なぜ十字軍とイスラム国家が衝突しなければ『ルネサンス』時代がなかったの?わかりやすく簡潔に教えて!
イスラム文化でギリシャ文化が『翻訳・記録・保存』され、十字軍と交わらなければ、それがヨーロッパに伝わらなかったからです。
14世紀ヨーロッパのルネサンスというのは『人間を軸にものを見る』という考え方の復興でした。
それまでの中世ヨーロッパは『暗黒時代』とも言われ、ただただ神のためにある1000年間で『哲学』もほとんど栄えませんでした。しかし、キリスト教の腐敗と衰退により、それを打破する動きが活発化。その中で、14世紀の芸術家あたりから『神から人へ』視点を変える考え方が動き出しました。この考え方は、実は紀元前の古代ギリシャの時代にあったものです。ギリシャ神話の神々は人に姿が似ていて、それが理由で人が『神から人へ』視点を変え、『哲学』が生まれましたが、それは世界に広がりませんでした。『翻訳・伝播』されなかったからです。
その後8世紀頃のイスラム帝国で『アル・マンスル』がバグダードを経済的に繁栄させ、彼の孫である『ハールーン・アル・ラシード』がアリストテレスをはじめとするギリシャの化学を記録し、保存。ギリシャ語文献がアラビア語へ翻訳され、哲学、論理学、地理学、医学、天文学などの学問が発展。11世紀末にはアラビア語文献のラテン語への翻訳も盛んに行われました。そうしてギリシャ・ローマの古典はムスリム商人によってラテン語に翻訳され、それが十字軍の遠征の通り道で栄えた場所などを通してヨーロッパへ流入。
こうしてヨーロッパで『ルネサンス』時代が幕開けしたのです。
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『イスラム文化の意義』
上記の記事の続きだ。こうしてシーア派系ブワイフ朝を倒し、スンナ派系セルジューク朝が勢いに乗り、そのまま1071年にエルサレムを占領。ビザンツ帝国との戦いに勝利し、その後小アジアに進出する。ローマ帝国側の動きは下記の記事に書いたが、グレゴリウス7世は、ウルバヌス2世にローマ教皇の座を引き継ぎ、1095年に『十字軍の遠征』を命じる。そこからは、十字軍との『エルサレム奪回戦争』が200年も続くことになる。
中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のこと。
第1回十字軍 | 1096年 – 1099年 |
第2回十字軍 | 1147年 – 1148年 |
第3回十字軍 | 1189年 – 1192年 |
第4回十字軍 | 1202年 – 1204年 |
第5回十字軍 | 1218年 – 1221年 |
第6回十字軍 | 1228年 – 1229年 |
第7回十字軍 | 1248年 – 1249年 |
第8回十字軍 | 1270年 |
第9回十字軍 | 1271年 – 1272年 |
[中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃]
1096年の十字軍の遠征では、十字軍側がエルサレムを奪還することに成功する。しかし、その後1187年にはまたイスラム国家側が奪回。その後の1270年までの7回の十字軍遠征はすべて失敗し、エルサレムはイスラム側が奪回したままの形となった。このときカトリックは追放されたものの、正教会やユダヤ人の居住は許可された。
1229年、当時のイスラーム側における内部対立にも助けられ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルタンのアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせた。10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。両方の勢力は宗教的寛容を約束し、また以下の条件が課せられた。
それ以後はマムルーク朝やオスマン帝国の支配下に置かれた。そしてその後『中東戦争』問題に発展し、現在も『パレスチナ問題』として未解決状態のままとなっている。
さて、先ほど出たアイユーブ朝と言えば、下記の記事にも書いたイスラムの英雄サラディンである。
彼と、その記事に書いた真の英雄『ボードゥアン4世』、それから十字軍側の幾人かの中心人物を軸にしてこの200年の戦争を考えると、これらの輪郭が見えてくるかもしれない。しかしとにかくここにあったのはエルサレムという『聖地』を巡る、
のアブラハムの宗教の宗教間の違いによる不和・対立だ。これらの行為はあまり世界に誇れるようなものではないだろう。そしてそれが今も続いてしまっているのである。
11世紀以降も、イベリア半島でキリスト教勢力がイスラム勢力を駆逐すべく『レコンキスタ(国土回復運動)』が行われていた。スペインやポルトガルがあるこのイベリア半島は、中世の時代にイスラム勢力に征服されていたが、キリスト教徒がこれを奪還しようとする『レコンキスタ』を行っていた。それは8世紀頃に始まり、11世紀頃に活発化し、15世紀の末に完了するが、それを機にポルトガルやスペインの海外進出が始まるのであった。
[イスラーム勢力の後退(914年–1492年) イスラーム勢力はイベリア半島の南に押しやられていき、1492年にはすべての領土を失った]
イスラム世界というのはどちらにせよとても大きなエネルギーだ。この世界や文化があったからこそ芽生えたものも数多くあった。『アル・マンスル』がバグダードを経済的に繁栄させ、彼の孫である『ハールーン・アル・ラシード』がいなければ、アリストテレスをはじめとするギリシャの化学は世界から忘れられた。彼がそれを記録し、保存していたからだ。
芸術、文化、自然科学などの保存と伝播。
彼らアラビア人は金を作り出そうとし、それは失敗したが、
の技術が発達し、それによって
に優れ、
も発達し、現代数学の基礎を築き、『数字』はローマ数字よりもよほど便利なものになった。医術もヨーロッパよりもよほど進んでいて、当時人々を苦しめていた『黒死病』が病原菌によるものだということを知っていた。十字軍の遠征でも収穫はあって、それがあったからこそイスラム文化とヨーロッパ文化が合流することができ、ヨーロッパの大学の天文学や医学の授業では、イスラムの文献が教科書として使用された。
上記の記事に、十字軍の通り道になった場所で、商業が発展したことについて書いたが、恩恵は確かにあったのだ。
恩恵を受けた地と取引された商物
ヴェネツィア、ジェノヴァ | アジアの香辛料、絹 |
ミラノ、フィレンツェ | 手工業、金融 |
リューベック、ハンブルク | 木材、穀物 |
ブリュージュ(フランドル地方) | 毛織物 |
ギリシャ語文献がアラビア語へ翻訳され、哲学、論理学、地理学、医学、天文学などの学問が発展。11世紀末にはアラビア語文献のラテン語への翻訳も盛んに行われた。そして、この合流で生まれた考え方に『人間を軸にものを見る』という考え方があり、そのギリシャ文化の影響がのちの『ルネサンス時代』の背景となったのだ。
そしてここから13世紀はしばらく『チンギス=ハン』率いるモンゴル帝国の時代に突入する。
彼についての記事は以下にまとめた。
そして、それと同時に勢力を上げていたのが、『オスマン帝国(1299年 – 1922年)』だった。
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