東大教授、池谷裕二氏の著書『脳と心のしくみ』にはこうある。
よくわかっていない麻酔薬の作用
麻酔薬は脳のどこに作用して意識をなくしているのかが、まだよくわかっていません。動物実験や臨床実験などを繰り返し、安全性に問題がないから使っているだけで、詳しい仕組みは不明です。『なぜ効くかはわからないけど、いつもどおりこれを使っておこうか』という、よく考えたらとんでもないことが病院では日常的に行われているわけです。
これは麻酔薬に限った話ではないだろう。人は、
なぜかは具体的にわからないけど、多くの人がそうしているし、そうしよう
と考え、そして人と意見や行動が一致すると安心する生き物だ。例えばソクラテスは『そういう常識人』たちに殺されたのである。ソクラテスはアテネを歩き回って人々に『問答法』をしていた。ある日ソクラテスは、自分が知者だと言い張る人間に、 『善とは何か』と問いただした。
すると、男は笑いながら言った。
それについてソクラテスはこう言ったのである。
これは主体的な人間にしか言えない言葉だ。世の常識や蔓延しているものなどに流されているようではいけない。つまりこれらの問答法は、ソクラテスが人々に『無知の知』を悟らせるためにやった行為であり、人に今以上に善い人生を送ってもらうために、『貢献』していたのである。
自分は『何も知らない』ことを知っている知識。無知であることを知っている人と、無知なのに知性があると思い込んでいる人がいるなら、前者の方が知的である。
しかし、ある時それらの行為を悪く思ったアニュトスやメレトスたちの反感を買い、裁判に持ち込まれ、死刑を求刑された。ただソクラテスはその裁判で一切自分の自己弁護をせず、むしろ当然のごとく無罪を主張した。もしソクラテスがこの裁判で『彼らの機嫌をうかがっていた』なら、もしかしたらソクラテスはここで死ぬことはなかった。しかし、ソクラテスはそれをしなかった。
そして幼馴染のクリトンに脱獄を勧められても断り、逃げることなく、死刑を受け入れた。彼曰く、
『これまでの生涯で一貫して私が説いてきた原則を、不幸が訪れたからと言って放棄することはできない。』(『クリトン』46)
そしてソクラテスは最期にこう言った。
『お別れのときが来た。君たちは生きながらえるため、私は死ぬために別れるのだ。君たちと私のどちらがより幸福なのだろうか?答えることが出来るのは神のみである。』(『弁明』42A)
モンテーニュがこう言い、
サン・テグジュペリがこう言い、
エラスムスがこう言ったように、
『生きながらえる』ことを選択する多くの醜い命よりも、彼の人生はとても高潔に見える。
しかし、その高潔なはずのソクラテスに死刑を求刑したのがアニュトスやメレトス、そして『常識人』たちだった。
そしてソクラテスのその言葉通り、アテナイの人々はソクラテスを刑死させたことを悔やんで、ソクラテスを告訴したメレトスには死刑の判決を下した。その後人々はポンペイオンにソクラテスの銅像を作り、彼を讃えた。
彼らはある種の『麻酔薬』を打っている。それを打てば安心するのだ。妙に不安になる心の闇の部分が、それによって緩和された気分になる。しかし、その麻酔薬の正体は実際にはなんだかわかっていない。いないが、とにかく打てば安心して自信を持てるのだ。人を死に追いやっても良心が痛まないほど、自分の行動に自信が持てるのだ。
ニーチェがこう言ったように、
『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』
人は結局その実態が何であるかを具体的に理解していないのに、
まあ、大体こうだろう。こういう感じだろう。
と自分が納得できればそれでいいと考える、自分本位な生物なのである。
しかし、麻酔薬が切れたらその『モード』も終わりだ。『暴走中』にやった自分の行動を悔い、反省する。人間は、遥か昔からこういうことを繰り返していて、そして人為的な破滅を迎えるまで未来永劫、これは繰り返され続けるだろう。今の人間の人生への考え方を根本的に変えない限り、人は永久に『前始末』できず、『後始末』に追われ続けるのである。
ただ、ここにタモリが言ったこの言葉と次の黄金律を載せると、さらに奥行が深くなるのだが。
参考文献