いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.『結束』を語源としていて、権力で民衆をおさえ、他国に侵略主義をとる独裁的国家体制のことです。
2.ファシズムという強行突破の手段を選ぶことによって、危機的状況を打破しようとした人です。
3.ファシズムという強行突破の手段を選ぶことによって、危機的状況を打破しようとした人です。
4.利害が一致した『日本、イタリア、ドイツ』が組んだ同盟です。
第一次世界大戦後はアメリカのお金に依存していた国がいくつもありました。
しかしその肝心のアメリカが『世界恐慌』という世界的経済危機に落ちてしまい、その影響がそうした国にも及んでしまいました。そうした怪しい雲行きの中、ヒトラー率いる『ナチス(ドイツ)』という国粋主義者や、ムッソリーニ率いる『ファシスト党(イタリア)』というファシズム思想の人間が出現し始めます。ムッソリーニがファシズム活動をし、ヒトラーも同じように世界恐慌の波を受けて陥った危機的状況を利用し、
と主張し、第一次世界大戦の戦後処理として決まったはずの『ヴェルサイユ条約』を破棄しようと国民に訴えます。国民たちは、かつてフランス国民が『フランス革命』の後、危機に瀕したフランスをナポレオンという救世主にすべてを託したときのように、ヒトラーにその状況を打破してもらおうと決めてしまいました。そしてヒトラーとムッソリーニは手を組むことになります。
ちょうどその頃、1932年3月に、『満州事変』によって国際連盟を脱退することになっていた日本の存在がありました。この頃の3国は利害関係が一致していていて、3国は『日独伊三国同盟(1940年)』を組み、この世界に強烈な危険因子が誕生してしまいました。この危険因子はのちの『第二次世界大戦』の原因となってしまいます。
Contents|目次
『日独伊三国同盟』
上記の記事の続きだ。1918年、『第一次世界大戦』は終わった。『ヴェルサイユ体制』でドイツは制裁を食らい、国連に加盟を許されず、記録的なインフレで大混乱に陥った。それ自体は新通貨やアメリカの資本の導入によって克服するが、ドイツは戦争を仕掛けておいて負けたから、実質上は壊滅の方向に向かっていった。例えば、植民地もないし、そうやってアメリカ等の『他』に依存するしかないから、いつ崩れてもおかしくない状況だったのだ。
[ヴェルサイユ条約によるドイツの割譲地域]
ドイツは第一次世界大戦が終わった後、『ヴァイマル共和国(1919年 – 1933年)』へと改名していた。ヴァイマル憲法は国民主権だった。下記の記事に書いたように、かつて中世ヨーロッパでは、『封建社会』といって、明確な領土という観念を持たず、契約に基づいて主君に仕えたりする世の中の仕組みだったが、14世紀~16世紀頃から『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになった。
自己の支配領域を明確にし、君主のみが排他的権力を行使する国。
『封建国家→主権国家』へと変わることで、曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけだ。たとえば、現在の日本は『国民主権』という主権国家だ。だが、この時代には『国王主権』だったわけだ。初期の主権国家では、流れ的にも国王に権力が集中する『絶対王政』がとられた。
戦争の失敗もあり、ヴァイマル共和国の憲法は現在の日本と同じように民主的な国民第一の国家だった。男女平等の普通選挙承認、生存権を認めるなど、当時最も民主的な憲法だった。しかし、極度のインフレが起こり、徐々に雲行きが怪しくなる。ここで現れるのが『ナチス』という国粋主義者や、共産党員らだった。彼らが国の在り方を改革しようと動き出し、国内にはある種の暗雲が立ち込めた。
1920年代半ば、景気は回復する。しかし、1929年にアメリカで世界恐慌が起こると、アメリカ資本に頼っていた彼らは、危機に陥った。その点、イギリスやフランスはダメージを軽減できた。ヴァイマル共和国ほど、他に依存していなかったからだ。植民地と本国で『ブロック経済圏』をつくり、アメリカの悪い波が自国に与える影響を抑えたのだ。
ソ連はソ連で、いろいろと問題はあっても社会主義国家が出来上がっていて、恐慌になりにくい体制があった。では、ヴァイマル共和国はどうか。前述した条件によって、ヴァイマル共和国とイタリアは、アメリカの世界恐慌の余波を直で食らってしまい、大ダメージを負ったのだ。
普通、そういう状況になれば潰れる。あともう一つ選択肢があるとしたら、『強行突破』だ。力づくでその状況を乗り切ろうと、強引な手法を考え付く二元が現れるのである。この時、イタリアとヴァイマル共和国の一部の人間が選んだ選択肢は、全体主義の『ファシズム』という考え方だった。
人の利益よりも全体の利益が優先し、全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制。一つのグループが絶対的な政治権力を全体、あるいは人民の名において独占するものをいう。
『結束』を語源としていて、権力で民衆をおさえ、他国に侵略主義をとる独裁的国家体制のこと。
つまり、イタリアやヴァイマル共和国は、ファシズムという強行突破の手段を選ぶことによって、この危機的状況を打破しようとしたのだ。先陣を切ったのはイタリアだった。実はイタリアは世界恐慌の前からすでにファシズムが始まっていた。下記の記事に書いたように、イタリアはドイツと同じ『三国同盟』だったのに裏切って、戦争に勝った側だったはずだが、植民地を得られるわけではなく、国として満足する形にはなっていなかった。
そこで登場するのがムッソリーニである。
[ベニート・ムッソリーニ]
彼は戦後に復員軍人らを集め『戦闘ファッシ』を結成。それが後に『ファシスト党』となる。1922年、6万の武装党員によるクーデター『ローマ進軍』で政権を取る。ムッソリーニは、当時の不満に満ち、ある種の渇望状態にあった国民の思惑を利用し、力を得た。ムッソリーニ政権はファシスト党独裁体制を築くと、アドリア海の港湾都市フィウメを占領し、アルバニアの保護国化を果たす。世界恐慌後もエチオピアを併合し、ヴァイマル共和国と違って力づくでじわじわと力をつけていたのだ。
そしてヴァイマル共和国でも同じような選択肢を選ぶ人間がいた。それがヒトラー率いる『ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党、ナチ党)』である。
[アドルフ・ヒトラー]
ヒトラーはムッソリーニと同じように世界恐慌の波を受けて陥った危機的状況を利用し、
と主張し、第一次世界大戦の戦後処理として決まったはずの『ヴェルサイユ条約』を破棄しようと国民に訴える。確かに、ヴァイマル共和国としてはそれでいいが、しかしそれは世界のトップたちで取り決めたことだから、それをするということは、破ってはならないタブーを犯すということだった。しかし、当時にヴァイマル共和国国民は、ヒトラーを支持した。
国民たちは、かつてフランス国民が『フランス革命』の後、危機に瀕したフランスをナポレオンという救世主にすべてを託したときのように、ヒトラーにその状況を打破してもらおうと決めたのだ。
ヒトラーは、
等を用意し、失業者に仕事を与えながら、支持を確固たるものに仕上げていった。そのうち、ナチスや共産党など、共和政を否定する勢力が国会の多数を占めるようになり、ナチスは選挙のたびに議席を増やし、そのうちほぼ100%の議席数を獲得するようになった。
ドイツの軍人で政治家のヒンデンブルクは、第一次世界大戦中にあった『タンネンベルクの戦い(1914年)』でロシアを撃退し、国民的英雄となっていて、1925年にはヴァイマル供賄国の大統領に就任したが、この世界恐慌に対応できず、そして国内の情勢に抗うことができず、ヒトラーを首相に任命してしまうことになる。そして、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。ヴァイマル共和国の時代が終わり、『ナチス・ドイツ(1933年 – 1945年)』へと生まれ変わったのである。
同年2月に、ヒトラーは国会議事堂放火事件の責任を共産党に押し付け、これを弾圧。せっかく加盟が許された国際連盟も脱退し、立法権を政府にゆだねるという『全権委任法』を成立させ、ヒトラーは『総統』の地位に就く。そして、独裁政権が誕生するのだ。
[全権委任法成立後に演説を行うヒトラー(1933年3月)]
一方その頃、スペインでは内戦が起きていた。ブルボン朝の王家が倒れたことを機に、『人民戦線内閣』という社会主義寄りの政権と、資本家たちが支援するフランコ将軍が対立する。彼は総選挙で左翼勢力中心の人民戦線内閣が誕生すると左遷されるが、旧王党派や地主層の支持を受けスペイン内乱を起こした。そしてこのような図式が成立していった。
人民戦線内閣 | 欧米の社会主義者、国際義勇軍、ソ連 |
フランコ将軍 | ヒトラー、ムッソリーニ |
要は、似たような思想を持った人(団体)同士が同盟を組んだのだ。フランコ将軍はファシズム思想を持った人間だったので、ヒトラーとムッソリーニは彼に協力した。ヒトラーに関しては、仮想敵国と定めていたソ連が人民戦線内閣側についたことも理由の一つだった。では、当時のソ連のトップは誰だろうか。そう。スターリンである。彼はレーニンの死後、トロツキーらを追放し、1930年代初頭に独裁権を掌握し、大粛清を重ねていた。
[ヨシフ・スターリン]
つまりここに出ている手札はこうだ。
ナチス・ドイツ | ヒトラー |
イタリア | ムッソリーニ |
スペイン | フランコ将軍 |
ソ連 | スターリン |
思想的に見ても『混ぜるな危険』の要素がこれだけ集まった。これはまるで、『第一次世界大戦』の前にあった『三国同盟と三国協商の成立』のような、そういう危険な兆候でもあったのだ。結果、フランコ将軍は彼らの支援もあって、反乱に成功。そしてヒトラーとムッソリーニは、この件をきっかけに同盟を組み、ここに世界最凶のファシズム同盟が成立してしまったのである。
ちょうどその頃、1932年3月に、『満州事変』によって国際連盟を脱退することになっていた日本の存在があった。第一次世界大戦ではイギリスと日英同盟を組み、ドイツに宣戦布告してドイツ領を略奪する等のことをしていた日本だが、この頃の3国は利害関係が一致していたのだ。
Wikipediaにはこうある。
日本側の利害関係
既に日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するアメリカと鋭く対立していた。日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。また日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。
ドイツ側の利害関係
ドイツ側の狙いはアメリカがイギリス側で参戦するなら、アメリカは日本とドイツに対する二正面作戦のリスクを冒すことになるという威嚇効果を得て、アメリカ参戦を防ぐことにあった。反英親ソの外相リッベントロップは三国同盟にソ連を加えた四国同盟に発展させ、巨大反英ブロックを形成する構想をもっていたが、1940年秋にバルカン半島やフィンランドを巡って独ソ関係が悪化しつつあり、1940年11月12日のモロトフ訪独も平行線で終わり、ヒトラーは対ソ作戦の準備を開始することになる。
イタリア側の利害関係
かつてオーストリア問題を巡ってドイツと対立していたイタリアは、英仏の警告を振り切って行ったエチオピア侵攻によって、国際連盟を脱退するなど孤立を深めていった。それ以降イタリアはドイツに接近し、1936年のスペイン内戦ではともにフランシスコ・フランコを支援し、10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。また軍部が日本との間に軍事協力を模索する動きもあった。
一方でイタリアと英仏の緊張緩和も行われ、しだいに英仏・伊関係は修復されていったが、1939年4月にアルバニアへの侵攻・併合を行うと、再びイタリアの立場は孤立化した。これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)に調印している。第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。イタリアの経済状態は貧弱であり、軍部は参戦に否定的であり、ムッソリーニも「日本が日中戦争に勝利する1942年」までは戦争はできないと判断していた。しかし戦争においてドイツが優勢になると、ムッソリーニは枢軸側での参戦に傾いていった。海軍は日本からのゴムとタイヤの輸入に期待を示していたが、ガレアッツォ・チャーノ外相や陸軍にとって日本は余りに遠すぎ、期待を持てない相手であった。
の3国は『日独伊三国同盟(1940年)』を組み、この世界に強烈な危険因子が誕生してしまっていた。この頃、かつての強国イギリスとフランスは、ヒトラーを刺激するのを恐れ、静観する選択肢を取ったほどだった。
この姿勢はのちに批判されることになる。これからヒトラーが行う大惨事を考えれば当然のことである。
[「仲良し三国」-1938年の日本のプロパガンダ葉書はドイツ、イタリアとの日独伊三国防共協定を宣伝している]
インドの革命家チャンドラ・ボースは、
と言って、
のファシズム3巨頭と手を結び、ガンジーとは対照的に、武装闘争によってイギリスからの独立を勝ち取るべく、奮起した。簡単に言うが、外国であるドイツにわたってイギリスとの戦争を支持し、さらにドイツの潜水艦で、そのまた外国の日本に入国し、主要人物である東条英機に会い、独立支援を申し込むことは簡単ではない。そして、客観的に見てここに出た3人(3国)という存在は、『悪魔』そのものだったのだ。
[東条英機]
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