いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.ウマイヤ朝が存在した時代のイスラム世界です(661~750年)。
2.アッバース朝になったあとのイスラム世界です(750~1258年)。
570年にイスラム教の開祖ムハンマドが生まれ、632年に病死しました。
その後、ムハンマドの3代目の後継者オットマン『を殺害したはずであるアッリー』を殺したムアウィヤが、『ウマイヤ朝』を建てます。そしてイスラム教に、
という派閥が生まれ、ムハンマドの子孫であり、アッリーの後継者を自任するアブル・アッバースが半旗を掲げました。彼からすれば、アッリーは罪を着せられて殺されたわけで、ムアウィヤはカリフの地位を強奪したに等しい。その地位を奪い返すために、ウマイヤ朝を襲撃。そして750年、ウマイヤ朝は亡ぼされ、アッバース朝が建てられました。
ムアウィヤ | スンナ派 |
アブル・アッバース | シーア派 |
ウマイヤ朝の時代は、アラブ人のみが支配階級として君臨していた体制だったので『アラブ帝国』と言い、それと対比する形で用いられるアッバース朝時代を『イスラム帝国』と言うようになっています。
『イスラム世界の誕生』
記事としては上記の記事あたりの続きだ。『アレクサンドロス三世(アレクサンドロス大王)』がアケメネス朝ペルシャの最後の王、ダレイオス三世を倒し、『アルゲアス朝マケドニア王国』は世界帝国として名をはせていた。これが紀元前330年頃。しかし、彼が統治したアルゲアス朝マケドニア王国は、紀元前336~323年の、たったの13年間しか持たず、始皇帝が統一した『秦』の時代よりも短い帝国だったようである。
アレクサンドロスはこう言い残していた。
これによって帝国の領土をめぐって部下が争い、
という3か国に分裂してしまった。
結局アレクサンドロスからオリエントの広大な領土を受け継いだのは『セレウコス朝』だった。そしてそれが、遊牧民のらイラン人が建てた『パルティア』、そして農耕民のイラン人が建てた『ササン朝ペルシャ』に引き継がれた。ササン朝ペルシャは『帝政ローマ』や『東ローマ帝国(ビザンツ帝国)』の隣国であり、長年ローマのライバルとなっていた。
共和政ローマ時代(紀元前1世紀頃) | パルティア |
帝政ローマ時代(3世紀頃) | ササン朝ペルシャ |
例えばササン朝ペルシャ第2代王シャープール1世はなかなかのエネルギッシュな人間で、強力な軍隊を誇り、ローマ軍との戦いに勝利する等して、勢力を上げていた。ローマの戦士約1万人を捕虜にし、国内のインフラ整備に使役したのだ。下記の記事に書いたように、253年からのローマ皇帝、プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスは、捕虜となった後は最悪の扱いを受けた。乗馬の踏み台にし、奴隷として扱う。そして死後は皮を剥がされ、赤く染め、見せしめに神殿に飾られた。
[捕虜となってシャープール1世に跪くウァレリアヌス(ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像)]
200年頃、中国では『三国志』の時代に突入し、『三国時代→晋→南北朝時代→隋』という流れにあった。楊堅が『隋』を建国する10年ほど前の570年。アラビア半島西岸の都市、メッカにて、この世界に莫大な影響を与える人間が登場する。当サイトでは人間の『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリスト、
を『四人の教師』として扱っていて、ドイツの哲学者カール・ヤスパースも、『偉大な哲学者たち』の第一巻をこの四人にあてており、彼らを『人間の基準を与えた人々』とみなしているが、彼らにもし匹敵する人物がいるとしたら、この人物になる。『ムハンマド』である。彼については下記の『宗教編』の記事で書いたので割愛するが、イスラム教の創始者だ。現在、キリスト教の次に信者の多い宗教団体の創始者である。
前述したように、当時『西のビザンツ帝国』と『東のササン朝』は対立関係にあった。商人たちは、彼らの戦争に巻き込まれないように大きくアラビア半島を迂回して商売をしていた。下記の記事、紫がササン朝、左にある(Byzantine)Empireとあるあたりが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)である。
[600年前後のサーサーン朝周辺]
そこで、その下にある、イタリアとはまた違った『長靴』のような半島『アラビア半島』を大きく迂回し、戦場を避けながら交易。地図にしてちょうど、『Ghifar,Quraysh』と書いてあるあたりを通ることが多かった。ここにあったのは『メッカ、メディナ』という都市であり、ここが発展していったのだ。
上記の記事に、十字軍の通り道になった場所で、商業が発展したことについて書いた。この時は、以下のような地域が交易の場所になり、発展していった。
恩恵を受けた地と取引された商物
ヴェネツィア、ジェノヴァ | アジアの香辛料、絹 |
ミラノ、フィレンツェ | 手工業、金融 |
リューベック、ハンブルク | 木材、穀物 |
ブリュージュ(フランドル地方) | 毛織物 |
そしてここでも同じようなことが起きたのだ。戦争の影響で、人が多く通る通路ができ、その通り道が栄えた。それがアラビア半島の場合、『メッカ、メディナ』といった場所だったのである。イスラム教とムハンマドについての歴史は下記の記事から見れるようになっている。
イスラム教に『スンナ』という教典が生まれ、『クルアーン』と並んで2大支柱となっていく。このスンナを信仰するムスリムを『スンニ派』と呼び、イスラム教の実に9割がこのスンニ派に属することになる。
国ごとのイスラム教の分布。緑系はスンナ派、赤紫系はシーア派、青はイバード派。ほとんどがスンナ派(スンニ派)であることがわかる。
その後、アッリーを殺してカリフとなったムアウィヤの王朝の象徴『白旗』に対抗し、749年、イランの東北のホラーサーン地方で『黒旗』が翻った。ムハンマドの子孫であり、アッリーの後継者を自任するアブル・アッバースが半旗を掲げた。ウマイヤ朝が存在した(661~750年)は『アラブ帝国』と言われたが、アッバース朝になった(750~1258年)は『イスラム帝国』と呼ばれるようになる。
ウマイヤ朝の時代は、アラブ人のみが支配階級として君臨していた体制だったので『アラブ帝国』と言い、それと対比する形で用いられるアッバース朝時代を『イスラム帝国』と言うようになった。
『アル・マンスル』や『ハールーン・アル・ラシード』といった人物の影響でバグダードに『アラビアン・ナイト』の世界が作られ、946年には、イラン系のブワイフ朝が首都バグダードを占領。さらにエジプトのファーティマ朝という2つのシーア派国家に挟まれ、アッバース朝は滅ぶことはなくても、これ以降実質的な統治権を失う。
またちょうどその頃、トルコ民族初のイスラム国家『カラ・ハン朝』が中央アジアに登場する。この時世界には、
といった、幾多ものイスラム国家が存在していて、そのうち、イスラム教の指導者を意味する『カリフ』は、上の3つの地域にて各1人ずつ存在するという混沌とした状況があった。
11世紀になると、トルコ人の王朝が頭角を現し、セルジューク朝という王朝が登場。この王朝の初代の『トゥグリル・ベク』は、バグダードにいるアッバース朝のカリフに書簡を送って忠誠を誓い、スンナ派の擁護者としてシーア派に脅かされるカリフを救い出すため、イラン・イラクを統治してカリフを庇護下に置くシーア派王朝ブワイフ朝を討つことを画策。
1055年、アッバース朝のカリフをシーア派のブワイフ朝から解放したので、アッバース朝のカリフは、彼に『スルタン』の称号を与える。同時にカリフの居都であるバグダードにおいて、スルタンの名が支配者として金曜礼拝のフトバに詠まれ、貨幣に刻まれることが命ぜられ、スルタンという称号がイスラム世界において公式の称号として初めて認められた。
こうして力を得たトルコ人王朝のセルジューク朝は、更に勢力を西へと拡大し、ビザンツ帝国と衝突することになる。これが、のちのヨーロッパによる十字軍遠征の引き金となるのだ。
その後、西にあったウマイヤ朝の生き残りは滅亡し、ベルベル人が建てた『ムラービト朝』が成長。また東にはカラ・ハン朝があり、更にアフガニスタンの地に『ガズナ朝』が成立。これらはすべてトルコ系であり、11世紀はトルコ人がイスラム世界の主人公となっていた。
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代をまとめた人気動画があります。
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