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アレクサンドロスの影響でインドが結束!その後『奴隷王朝、ムガル帝国』とイスラム勢力が流入し、宗教問題に発展

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. アショーカ王は何をした人?
  2. 奴隷王朝って何?
  3. ムガル帝国って何?

1.敬虔な仏教徒で仏教をインドに広めた人です。

2.インドで初めてのイスラム王朝です。元トルコ人奴隷が建国したので、そう呼ばれています。

3.奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破った、バーブルという人が作った帝国です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

宗教も作品も商品も、作る人とそれを広める人、その両方が重要です。

ユニクロことファーストリテイリング社長の柳井正も、

 

と言っていますが、広がってなんぼ、人に知ってもらい、使ってもらってなんぼというものがあるのです。その意味で、アショーカ王が王の立場で仏教を軸にして政治をしたことは、仏教にとっても大きいことです。

 

かつてのローマ帝国(キリスト教)で考えても同じことです。ディオクレティアヌスが皇帝をとして崇めさせる『専制君主制』を始め、コンスタンティヌスが夢の中でキリストの十字架を見て、『ミラノ勅令』を発布。そしてローマ帝国最後の皇帝テオドシウスがキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。この3人の強烈なリーダーシップがなければ、現在のキリスト教はないかもしれないのです。

 

さて、インドも13世紀になると、インドで初めてのイスラム王朝『奴隷王朝』ができます。元トルコ人奴隷のクトゥブッディーン・アイバクが建国したのでそう呼ばれていますが、正式には『デリー・スルタン諸王朝』です。その後、ムガル帝国の初代皇帝バーブルが奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破り、インドにムガル帝国を建国しました。

 

ブッダの登場で仏教ができ、アショーカ王やカニシカ王等がそれを広めます。しかし、イスラム勢力がインドにやってきて、こうしてムガル帝国がついにインドを支配。すると、『イスラム教VSインド宗教(ヒンズー、仏教)』という図式が浮上してしまいます。これが後の『インド分裂』の大きな原因となります。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

インダス文明からのインドの歴史

『奴隷王朝』『ムガル帝国』

『インダス文明』を作ったドラビダ人。『カースト制度』の負を産み付けたアーリア人。

 

上記の記事の続きだ。記事には、紀元前2500年頃から紀元前500年頃までの、インダス文明からのインドの歴史を記載した。それまで、インドはバラバラだったが、アレクサンドロスの東方遠征によってペルシャが滅ぼされ、インドまでそれが及んだ時、インドはそれに対抗するために結束することになる。

 

『ギリシャ、ペルシャ』と世界を支配したアレキサンダー大王がこの世界に与えた影響とは

 

例えば下記の記事に書いたように、世界大戦が行われたとき、植民地の対象となってしまった東南アジア諸国が、戦後に『ASEAN(東南アジア諸国連合)』を作り、また第二次世界大戦の後にその植民地を失い、あるいは戦場となって弱体化したヨーロッパが『欧州連合(EU)』を作って身を固めたように、ここでも同じようなことが起きたわけだ。

 

東南アジアで命を燃やした歴史に残る偉人たちと、唯一独立を守り続けた奇跡の国~ASEAN誕生~

ヨーロッパは何とか『欧州連合(EU)』でまとまり身を固めることに成功!だが『新冷戦』など様々な問題も浮上する

 

インド初の統一国家『マウリヤ朝』

その中心となった人物がチャンドラグプタであり、彼がインド初の統一国家『マウリヤ朝』を作った。彼はその初代王(紀元前317年頃 – 紀元前298年頃)である。チャンドラグプタというのは、『チャンドラグプタ1世、チャンドラグプタ2世』といるが、彼はその初代であり、紀元前の人間である。1世や2世はグプタ朝の人間であり、その創始者の1世は、彼から700年後。4世紀頃の人間だ。

 

[チャンドラグプタ像]

 

 

マウリヤ朝3代目アショーカ王

マウリヤ朝の3代目の王であるアショーカ王はさらにその征服活動を広め、南端を除く全インドを統一することに成功する。しかし彼がそのほかの支配者と違ったところは繊細さであり、彼は、強国カリンガを征服した際、数十万人の犠牲者を出したことを深く後悔する。そして、征服戦争ではなく、ダルマ(法)に基づく政治を行うことを決意する。つまり、彼は敬虔な仏教徒だったということだ。

 

ブッダが広めた教えとは本当に『仏教(宗教)』だったのか?

ブッダ(Buddha)とはどんな人物か

 

 

クシャーナ朝と『シルクロード』

その後、マウリヤ朝が崩壊し、イラン系の民族がインドに入り、クシャーナ朝を建国。紀元後375年まで続いた。クシャーナ朝はインドの北寄りにあり、ここは『ガンダーラ地方』と呼ばれた。ガンダーラの特徴は『東西の融合』。下記の記事でも、様々な『通り道』が自然と栄えた場所になる例を書いたが、ここも同じように『シルクロード』という世界の文化が流入する場所となった。

 

十字軍とイスラム国家が衝突しなければアリストテレスは忘れられ、『ルネサンス時代』も生まれなかった

『十字軍問題』や『ボニファティウスの屈辱』でキリスト教会の権威が失墜!『ローマ帝国の継承者』は誰に?

 

そこで花開いたのが『ガンダーラ美術』だ。そもそも、仏教の教えでは『モーセの十戒』にあるのはこうだ。

 

そしてモーセとは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教において、もっとも重要な予言者の一人である。そして仏教の開祖、ブッダ(釈迦)も同じように、偶像崇拝を禁止していた。本人は、

 

ブッダ

個人の崇拝をするな。答えは自分の中にある。

 

と言い続け、崇拝の的となることを拒否していたのだ。その教えは守られていた。有力な考え方の一つでは、ブッダの死後500年ほど経って、アレクサンドロス三世がエジプトを征服後、ペルシアを滅ぼし、西北インド(ガンダーラ地方)まで進出した。それによってヘレニズム文化が入ってきたことにより、『仏像』が作られるようになった。

 

 

浄土宗 大信寺』のHPにはこうある。

仏像の無い時代

 

仏教が誕生してから約500年間は、インドでは仏像が造られなかった。さて、造る技術がなかったのか、それとも造る必要がなかったのか。その謎に迫る。

 

釈迦の生前には

 

釈迦の教えというのは、自らの知恵によって苦悩から超越するという「悟り」を多くの人々に分かりやすく説いたものなので、自分以外のもの(他力)に身を任せことによって救われるという考え、即ち、偶像を崇拝することは許されなかった。

 

つまり、仏教の教えでは(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教も)偶像崇拝(仏像等を作ってそれを拝むこと)をしてはならないという教えがあったのだが、アレクサンドロスの東方遠征によってギリシャの『ヘレニズム文化』が入り込み、そうした偶像を作ることが勝手に解禁されてしまった。先ほどのブッダの画像もそこでできた『ガンダーラ美術』の一つである。

 

 

クシャーナ朝最盛期の王カニシカ

クシャーナ朝には、アショーカ王と並ぶ仏教の保護者と言われるカニシカ王もいて、彼がクシャーナ朝最盛期の王だったが、『仏教の保護者』という名前を語るなら、こうした美術品を作ることを認めないのではないだろうか。何しろ、仏教の創始者ブッダが、それを望んでいなかったのだから。まあ、人間というものはいつの世も『内』ではなく『外』に目を向けるものだ。見るべきなのは以下の黄金律と、映画である。

 

『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』

 

 

 

グプタ朝

また、南インドにはサータヴァーハナ朝があり、インド洋に突き出ていたその地域はまたもや『通り道』となったことで、大いに繁栄した。

 

[サータヴァーハナ朝とその拡大]

 

クシャーナ朝が滅亡してからおよそ100年後、320年あたりで先ほどのチャンドラグプタ1世が創始者となるグプタ朝ができる。彼はパータリプトラ(現パトナ)を首都にインド北東部を支配し、『諸王のなかの大王』と呼ばれるほどの人物だった。この時代の特徴としては、クシャーナ朝、マウリヤ朝と違って、ヒンズー教を確立させたことだった。

 

世界最古の宗教『ヒンズー教』の誕生と、最悪の負の連鎖『カースト制度』の始まり

 

 

西遊記』のモデルとなったヴァルダナ朝

グプタ朝が異民族の侵入によって崩壊した後、ハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを統一し、ヴァルダナ朝を設立。一代限りであり、しかも古代北インド最後の統一王朝となった。629年8月、このヴァルダナ朝に足を運んで仏教の勉強をしようとしたのが、下記の記事に書いた、『玄奘(げんじょう)』である。『西遊記』のモデルとなる物語がここにあったのだ。

 

『西遊記』がなければ『ドラゴンボール』はない!『唐』にはあの話のモデルとなる人物がいた!

 

そのヴァルダナ朝が滅亡した後は、300年間ほどインドは分裂状態に入る。幾多もの王朝が興亡、抗争し、『春秋戦国時代』や『五胡十六国時代』のような時間が流れた。

 

五胡十六国時代

五代十国時代(907年 – 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代。

 

中国史上唯一の女帝『則天武后』と、世界三大美女『楊貴妃』がいた『唐』の盛衰

夏→殷→周が滅び不安定となる。そして中国の覇権争い『春秋戦国時代』が始まった

 

 

イスラム勢力の参入

そこにイスラム勢力が参入。10世紀~11世紀にガズナ朝、12世紀にゴール朝と、北インドにイスラム勢力が流入してくる。もともと、東西に拡大を続けるイスラム勢力は、8世紀のウマイヤ朝のときにインドにも侵攻を開始していた。

 

中東で『アラブ帝国』と『イスラム帝国』が誕生!この世界にまた一つ大きなエネルギーが芽生える

 

 

インド初のイスラム王朝『奴隷王朝』

そして13世紀になると、インドで初めてのイスラム王朝ができる。『奴隷王朝』である。元トルコ人奴隷のクトゥブッディーン・アイバクが建国したので、そう呼ばれているが、正式には『デリー・スルタン諸王朝』。デリーを中心に北インドを支配した。彼は最初のスルタン(在位1206年6月27日 – 1210年)である。

 

スルタン

君主。

 

[デリー・スルターン第1王朝の位置]

 

ムガル帝国

その後、インドではさらに幾多ものイスラム国家の興亡があった。そして、その中で最も強大なものになったのが『ムガル帝国』だった。ムガル帝国の初代皇帝はバーブル(在位:1526年 – 1530年)だ。彼は下記の記事に書いた、『ビザンツ帝国…を滅ぼすオスマン帝国…を滅ぼすティムール帝国』の末裔だった。奴隷王朝最後のロディー朝を打ち破り、インドにムガル帝国を建国したのだ。

 

ムガル

モンゴルのこと。バーブルがモンゴル人の地を引いているので、この国のニックネームがムガルとなった。

1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国、ビザンツ帝国)』を終わらせた『オスマン帝国』の盛衰

 

母方はチンギス・ハーンの次男チャガタイに連なる。ウズベク族のシャイバーニー朝に敗れ、アフガニスタンへ逃れる。カーブルで皇帝を名乗るが、故郷への帰還が無理と悟ると、インド征服に切り替えた。1526年、ロディー朝と『パーニーパットの戦い』、更に翌年のメワール王国との『ハーヌアーの戦い』で勝利し、アフガン諸勢力の侵攻を撃退し、北インドを支配。最盛期にはインド亜大陸全域からアフガニスタンにまでおよぶ広大な地域を版図に収めた。

 

[第一次パーニーパットの戦い]

 

イスラム教VSインド宗教(ヒンズー、仏教)

では、宗教面はどうなっただろうか。見てきたように、インドにはヒンズー教と仏教があった。更に詳しいことは宗教編の記事で書いたが、例えば要点は以下のとおりである。

 

STEP.1
紀元前2500年頃
インダス文明とともに民間宗教が生まれる。
STEP.2
紀元前1500年頃
アーリア人が入ってきて、ヴェーダ教と融合。
STEP.3
インダスの在来宗教と融合
南部インドのドラビダ教とも融合。
STEP.3
紀元前1000年頃バラモン教が誕生
STEP.3
後にヒンズー教が誕生する

破壊神が人気なのは『ドラゴンボール』だけ?インド神話で最も人気がある神とは!?

 

そしてブッダの登場で仏教ができ、アショーカ王やカニシカ王等がそれを広めたわけだ。しかし、イスラム勢力がインドにやってきて、こうしてムガル帝国がついにインドを支配。すると、『イスラム教VSインド宗教(ヒンズー、仏教)』という図式が浮上してしまう。ただ、仏教は一時はインドの国教になるくらいインドで影響力を持った宗教だが、この時はほとんどヒンズー教がメインとなっていた。

 

 

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