ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 三国同盟って何?
- 三国協商って何?
- サライェヴォ事件って何?
1.ドイツ、イタリア、オーストリアの連合軍です。
2.イギリス、フランス、ロシアの連合軍です。
3.『第一次世界大戦』のきっかけとなるドイツ側の重要人物の暗殺事件です。
ハニワくん
博士
19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と言われ、ドイツが強い力を持ちました。
『三国同盟』は、普仏戦争に負けたフランスに復讐させないように打った先手でもありました。
フランスが復讐を考えないように、イタリア、オーストリアと組んで『三国同盟』を作っておこう
そう考えたのです。しかし、第3代ドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム2世はそんなビスマルクを首にし、帝国主義政策を推進し、植民地の開拓をするため、イギリス、フランス、ロシアを挑発し、警戒心を抱かせました。その後ロシアとフランスで『露仏同盟』、そしてイギリスとフランスで『英仏同盟』が組まれ、ついに1907年、『三国協商』が結成されました。
そんな最中の1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺されます。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのです。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
ビスマルク体制
『サライェヴォ事件』
『三国同盟』に『三国協商』。次々と列強が同盟を組む!でも、そんなに大きな力同士が衝突したら…
上記の記事の続きだ。1882年、ドイツ、イタリア、オーストリアは『三国同盟』を組み、それに対抗して1907年、イギリス、フランス、ロシアは『三国協商』を作った。帝国主義の列強が同盟を組み、世界に大きなエネルギーが充満しつつあった。これが今回のテーマのカギとなる非常に重要なキーポイントとなる。
[三国同盟(赤)と三国協商(青)]
ヨーロッパの列強が『ロシア』の潜在能力を恐れた!東方問題とクリミア戦争下で活躍した偉人たち
また、上記の記事に書いたようにその頃のロシアは、オスマン帝国の支配から抜け出したがっている、
- セルビア
- ルーマニア
- ブルガリア
等の国々を味方にし、オスマン帝国を潰そうとする。いわゆる『東方問題』である。一度はヴィクトリア女王、ナポレオン3世を味方につけたオスマン帝国に敗北するが、1877年、ロシアはまたオスマン帝国と『露土戦争』を起こし、戦争に勝つ。そしてロシアは、
- ルーマニア
- セルビア
- モンテネグロ
- ブルガリア
を独立させ、ロシアの保護国とすることをオスマン帝国に承認させた。その詳細は記事に書いた。まず押さえておくべきなのはこのあたりの流れである。ロシアはその後、日本との戦争『日露戦争(1905年~1906年)』があったり、国内の内乱である『血の日曜日事件(1905年)』があったりして忙しかったが、『三国協商』の一員でもあるロシアは、この世界で着々と勢力を伸ばしていくわけである。
[オットー・フォン・ビスマルク]
さてそんな中、下記の記事に書いたように、ヨーロッパではヴィルヘルム1世が即位し、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相に任命され、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させる。そして、『普仏戦争(1870年)』でナポレオン3世率いるフランスを倒し、『ドイツ帝国(1871年 – 1918年)』の成立が宣言されていた。
『黙れオーストリア!』鉄血宰相ビスマルクがナポレオン3世を破って『ドイツ帝国』が成立!
この風刺画では、世界中の視線が紺色のプロイセン(ドイツ帝国)に向けられている。19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は、『ビスマルク体制』と呼ばれるほど、ドイツ(ビスマルク)の影響が強かったのであった。
三国同盟結成の理由
そもそも1882年に作られた『三国同盟』は、普仏戦争に負けたフランスに復讐させないように打った先手でもあった。
フランスが復讐を考えないように、イタリア、オーストリアと組んで『三国同盟』を作っておこう
そう考えたのである。ドイツはそんなビスマルクを首相にした、初代ドイツ皇帝のヴィルヘルム1世の時代が終わり、彼の息子であるフリードリヒ3世(在位:1888年3月9日 – 1888年6月15日)の時代になったが、在位期間は100日足らずで、すぐにその息子のヴィルヘルム2世(在位:1888年6月15日 – 1918年11月28日)に代わることになった。彼はその二人のドイツ帝国の重要人物に疎んじられていたようで、政治的影響力を持つことはなかったという。
問題児ヴィルヘルム2世
[ヴィルヘルム2世]
だが、その第3代ドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム2世は曲者だった。彼がドイツ皇帝になった1888年には、ヨーロッパのキーパーソンであるビスマルクは、すでに75歳という老齢を迎えていた。そして、『三国同盟』のような対策に力を入れ、植民地の開拓等をほとんどしなかった彼らに対し、ヴィルヘルム2世はある種の『老害』であるかのような目で見てしまっていた。
ビスマルクの罷免
ふん。爺さんどもめ。これからは俺がガンガン攻める時代だ!
まるで、そのような考え方を持ったかのように、ヴィルヘルム2世はビスマルクを罷免し、親政に切り替え、独露再保障条約の更新を拒否し、露仏同盟の成立を自ら促す。そして帝国主義政策を推進し、植民地の開拓をするため、イギリス、フランス、ロシアに警戒心を抱かせた。
公務員の職を強制的に免ずること。首にすること。
フランスの植民地を横取りしたモロッコ事件
ヴィルヘルム2世のドイツは、攻撃的だった。まず仲が悪かったフランスの植民地を横取りしようとし、フランス領モロッコに軍艦を乗り付け、領土を手放すように挑戦状を叩きつけた(モロッコ事件)。
『3C政策』(イギリス)を邪魔した『3B政策』(ドイツ)
そして、アジアにも進出したいから、バルカン半島を通って西アジアのバグダードを結ぶ『3B政策』を展開しようとする。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世によって主導された、ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium、イスタンブールの旧名)・バグダード(Baghdad)を鉄道で結ぶという19世紀末からのドイツ帝国の長期戦略。
しかしそれを成し遂げるための『バグダード鉄道』が完成すると、ドイツの工業製品をアジアに運べるようになり、兵隊も送り込めるようになる。その頃イギリスは、『カイロ、ケープタウン、カルカッタ』を船で結ぶ『3C政策』を推進していたが、ドイツのこの『3B政策』は、それを邪魔してイギリスの利益を奪う形になることは明白だった。
19世紀後半から20世紀前半においてイギリスが推進した世界政策で、カイロ(Cairo)、ケープタウン(Capetown)、カルカッタ(Calcutta・現:コルカタ Kolkata)を鉄道で結ぶ植民地政策。
ロシアの邪魔をしたバグダード鉄道
更に、ドイツからバルカン半島、トルコ、ペルシャ湾まで結ぶ『バグダード鉄道』のルートは、ロシアにとっても都合が悪かった。これが完成すると、ロシアの地中海への南下ルートを完全にブロックする形になる。そもそもバルカン半島には、前述したロシアの保護国であるセルビア人などが生活していて、『ロシア領』、つまり『ロシアのなわばり』のような立ち位置にあった。
フランス
イギリス
ロシア
ドイツは完全に後の『三国協商(フランス、イギリス、ロシア)』の列強に喧嘩を売ってしまったのである。
[バグダード鉄道路線図]
三国協商の結成
その後ロシアとフランスで『露仏同盟』、そしてイギリスとフランスで『英仏同盟』が組まれ、ついに1907年、『三国協商』が結成された。
日露戦争の際には、日本側についたイギリスとロシアでの対立構造があったが、ドイツという共通の敵ができ、イギリスはロシアを地中海へ南下させた方がいいという判断をした。
こうしていよいよこの世界に一触即発の大きなエネルギーの塊が2つ生まれたのだ。
『ヨーロッパの火薬庫』バルカン半島
そして事件は起こった。前述したバルカン半島での出来事である。三国同盟と三国協商が一触即発の大きなエネルギーというなら、バルカン半島は『ヨーロッパの火薬庫』と言われていた。ここは、ドイツの同盟国のオーストリアと、南下のために必要なロシアが、進出を巡って激しく争っていた場所だったのだ。ロシアからすれば保護国のセルビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ等の諸国が存在し、ドイツからすれば、オーストリアやオスマン帝国等の諸国が存在していて、一つにまとまっていなかった。
[1796年以降のバルカンの政治的境界線の変遷]
また、ゲルマン人やスラヴ人もいて、それぞれのルーツですらも対立していた。したがって、バルカン半島に以下のような対立する派閥が生まれていた。
パン・ゲルマン主義 | ドイツ側の同盟拡大の動き |
パン・スラヴ主義 | ロシア側の同盟拡大の動き |
バルカン半島は、前述したようにドイツにとってはその『バグダード鉄道』の為に必要だし、ロシアは南下ルートのための拠点として必要。では一体どちらがこのバルカン半島を支配するのだろうか。
バルカン戦争
先手を打ったのはオーストリアだった。1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのだ。それを受け親ロシア側は『バルカン同盟』を結成する。こうして『第一次バルカン戦争』、そして『第二次バルカン戦争』が巻き起こることになる。
[第一次バルカン戦争 1912年10月8日 – 1913年5月30日]
[第二次バルカン戦争 1913年6月29日 – 1913年8月]
バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 – 1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(1913年6月 – 1913年8月)からなる。
ドイツ側
- オーストリア
- ブルガリア
- オスマン帝国
ロシア側
- ルーマニア
- セルビア
- ギリシャ
バルカン半島の支配をめぐり、ドイツ側とロシア側にそれぞれの勢力が分散し、対立構造ができた。まさに一触即発の緊張状態。事態は、あとほんのわずかのきっかけによって、収拾がつかなくなるくらいの極限状態にまで陥っていく。
サライェヴォ事件
そんな最中の1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・ヨーゼフ1世の甥であるフランツ・フェルディナントとその妻が、ボスニアの都サライェヴォにて、パン・スラヴ主義のセルビア人学生プリンツィプにに暗殺された。この『サライェヴォ事件』が世界を巻き込む大戦争、『第一次世界大戦』のきっかけとなってしまうのである。
[サライェヴォ事件 暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付]
[暗殺事件を伝える『ニューヨーク・タイムズ』]
次の記事
該当する年表
SNS
参考文献