いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.スターリンの後任のフルシチョフの、スターリンの恐怖政治や個人崇拝への批判です。
2.スターリンの死去、ソ連がいきなり話を変えようとするので、中国はソ連に対して怒りを覚えて対立します。
3.1957年10月4日ソ連が『スプートニク』という人工衛星を秘密裏に打ち上げ、それを成功させてしまった件です。
4.西ベルリンへの『人の流出』を防ぐために東ドイツが作った壁です。
5.チェ・ゲバラやカストロが巻き起こした、キューバがアメリカからソ連へ寝返った革命です。
6.ソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとし、アメリカがそれを阻止。一歩間違えれば『全面核戦争』という状況に陥りました。
7.冷戦の緊張が緩和されるということです。
ソ連のトップ、スターリンが死去(1953年)したことは大きく、冷戦の雪解けに一歩近づきました。
後任のフルシチョフは『スターリン批判』を行い、彼の恐怖政治や個人崇拝を批判します。しかし、同盟である中国と、
として『中ソ対立』が起きたり、ソ連の締め付けが緩んだハンガリーやポーランドでは、『反ソ運動』が起きます。東ドイツから西ベルリンを経由しての西ドイツへの亡命が相次いだので、東ドイツは西ベルリンへの流出を防ぐために『ベルリンの壁』を作りました。支配下の人間の暴走を力づくで鎮圧したソ連。結局スターリンの後任フルシチョフも、彼と同じように恐怖政治で支配下を治めようとしてしまったのです。
そんな中、ソ連は『スプートニク』という人工衛星を秘密裏に打ち上げ、それを成功させます。ソ連はこの時点で、爆弾や核弾頭を積んで飛ばす『ミサイル技術』を確保したのと同じで、アメリカはソ連に大きなアドバンテージ(有利性)を取られてしまいました。
更に、アメリカの従属国の立場だったキューバがチェ・ゲバラやカストロらによって『キューバ革命』を起こし、ソ連に寝返ります。ソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとし、アメリカがそれを阻止。一歩間違えれば『全面核戦争』という状況に陥りました。戦略的兵器削減交渉が始まって、ようやく冷戦は『デタント(緊張緩和)』と言える段階まできます。その後更に、
という出来事を通し、米ソの勢いは低下していきます。
Contents|目次
『キューバ革命・キューバ危機』・『ベトナム戦争』
上記の記事の続きだ。そんな最中の1953年、ソ連の独裁者スターリンが死去。時期的には『朝鮮戦争』の最中にこの世を去っていた。スターリンは1930年代後半の大粛清で自分に反対する人間を60万人も処刑したと言われる典型的な独裁者で、あのヒトラーやムッソリーニに匹敵するほどの存在感だったため、これをきっかけに事態はいい方向に転換。
1955年、スイスのジュネーヴで、『ジュネーヴ4巨頭会談』が行われ、
の首脳が話し合い、冷戦の雪解けに一歩近づいた。そして後任のフルシチョフは、1956年に『スターリン批判』を行い、彼の恐怖政治や個人崇拝を批判する。しかし、エネルギーが大きくなりすぎていた。せっかくそうして和解に向かって進み始めたのに、彼らの下にいる人間(国)がそれの邪魔をしたのだ。
そういうことはドラマなどでもよくある話である。大きな組織が対立し、下っ端から幹部まで、臨戦態勢に入り、一触即発の状態になる。このままでは大戦争になると判断したトップが話し合いをし、なんとか和解する。しかし、末端の人間までその考えが伝わっておらず、末端同士で対立を始めてしまう。トップは、
と言うが、末端は末端でも、『人間』なのである。どんなに末端でもそこには『心』を持った人間がいて、生きている。その命の鼓動がある限り、大きすぎる組織ではこうしたトラブルが起きてしまうのは相場なのだ。
[ソ連共産党のニキータ・フルシチョフ第一書記(右)と中国共産党の毛沢東党主席]
『中国』である。ソ連と同盟関係にあった中国は、アメリカに対抗して朝鮮戦争に義勇軍を派遣していたのに、ソ連がいきなり話を変えようとするので、ソ連に対して怒りを覚え、『中ソ対立』が起きる。
また、それとは違った形のトラブルも各地で起きた。ソ連の締め付けが緩んだハンガリーやポーランドでは、『反ソ運動』が起きたのだ。東ドイツから西ベルリンを経由しての西ドイツへの亡命が相次いだ。しかし、ソ連はそれを許さなかった。自分が自分からアメリカに近づくのはいいが、『自分の支配下にある人間』には好き勝手な行動はさせない。そう考えて、これを鎮圧。
1961年、東ドイツは西ベルリンへの流出を防ぐために壁を作った。『ベルリンの壁』である。これも東西冷戦の象徴となった。スターリン批判の結果、それを皮切りに動きだした支配下の人間の暴走を、力づくで鎮圧したソ連。結局スターリンの後任フルシチョフも、彼と同じように恐怖政治で支配下を治めようとしてしまったのであった。
[東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日)]
更にソ連が重大な問題を引き起こす。1957年10月4日。『スプートニク』という人工衛星を秘密裏に打ち上げ、それを成功させてしまったのだ。しかしこれがなぜ問題なのか。それは、この人工衛星のロケット打ち上げ成功が=『ある技術の確保の裏打ち』だからだった。ソ連はこの時点で、爆弾や核弾頭を積んで飛ばす『ミサイル技術』を確保したのと同じだったのだ。これを受け焦ったアメリカは、『ヴァンガードロケット』を打ち上げるも失敗。アメリカはソ連に大きなアドバンテージ(有利性)を取られてしまったのだ。
[スプートニク・ショックで1957年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ]
それだけではなかった。チェ・ゲバラやカストロが巻き起こした『キューバ革命(1953年7月26日 – 1959年1月1日)』である。キューバは、アメリカの従属国の立場だった。だが、この革命によってキューバはソ連側に寝返ったのだ。そしてソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとする。当時の大統領ジョン・F・ケネディはそれを阻止しようと、キューバを海上封鎖。ソ連軍はキューバに入港できない状態が作られた。
[ゲバラ(左)とカストロ(右)]
双方の海軍はにらみ合い、一触即発の空気が流れた。一歩間違えれば『全面核戦争』に陥る。これが『キューバ危機』である。しかし、ケネディとフルシチョフは交渉し、なんとか解決の方向に向かった。
アメリカがキューバを攻撃しないことと引き換えに、ソ連がミサイル基地を撤去することを約束する。
この件で、米ソは核兵器のリスクを思い知らされる。どちらかが攻撃したら当然報復が行われ、そうなるともうこの世界は終わってしまう。人類はもうそういうところまで来たのだ。それをこの『キューバ危機』によって、強く自覚したのだった。
[ソ連製MRBM(ミサイル)基地]
これらを結び、戦略的兵器削減交渉が始まって、ようやく冷戦は『デタント(緊張緩和)』と言える段階まできて、終結に向かうのであった。
更にそこにとどめを刺したのは、
だった。ベトナム戦争については下記の記事に書いたが、アメリカはこの戦争によって東南アジアが社会主義陣営に回らないように画策した。ベトナムは、ホー・チ・ミンの活躍もあってフランスによる植民地支配から解放されるのだが、しかしそのあとアメリカが『ベトナムの共産化を阻止する』という口実で、南ベトナムに軍事支援を行い、ソ連や中国の支援を受けた北ベトナムと戦った。奇しくも、朝鮮半島を支援するのも『南=アメリカ』で、『北=ソ連、中国』だったが、ベトナムでも同じような流れになったわけだ。
北ベトナム | ソ連、中国 |
南ベトナム | アメリカ |
アメリカと正面衝突をしたら北ベトナムに勝ち目はない。そう考えた北ベトナムは、かつて、
のように、『地の利』を生かしてこれに対抗しようとした。『ゲリラ戦』である。当時ロシアがナポレオンやドイツ軍に使ったのは、『ロシアの寒い環境』を利用した焦土作戦だったが、北ベトナムにあったのは『密林(ジャングル)』だった。そこで、北ベトナム軍はその環境を利用し、アメリカに対抗したのである。
[アドルフ・ノーザン『ナポレオンのモスクワからの退却』]
だが、アメリカ軍はこれを『北爆』という爆撃で対抗。猛毒のダイオキシンを含む『枯葉剤』を散布し、密林の草木を枯らし、彼らのアドバンテージ(有利性)をはく奪しようとした。しかし、この映像を客観的に見たとき、印象が悪かった。テレビが普及したこの頃、この光景は世界中に流されることになった。そして、アメリカ軍への印象が悪くなり、世界中で反戦運動が起きた。
更に、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。この攻撃によって形勢が変わり、財政赤字も重なって、ついにアメリカはベトナムから撤退することになる。
1975年、南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チミン)が滑落死、北によるベトナム統一が行われた。『ベトナム社会主義共和国』の誕生である。
この一軒でアメリカは世界的な地位を低下させたが、ソ連も同じような目に遭っていた。1968年、チェコで第一書記ドプチェクによる民主化運動『プラハの春』が起き、ソ連がこれを鎮圧。しかし、同じくテレビの報道によってソ連の強引な手法がさらされることになる。
[燃えるソ連の戦車と国旗を掲げるチェコスロバキアの人々]
アメリカはベトナム戦争の失敗における影響を大きく受けていた。反戦運動は、『公民権運動』という人種差別撤廃運動と結びついて大きなエネルギーとなり、キング牧師などの影響もあって、公民権法が制定され、法の上では人種差別が撤廃されるという動きが見られた。
また、戦争でアメリカの手持ちの金(きん)が大きく失われたこともあり、当時のリチャード・ニクソン大統領は、ドルと金の交換停止を宣言。『ドル・ショック』である。しかしこれによってアメリカの経済力が疑われるようになり、アメリカはかつてのような絶対権力国ではなくなっていった。
1971年8月15日に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策。
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