いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国)』を終わらせ、モンゴル帝国の後に世界の覇権を握ったイスラム系の帝国です。
2.そのオスマン帝国を潰した、ティムールという人が一代で築き上げた帝国です。
どちらもトルコ系イスラムの帝国でした。
しかしオスマン帝国がティムール帝国の領土(スイヴァス)を占領したことが発端で、両帝国は戦争となります。盗賊団の首領から一代で大帝国を築いたティムールは、『アンカラの戦い』でオスマン帝国を破ります。オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、これによって滅亡の寸前まで追い詰められていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は救われました。ティムールは『中国(明)』に行く途中で病死しましたが、圧倒的な強さを持った人物として歴史に名を刻んでいます。
その後、ビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされます。1453年5月29日、これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのです。その後もオスマン帝国はイラクや北アフリカ、ハンガリー等を制圧し、大帝国へと拡大していき、キリスト教ヨーロッパは羨望のまなざしでオスマン帝国を見ました。モンゴル帝国の後にヨーロッパの覇権を獲ったのは間違いなくこのオスマン帝国でしたが、
という内外の問題によって、徐々にその力を失っていくことになります。そこからオスマン帝国は1922年まで約700年近くその体制を維持し続けますが、少しずつ力を失っていき、やがて完全に消滅。そのあとを引き継いだのは『トルコ共和国』でした。
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『オスマン帝国の盛衰』
上記の記事の続きだ。13世紀はしばらく『チンギス=ハン』率いるモンゴル帝国の時代に突入する。1258年、バグダードはモンゴルに支配され、アッバース朝は滅亡する。
下記の記事に書いたが、10世紀頃、ビザンツ皇帝のバシレイオス2世はブルガリアを滅ぼし、ビザンツ帝国は最盛期を迎える。しかし、その間に『十字軍問題』があり、それは200年も続いたわけだ。そして13世紀以降になると、ビザンツ帝国は衰退に向かうことになる。1396年、ブルガリア北部における『ニコポリスの戦い』において十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。
[ニコポリスの戦い]
オスマン帝国の創始者オスマン1世は、1258年に生まれた。13世紀、アナトリアにはガーズィーと呼ばれる略奪を主な目的とする戦士集団が無数にあり、オスマンはそのなかのひとつの君侯だった。オスマンは他の君侯やキリスト教徒の領主と戦いを繰り返す。そして、ムラト1世、バヤジット1世と続く。『雷光』と言われたその4代目のバヤジット1世のときには十字軍を破り、ドナウ川に達するバルカンの支配を確立。
その頃、14世紀末、トルコ系イスラムのティムール帝国がモンゴル帝国の再興を唱えてイランやイラク一帯を支配下に収めた。盗賊団の首領から一代で大帝国を築いたティムールは、トルコ・イスラム化したモンゴル民族の出身。中央アジアから西アジアに及ぶ大帝国を建設した。オスマン帝国がティムール帝国の領土(スイヴァス)を占領したことが発端で、両帝国は戦争。そして、アナトリアの諸君公からの要請に基づき『アンカラの戦い』でオスマン帝国を破る。
オスマン帝国はビザンツ帝国を滅ぼすだけの力があった帝国だ。それをティムールが破ったのだ。『アンカラの戦い』は1402年7月20日にアンカラ近郊において、バヤジット1世率いるオスマン朝軍とティムール率いるティムール朝軍の間で行われた戦闘で、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす少し前に行われていた。
つまり、なんとその十字軍を破った『雷光』と言われたバヤジット1世を撃破したのだ。それが、『鬼武者』のような姿で戦場に挑んだティムールだったのである。
[バヤズィトのもとへ訪れるティムール(スタニスラウ・チュレボウスキ画、1878年)]
これに敗戦したことによって、オスマン帝国は一時壊滅的な状況となり、滅亡の寸前まで追い詰められていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は救われた。バヤジットは翌年に捕虜のまま病死し、息子らの間で帝位を巡り争われるなど、オスマン帝国は空位状態となった。
オスマン帝国を落としたティムールが次に向かったのは『中国(明)』だ。もし、ティムールがその途中で病死していなければ、当時の明の皇帝『永楽帝』はきっと大苦戦を強いられただろう。
その後は前述したように、1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされてしまう。メキメキと頭角を現すオスマン帝国だが、7代目スルタンのメフメト2世のときに、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服したのである。1453年5月29日、これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになったのである。これによってコンスタンティノープルは『イスタンブール』と改名された。
[オスマン帝国の領土拡大]
その後もオスマン帝国はイラクや北アフリカ、ハンガリー等を制圧し、大帝国へと拡大していった。オスマン帝国はイスラム国家である。この帝国の特徴は領土内の異教徒を宗教別の共同体(ミレット)に組織し、自治を与えたこと等が挙げられる。
オスマン帝国の統治
ミレット | オスマン帝国内では納税をすることで、非ムスリム社会の自治や信仰が認められた |
カピチュレーション | オスマン皇帝に功労のあった外国の君主らに諸特権を与える制度。貿易や領内居留地での治外法権がある |
デウシルメ制 | キリスト教徒の子供をイスラム教に改宗させ、要職に登用する制度。イェニチェリや太宰相などはこれで選ばれた |
異民族の中から優秀な人材を活用し、異教徒や異民族に寛容な政策をとったことがオスマン帝国の強みだった。チンギス・ハーン時代のモンゴル軍が強かったのもこれに近いところがあり、実力主義を採用して、戦闘に特化した精鋭部隊を作ったからだった。だから少人数で大人数に勝つことができたのだ。下記の記事で、赤壁の戦いにあった『呉』の周瑜、『蜀』の諸葛亮孔明の二人の天才策士の話を書いたが、彼らのように『知恵』を使って勝利したというよりは、単純に彼ら兵士一人一人の力が強かったのである。
オスマン帝国の最盛期は、第10代皇帝スレイマン1世(在位:1520年 – 1566年)の時代だ。
[スレイマン1世]
彼はスレイマンの意味通り『壮麗なる者』として国外からも羨望のまなざしで見られた。また、彼の指令によって、トルコ史上最高の建築家と呼ばれるミマール・スィナンが設計、1550年に着工し、『スレイマニエ・モスク(スレイマン・モスク)』が7年の歳月をかけて完成した。オスマン建築(トルコ建築)の最高傑作のひとつと言われていて、現在は世界遺産にも登録されている。
しかし、ムガル帝国5代目皇帝のシャー・ジャハーンの時代が、ムガル帝国の最盛期でもあり、同時に斜陽の始まりでもあったように、オスマン帝国のスレイマンの時代もそれがピタリ当てはまることになる。
Wikipediaにはこうある。
スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
スレイマンが亡くなった後の5年後、1571年に、スペインは『レパントの海戦』でオスマン帝国を破り、地中海の制海権を奪取。更に、『ポルトガルの併合(1580年)』で『スペイン帝国』は最盛期を迎える。ただ、実際にはレパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、ここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではないという。その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。
スレイマン時代の繁栄の裏で、
等の様々な内部問題が起きていて、それがそのあとの歴史と重なりながら、徐々に衰退していくのである。
1683年、スレイマンの時代にはウィーンを包囲することに成功したが、『第二次ウィーン包囲』を失敗。それがオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦となった。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わる。
この包囲戦を契機に、神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。
神聖同盟
その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年の『カルロヴィッツ条約』締結に至った。
[第二次ウィーン包囲]
更に、ワッハーブが起こしたワッハーブ派の運動に、現在の『サウジアラビア』の語源にもなっているサウード家という有力部族が協力し、アラビア半島にワッハーブ王国が成立。
オスマン帝国(イスラム世界)をいつまでもトルコ系が支配するのは許さん!
として、アラブ民族が立ち上がる。オスマン帝国は、
という内外の問題によって、徐々にその力を失っていくことになる。そして、下記の記事に書いたように、イギリスで『産業革命』が始まり、世界はヨーロッパ覇権の時代に突入した。同じイスラム系だった『ムガル帝国』もこの時にイギリスによって滅ぼされ、『インド帝国』へ。オスマン帝国も何とか土俵際の踏ん張りを見せたが、様々な問題が彼らに押しかかることになる。
[ムハンマド・アリー・パシャ]
1798~1799年、ナポレオンはエジプト遠征を行う。しかしそれが去った後の1821年、今度はギリシャが独立戦争をしかける。更に、ナポレオンのエジプト遠征の際に、オスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任したムハンマド・アリーは、ギリシャ独立戦争に続き1828年の『露土戦争(9回目)』でロシアに敗れ莫大な損失を被っていたオスマン帝国と対立。『エジプト=トルコ戦争(1831年~1833年と1839年~1840年)』を起こす。ムハンマド・アリーはオスマン帝国のエース的存在だったので、これは帝国にとっても痛手となった。
[アハルツィヘの戦い (1828)]
イギリスはこの戦争を境にムハンマド・アリーに対し警戒感と不満を抱くようになったが、彼はその後イギリスを退、エジプトを統一し『ムハンマド・アリー朝』を起こす。中央集権を図り近代化させ、アラビア半島とスーダンを征服。
しかし、その後フランスと一緒にスエズ運河を完成させたとき、その費用の支払い問題に困っってイギリスに株式を売却してしまったので、結果的にエジプトはイギリスの軍事占領を受け、イギリスの保護国となってしまった。
第二次ウィーン包囲の失敗でハンガリーを失い、クリミア、ギリシャ、エジプトを失う。少しずつオスマン帝国は解体されていく。1853年、ロシアは聖地エルサレムの管理権を要求し、ロシアは自ら戦争を起こし、オスマン帝国を正面から潰そうとする。『クリミア戦争』である。しかし、オスマン帝国がフランスとイギリスに支援を要求し、ライバルではあったが利害関係が一致した両国は、
ロシアにこれ以上力をつけられては困る
ということで、オスマン帝国側につく。ヴィクトリア女王、ナポレオン3世を味方につけたオスマン帝国に、敗北してしまう。
[クリミア戦争 セヴァストーポリ包囲戦]
それでも徴兵制を実施したりして国力を強化したロシアは、1877年、ロシアはまたオスマン帝国と戦争を起こす。『露土戦争(11回目)』である。今回はロシアの勝利に終わった。
[露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦いシプカ峠は現在のブルガリアに位置する。1877年7月の戦いでロシア軍が確保、その後2度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にはオスマン軍を完全に撃退した]
を独立させ、ロシアの保護国とすることをオスマン帝国に承認させた。こうしたことを続けていくうちに財政が逼迫し、クリミア戦争の戦費が追い打ちとなって、ついに国家財政が破綻した。
そこからオスマン帝国は1922年まで約700年近くその体制を維持し続けたが、少しずつ力を失っていき、やがて完全に消滅した。Wikipediaにはこうある。
1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にパーディシャー(スルタン)とカリフの分離と、帝政の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に取って代わられた。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。
これは余談だが、日本とトルコ(オスマン帝国)には深い関係がある。1890年、オスマン帝国の戦艦エルトゥールル号が日本へ表敬訪問に来て、その帰り道で和歌山沖で台風に遭い、沈没してしまった。だが、和歌山の孫任たちが総出で彼らを救助し、69人の命が救われたのだ。亡くなってしまった人もいたが、生き残った人は日本の軍艦がトルコまで送り届け、全国から彼ら遺族への義援金も集めた。
この出来事にトルコの人々は感激。トルコでは学校の教科書にも載っているくらい、有名な話なのである。こうした経緯もあって、1985年の『イラン・イラク戦争』のとき、イランに約200人の日本人が取り残され困っていると、日本の民間機も自衛隊機も飛んではいけない状況で、トルコ航空が危険を冒して彼らを救出したのだ。
[日本人を運んだトルコ航空のDC-10イズミル号(機体記号TC-JAY)]
エルトゥールル号事件の恩返しだ。
彼らは日本に対して、好意を持ってくれているのである。まさに、見るべきなのは以下の黄金律だということだ。
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