いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『パリ講和会議』の後のヨーロッパの国際体制で、1920年代の国際秩序の基盤です。
2.世界の国々がこれを通して『世界平和』を考える国際平和維持機関です。
19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は『ビスマルク体制』と呼ばれました。
影響力のあったドイツ(ビスマルク)の名が取られたからですね。しかし『第一次世界大戦』でドイツは負けたので、国際秩序を誰がどう保つかということを決めなければなりません。この『ヴェルサイユ体制』は、ドイツへの報復も兼ねながら、新しくできた世界の脅威でもある『ソ連』の社会主義に対抗する国際秩序のための方針でしたが、本音は『先進国の既得権益の維持とドイツ暴走の封印』にあったため、それが許されたのはヨーロッパだけで、アジアの植民地等とは無縁の話でした。
パリ講和会議の翌年、アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けました。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカがこれに加盟しないなど、あまり意味がない集団となってしまいました。のちにこの失敗を生かしてこれが『国際連合』となります。『国連』とはどちらも指す言葉ですが、その存在感からして主に国際連合のことを言います。
『ヴェルサイユ体制』
上記の記事の続きだ。上の記事にあるように、そうして1918年、『第一次世界大戦』は終わった。下の記事にあるように、ロシアはレーニンによって戦争から離脱、ドイツでも革命が起きて、当時の皇帝であり、第一次世界大戦の原因とも言える人物ヴィルヘルム2世の退位が決まり、事態が収束へと向かっていったのだ。『ドイツ連合軍VSロシア連合軍』のような戦いだったわけだから、そのトップである両国がそうして戦争から退いたことは、大きな原因となったのである。
1919年、そうした戦後処理のために『パリ講和会議』が開かれた。ヴェルサイユ宮殿で行われたので『ヴェルサイユ会議』と言われることもあるが、その会議での基本原則は、アメリカのウッドロー・ウィルソンによる『十四カ条の平和原則』で、
等が打ち出された。『民族自決』というのは、『自決』というぐらいだから『各国民族は自分で自分に制裁を課せ!』という意味…ではなく、『自分で決定する』という意味での自決だ。中東欧で、諸民族の独立を認めるという内容で、列強に支配されていた国々がこれによって独立できるようになったわけである。これによって、ロシア・オーストリア領から多くの独立国が生まれた。しかし、これが適用されたのはヨーロッパのみで、旧オスマン帝国領などは委任統治の形で戦勝国に分割された。
ウィルソンの14カ条
ドイツはこの連合国と結んだ『ヴェルサイユ条約』で、国土の1割以上を失い、巨額の賠償金を科せられた。その額は現在の日本円にして『1260兆円』ほどであり、これを支払い終えたのは2010年10月3日だった。
[ウィリアム・オルペン画『1919年6月28日、ベルサイユ宮殿、鏡の間での講和条約の調印』では、講和条約の調印を行うドイツ国のヨハネス・ベル運輸大臣が画面中央、椅子の背もたれを背に後ろ姿に一人だけ描かれ、その対面に調印に注目する戦勝国の首脳の群像が描かれている]
19世紀後半のこのヨーロッパの国際秩序は、影響力のあったドイツ(ビスマルク)の名が取られ『ビスマルク体制』と呼ばれていたが、このパリ講和会議の後のヨーロッパの国際体制は『ヴェルサイユ体制』と言われ、1920年代の国際秩序の基盤となった。
個別の講和条約
サン=ジェルマン条約 | 対オーストリア | 1919年9月 |
ヌイイ条約 | 対ブルガリア | 1919年11月 |
トリアノン条約 | 対ハンガリー | 1920年6月 |
セーヴル条約 | 対オスマン帝国 | 1920年8月 |
民族自決によって、
等の国々は列強から独立を果たすことができた。しかし、この『ヴェルサイユ体制』は、ドイツへの報復も兼ねながら、新しくできた世界の脅威でもある『ソ連』の社会主義に対抗する国際秩序のための方針だったが、本音は『先進国の既得権益の維持とドイツ暴走の封印』にあったため、それが許されたのはヨーロッパだけで、アジアの植民地等とは無縁の話だった。
オスマン帝国の話は前述したが、大戦末期、連合国はオスマン帝国をどう分け合うか、話を決めていた。しかし、それに逆らう形で軍人上がりのムスタファ・ケマルが立ち上がり、ソヴィエトの力を借りて対抗し、打ち破る。この時代、様々な国が独立し、現在も馴染みのある国へと変わっていったのである。
[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]
パリ講和会議の翌年、ウッドロー・ウィルソンは『国際連盟』として、国際平和維持機関を設けた。しかし国際連盟の出だしは不調で、そこまで世界に与える効力はなく、言い出しっぺのアメリカがこれに加盟しないなど、あまり意味がない集団となってしまった。ただ、世界の国々がこれを通して『世界平和』を考えることができるということは意義があり、それまでにあった、
のような多様性を無視した連合体でも、
といった偏った連合体でもない、『世界規模の視点』ができたことは、大きかった。それは、現在『国連』が世界的に与えている影響を見ればわかることである。
[1939年に定められた半公式紋章]
国際連盟はのちの『国際連合(1945年)』に受け継がれ、『国連』と言われるが、この時点では『国連=国際連盟』ということになる。恒久的な平和を目指す史上初の国際機構となった。
第一次世界大戦でヨーロッパは国際的な地位を低下させ、国際金融の中心地は、かつて『世界の銀行』と言われたイギリスからアメリカに移っていた。ロシアへの投資が、ロシア革命によって回収不能になったフランスもダメージを受け、1925年、『ロカルノ条約』によって、イギリス、フランス、ドイツなどが国連加盟を認めるまで、敗戦国のドイツは国連に加盟を許されず、記録的なインフレで大混乱に陥った。
このあたりから、時代はイギリスからアメリカへと権力が移行しつつあった。このあたりで、もう一度ヨーロッパの覇権をまとめなおしてみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
そしてこの後だ。規模もヨーロッパから『世界』へと変え、まとめ方は『世界で強い勢力を持った国』とする。
17世紀のイギリス以降世界で強い勢力を持った国
このようにして、やはり常に世界の中心はまだまだヨーロッパだが、まだこの時点ではその派遣はイギリスから大きく動いたわけではなかった。ロシア側の『三国協商』にはイギリス、フランスがいたわけだが、第一次世界大戦は『三国協商』側の勝利で終わったのだ。しかしそこには『アメリカ』の存在もあった。そしてここからアメリカという国がめきめきと頭角を現してくるようになる。
現在、中国、ヨーロッパと歴史をまとめていて、アメリカ、イスラム、アフリカ等は後でまとめるため、今はまだアメリカの詳細は書かないが、後に更に詳しくアメリカについてまとめていく。そして、関連記事が出来たらここにリンクしよう。
日露戦争で強国ロシアに勝った日本。常に戦争のキーパーソンとして関与するアメリカ。これらの列強がこれから始まる『第二次世界大戦』の主役(悪役)となっていくことになる。そして、『ドイツ暴走の封印』を目的として『ヴェルサイユ体制』が組まれたわけだが、当のドイツの牙は完全には折れていなかった。そう。ドイツにはまだヒトラーという男がいたのである。
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