、『反応的』な兵士を集める結果になってしまったのだ。反応的とは、主体的の対義語。つまり、『何かに反応して初めて動く人』のことである。例えば、スティーブン・R・コヴィーは、著書『7つの習慣』で『主体者』と『反応者』の違いをこう断言している。
『率先力を発揮する人としない人との間には、天と地ほどの開きがある。それは、25%や50%の差ではなく、実に5000%以上の効果性の差になるのだ。』
もちろん日本軍全員に主体性があったわけではないだろうが、しかしそこにあったのは確実にこの主体性の違いだった。スティーブン・R・コヴィーが言うように、反応的な人間と主体的な人間の間には、雲泥の差が開くのである。それが日清戦争にも影響してしまったということなのである。
農民を戦場に出すわけではなく、『生産力』としての主体性が欲しかったロシアは、農奴解放によって生産力を上げ、軍事力を上げれば戦争に勝てると踏んだのだ。
しかし、この対策は中途半端な形に終わり、農民は不満を漏らした。
それでも徴兵制を実施したりして国力を強化したロシアは、1877年、ロシアはまたオスマン帝国と戦争を起こす。『露土戦争』である。今回はロシアの勝利に終わった。
[露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦いシプカ峠は現在のブルガリアに位置する。1877年7月の戦いでロシア軍が確保、その後2度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にはオスマン軍を完全に撃退した]
を独立させ、ロシアの保護国とすることをオスマン帝国に承認させた。
しかし、やはり列強はこれを面白く思わなかった。ドイツのビスマルクが仲介役となり、
といった列強の同意をとりつけ『ベルリン会議』を開催し、『サン・ステファン条約』でロシアは利権を大幅に縮小され、南下政策は再び失敗してしまった。
[会議における各国代表の様子]
地中海に出ると、ヨーロッパが敵になるか…。
そう考えたロシアは、方向転換して東アジア方面の不凍港を見つけようとする。しかし今度はそこで、日本と満州や朝鮮半島の主導権を取り合うことになり、『日露戦争』へとつながっていくのであった。
[ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]
1853年の『クリミア戦争』による影響は大きい。例えば、イギリスやフランスといった列強がこうしてヨーロッパ内部のことでいっぱいになり、東アジアへの進出が停滞したのだ。そこへアメリカのペリーが来航。1854年には『日米和親条約』が締結され、日本の牙城が強化されていた。
また、こうしたうだつの上がらないロシアの政治に対して不満がつのり、トルストイ(1828~1910)やドストエフスキー(1821~1881)といった文豪が作品の中でそれを思いきりぶつけた。強いられることで偉人になる法則を考えると、彼ら文豪が生まれたのは、こうしたロシアの停滞があったからなのかもしれない。
また、ナイチンゲール(1820~1910)は、クリミア戦争での献身的な活躍を中心として知られている。過酷な戦場において敵味方の区別なく傷ついた者を助けたエピソードは、伝記などで幅広く流布されている。銀行家のデュナンは彼女の活躍に感銘を受け、1863年に赤十字社設立を提唱し、第1回ノーベル平和賞を受賞する。
彼女の幾多もの名言から浮かび上がるのは、『白衣の天使』、『戦場の女神』と言われるだけの覚悟である。
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