いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.100個の商品を製造する機械を作ったのが『産業革命』なら、その機械を100台作れる機械を作ったのが『第二次産業革命』です。
2.『アフリカ縦断政策のイギリス』と『アフリカ横断政策のフランス』は、スーダンのファショダで接触し、一触即発となりました。
『第二次産業革命』は帝国主義の発想を後押ししました。
もちろんこれによってすべて商品が売れればそれだけ利益は出ますが、もし売れ残った場合は赤字になる。そういうプレッシャーも同時に生まれるようになってしまったので、
植民地をもっと増やして商品を売らなければ!
そういう考えが、当時の資本主義国の頭をよぎっていたのです。そしてイギリスとフランスは世界トップレベルの勢いを持っていてライバルでもありました。イギリスは『アフリカ縦断政策』を推進し、アフリカでの植民地を広げ、フランスは『アフリカ横断政策』でアフリカの植民地を広げます。縦と横に徐々に侵略していく中で、両国はスーダンのファショダで接触し、一触即発となりました。しかし、フランスの敵はあくまでもドイツだったため、イギリスに一歩譲り、衝突は免れました。この時の譲歩がきっかけとなり、かつてライバル国だったイギリスとフランスの距離は縮んでいくことになります。
Contents|目次
『三国同盟・三国協商』
上記の記事の続きだ。まず、ドイツではヴィルヘルム1世が即位し、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相に任命され、『ドイツ帝国』が作られた。そしてイタリアも統一され、かつての『ローマ帝国』はヨーロッパに分散していた。この頃、資本主義列強は『帝国主義』に走っていた。
工業原料の産地や製造品の輸出先、国内資本の投資先を求め、植民地獲得競争に躍起になること。
その理由は記事に書いたが、欧米列強は、それぞれ自国の事情に合う膨張政策を採用した。見事統一を果たし、列強の仲間入りをしたドイツやイタリアが、オーストリアと『三国同盟』を作ったり、イギリス、フランス、ロシアが『三国協商』を作ったりして、それぞれが利権争いとして対立する等、各国の政策の違いは対立の原因ともなってしまった。
[三国同盟(赤)と三国協商(青)]
しかし、イギリスはフランスにとって最大のライバル国だった。ネルソンに『トラファルガーの海戦』で打ち負かされ、『大陸封鎖令』でナポレオンは、自分が制圧したヨーロッパの国々に、イギリスとの貿易を禁止させたわけだ。では、なぜイギリスとフランスはかつてライバルだったはずなのに、同盟を結ぶことになったのだろうか。その理由を見ていこう。
帝国主義の背中を押した『第二次産業革命』は、最初にイギリスで行われたそれとは、全く様相が違った。
産業革命 | 100個の商品を製造する機械を作った |
第二次産業革命 | 上の機械を100台作れる機械を作った |
もちろんこれによってすべて商品が売れればそれだけ利益は出るが、もし売れ残った場合は赤字になる。そういうプレッシャーも同時に生まれるようになってしまったのである。
植民地をもっと増やして商品を売らなければ!
そういう考えが、当時の資本主義国の頭をよぎっていたのである。そんな中、イギリスとフランスの勢いはけた違いだった。
植民地化させた国
イギリス | 約70か国 |
フランス | 約30か国 |
イギリスのシティは世界金融の中心となり、『世界の工場』と言われたイギリスは『世界の銀行』と言われるようになり、フランスも成長途中のロシアなどに先行投資をし、『高利貸し帝国主義』とも言われたが、両国が帝国主義の代表国となって躍進した。
イギリスの帝国主義をリードしたのは、
等である。
ディズレーリがやったことは下記の記事に書いたが、『アフリカのナポレオン』とも言われたセシル・ローズで言えば、
『イギリスは地球の表面を1センチでもとらなければならない。できることなら私は夜空に浮かぶ星さえも併合したい。』
と言って、『アフリカ縦断政策』を推進し、アフリカでの植民地を広げた。彼は南アフリカでダイヤを掘り当て、ロスチャイルド家と組んでデ・ビアス社を設立し、ダイヤ世界産額の9割を独占し、アフリカの広大な地域を占領して、ローズの家(ローデシア)と名付けたほどだった。
[セシル・ジョン・ローズ]
チェンバレンはオランダ系のアフリカ国家だったトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に侵略戦争(南ア戦争)を仕掛け、両国を支配。戦争が長期化し、イギリスの国力は少し低下してしまうことになるが、大英帝国領に組み込んで植民地政策を強化した。
1894年。『プロイセン=フランス戦争』で敗北したフランスは、ドイツ(プロイセン)に復讐したい気持ちに支配される人々で溢れていた。そんな中、ユダヤ人ドレフュス退位がドイツと通じたスパイ容疑で逮捕される。それは冤罪だった。しかし、真犯人が見つかった後も、軍は権威の失墜を恐れて知らないふりをする。『ドレフュス事件』である。
[ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵(官位剥奪式で剣を折られるドレフュス=左側)]
事件は結果的に無罪判決が下って解決するが、軍の威信は大きく傷つく。そのようにして不安定なフランスだったが、海外進出においては積極的で、イギリスの『アフリカ横断政策』に対抗し、モロッコから紅海沿岸のジブチまでを横につなぐ『アフリカ横断政策』(イギリスは縦断、フランスは横断)をとり、アジアでは、
のフランス領インドシナ連邦を成立させた。こうしてジリジリと列強は『アフリカ』へと詰め寄っていく中で、アフリカで大きな発見があった。イギリスが開拓したオーストラリアでは、1851年に金鉱が発見され、『ゴールドラッシュ』が始まったように、アフリカにも銅や金、そして『ダイヤモンド』が豊富に存在することがわかったのだ。
そこで、ベルギーがコンゴを私有地にして、『コンゴ自由国』としてそれらの資源を独占しようとするが、列強が黙っていなかった。ビスマルクが筆頭となり、『ベルリン会議』を開いて利害調整を行う。結果、
といった条件を出して、アフリカの領土は『早い者勝ち』状態となった。
この時、『アフリカ縦断政策のイギリス』と『アフリカ横断政策のフランス』は、スーダンのファショダで接触し、一触即発となった(ファショダ事件)。しかし、フランスの敵はあくまでもドイツだったため、イギリスに一歩譲り、衝突は免れた。
[ファショダ事件(1898年)当時のアフリカ 南北に伸びるイギリスの植民地(黄色)と東西に伸びるフランスの植民地(赤色)の拡大政策が現在のスーダンで衝突した]
冒頭に、イギリス、フランス、ロシアが『三国協商』を作ったと書いたが、この時の譲歩がきっかけとなり、かつてライバル国だったイギリスとフランスの距離は縮んでいったのである。
そして上記の流れを汲んだ後のロシアは、フランスドイツとともに『三国干渉』で日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させた。その後、冒頭の記事に書いたように1900年、『義和団事件』が起きるが、それを機にロシアは満州を軍事占領する。ロシアは着々と自国の領土を拡大しようとしていた。1902年、そんなロシアをよく思わなかった日本は、イギリスと『日英同盟』を結び、そこにアメリカも参入。日本とイギリスは、ロシアの勢力拡大を拒絶した。
60年以上続いたヴィクトリア女王の時代から、イギリスはその長男のエドワード7世(在位:1901年1月22日 – 1910年5月6日)の時代へと移っていた。彼の治世はわずか10年だったが、
する等して、次の時代に備えていた。そこから日本とロシアは本格的な戦争を始めるわけだ。『日露戦争』である。
1年7か月の間行われた日露戦争で、日本は常備兵力約20万人のところ、100万人を超える兵力を動員し、大きな損害を被ったが何とか強国ロシアに勝利した。日本の勝利は、列強の植民地支配に抵抗していたアジア各国にとって、あまりにも大きなニュースだった。だが、この日露戦争というのは、本当に『日本が強かったから勝ったのか』というと、首をかしげる人が多い。そのときロシアは、『第一次ロシア革命』、つまり国内での内乱によって、体力を消耗していた。つまり、『戦争どころではなかった』のだ。
そこまでは記事に書いたが、その『第一次ロシア革命』の原因となったのが、『血の日曜日事件』だった。当時のロシア皇帝ニコライ2世(在位1894年11月1日 – 1917年3月15日)は日露戦争で起こった国内のデモ活動を抑えるのに必死だった。そして1905年1月9日、事件は起こった。ニコライ2世がデモの民衆に対し、一斉銃撃を命じたのだ。この事件で2000人もの死者が出て、ロシアは一時騒然となった。
[軍隊による襲撃を描いた絵画]
更に、それで騒動が収まると思いきや、逆効果。むしろこの事件を境に暴動や反乱が頻発するようになり、国を信用できないと考えた労働者や農民たちが『ソヴィエト』という自治組織を各地で結成し、政府によらない独自の政治を目指すようになる。日露戦争の背景にはこうした事実も存在していたのだ。
ニコライ2世は皇太子時代に日本で暗殺されかけ、30代で日露戦争、その後に第一次世界大戦、二月革命、十月革命と、波乱万丈な人生を送り、最後は革命派に家族ともども銃殺されてしまった。そして彼は『ロシア最後の皇帝』となったのである。ロシアはその後『ソビエト連邦(1922年 – 1991年)』へと移り変わっていくことになる。
そして日露戦争と血の日曜日事件(1905年)の10年後、ボスニアの州都サライェヴォにて、ある戦争の原因が作られることになる。それこそは、ここで見てきた『三国同盟』や『三国協商』といった巨大な同盟国家たちを巻き込んで引き起こされた、『第一次世界大戦』であった。
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