ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- アクバルは何をした人?
- タージ・マハルは何のために作ったの?
- ムガル帝国はなぜ滅亡したの?
- インド大反乱の原因は?
1.ムガル帝国内で宗教面の融和を図り、イスラムがヒンズーを支配するという形をとらなかった人です。
2.ムガル帝国5代目皇帝のシャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの為に作ったお墓です。
3.インドの人口の9割を占めるヒンズー教徒を圧迫して反乱が起き、イギリスの支配を受けて滅亡しました。
4.兼ねてからイギリスの支配にうんざりしていて、東インド会社がインド人を冒とくして爆発した形です。
ハニワくん
博士
ムガル帝国3代目皇帝のアクバルは『インド史上最高の名君』と言われました。
イスラムがヒンズーを支配するという形をとらず、ムガル帝国がすべての人々の長で、人々の共生を保障する存在であることを強調しました。しかし、5代目皇帝のシャー・ジャハーンあたりから雲行きが怪しくなってきます。彼は愛妃ムムターズ・マハルを愛したのはいいのですが、彼女の為にタージ・マハルという巨大な墓を作り、国のお金を消費します。世界の歴史を見ても、国が破綻する前に必ずこうした『王の浪費』があるのです。
6代目のアウラングゼーブの時には、確かに領土は最大版図を迎えましたが、父親の時代からすでに斜陽を迎えていたのです。彼は強硬手段によってヒンズー教徒を圧迫し、インドの人口の9割を占めるヒンズー教徒が反乱を起こしてしまいます。同時に、この時期イギリスやフランスがインドの植民地化を狙って進出してきていて、ムガル帝国は窮地に追い込まれるのです。
当時のインド支配を担当したイギリスの『東インド会社』は税収を確保するためにインド人を更に圧迫。そして、インド人傭兵が要求されたある事実でついに不満が爆発。銃に弾を込めるときに『薬莢(やっきょう)』という包み紙を歯で噛み切る必要があるのですが、そのときの潤滑のために豚や牛の脂が使われていて、それがインド人の心を逆なでしてしまい、全インドを巻き込む『インド大反乱』に発展してしまいました。豚は、イスラム教では軽蔑視していて、ヒンズー教では神聖なものだったのです。
しかし2年後にはイギリスが鎮圧。これによってイギリスは、
もう我々が直接やるか。
と言わんばかりに、支配下にあった、
- 東インド会社
- ムガル帝国
といった中間的な存在を廃止、滅亡させ、ヴィクトリア女王を皇帝とする『インド帝国』を打ち立てました。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
ムガル帝国の盛衰
『ムガル帝国』『インド帝国』
アレクサンドロスの影響でインドが結束!その後『奴隷王朝、ムガル帝国』とイスラム勢力が流入し、宗教問題に発展
上記の記事の続きだ。インドにイスラム系のムガル帝国ができたのはいいが、宗教問題をどうにかする必要があった。
『インド史上最高の名君』3代目皇帝アクバル
そこで3代目皇帝のアクバルは、宗教面の融和を図る。ヒンズー教徒の女性を妻とし、イスラム世界で慣習となっている『異教徒へのジズヤ(人頭税)』を廃止し、イスラム教徒ヒンズー教との税制の平等を実現したのだ。アクバルは、イスラムがヒンズーを支配するという形をとらなかったのである。様々な精神面の多様性を認め、ムガル帝国がすべての人々の長で、人々の共生を保障する存在であることを強調した。
[アクバル]
アクバルの政策
- 宗教の多様性を認める
- 戦争での捕虜を奴隷にすることを禁止
- ヒンズーの聖地巡礼税と人頭税(ジズヤ)の廃止
- 幼児婚やサティー(寡婦の殉死)の禁止
- 寡婦の再婚奨励
彼の存在によってインドは長らく安穏とした日々が続いた。彼は『インド史上最高の名君』と言われるようになった。
ちなみに、中国歴代最高の名君は『康熙帝(こうきてい)(1661~1722年)』である。
中国歴代最高の名君『康熙帝(こうきてい)』ら『3帝』が活躍した『清』
5代目皇帝シャー・ジャハーンと『タージ・マハル』
だが、5代目皇帝のシャー・ジャハーンあたりから雲行きが怪しくなってくる。彼の時代は、ムガル帝国の最盛期でもあり、同時に斜陽の始まりでもあった。折れ線グラフで言えば『ピーク』だ。そこからは徐々に下り坂になるわけである。彼は善い人なんだか悪い人なんだかよくわからない。少なくとも、アクバルよりは悪いだろう。そして実際にアクバルと一時対立関係にあった。
[シャー・ジャハーン]
彼は、4代目皇帝で父親のジャハーンギールが死んだ後、帝位継承の可能性がある王家の男児すべてを殺害し、あるいは盲目にした。そして1628年、用意周到に計画したその禍々しい野心と共に5代目ムガル帝国の皇帝に即位する。彼の時代は確かに帝国の黄金期にあり、また、
- 新首都デリーの建設
- アグラ城の増改築
- タージ・マハルの建築
を手掛けた。このタージ・マハルは、彼の愛妃ムムターズ・マハルの墓でもあり、その建築には18年とか22年の歳月が使われた。彼が彼女を愛した結果が、タージ・マハルなのだ。そこにあるのは彼の優しさ。しかし、彼のやってきたこと、やっていることは特権の乱用であり、越権行為にも近いものがあった。
ちょうど同じころのフランスには、20年の時間をかけてヴェルサイユ宮殿を造営し、1682年、宮廷をパリから移した『ルイ14世』がいた。彼も『太陽王』にふさわしい華やかな人生を送ったが、晩年は奢侈(しゃし)や戦費がかさんで国庫は激減し、衰退していった。
彼も然り、そのあとに続くルイ16世やマリー・アントワネット然り、経済的余裕もないのにアロー戦争で廃墟同然となってしまっていた『頤和園(いわえん)』の修築命令を出した『西太后(せいたいごう・慈禧太后(じきたいこう)』然り、ピラミッド然り、我々が現在目を丸くして驚かされる豪華絢爛な建築物の背景にあるのは、『権力者の特権の乱用』と、『それに使われた人々の理不尽な労苦』なのであった。
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1657年、病床についたシャー・ジャハーンは、長子ダーラー・シコーを後継者にしようとするが、後継者争いが勃発。結果、第3子であるアウラングゼーブがそれを勝ち取り、シャー・ジャハーンは息子であるアウラングゼーブに幽閉されてしまった。彼はなんと、兄弟3人を直接的・間接的に殺害し、父を感心したのだ。父親譲りの凶暴さを持っていたのである。シャー・ジャハーンは、息子と対立する形でこの世を去り、タージ・マハルで妻の棺の隣にその棺が置かれたのであった。
シャー・ジャハーンの時代から、すでにアクバルの政策とはズレが生じてきていた。最初はアクバルの時代の様に、多様性を重視した融和対策が取られていたが、次第にイスラム教スンナ派の正統派神学者たちの影響に支配され、その体制を維持できなくなってきた。彼もアクバルのように妻をヒンズー教徒を選んだりすることはなく、ヒンズー教徒はインドで肩身の狭い思いをするようになっていた。
6代目皇帝アウラングゼーブの『最盛期と斜陽』
[アウラングゼーブ]
5代目シャー・ジャハーンのヒンズー教への態度
- 寺院や神像の破壊
- 男の捕虜で改宗を拒んだら死刑
- 女の捕虜で改宗を拒んだら強制改宗させ奴隷としてハーレムに送り込む
そしてそれは、息子である6代目のアウラングゼーブの時にピークを迎える。確かに領土は最大版図を迎えるが、父親の時代からすでに斜陽を迎えていたのだ。
6代目アウラングゼーブの政策
- 人頭税(ジズヤ)復活
- 異教徒追放
- スンナ派を尊重
アウラングゼーブのこうした強硬手段によって、インドの人口の9割を占めるヒンズー教徒が反乱を起こした。同時に、この時期イギリスやフランスがインドの植民地化を狙って進出してきていて、ムガル帝国は窮地に追い込まれることになるのだ。
イギリスの植民地政策
ここで、この時代までのヨーロッパの覇権を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
この時、世界はイギリスの覇権にあった。そしてイギリスのライバルはフランスだ。インドもその手の内に入っていくことになる。
各列強のインドの植民地
イギリス | ポンポイ、カルカッタ |
フランス | シャンデルナゴル、ポンディシェリ |
香料などを求めてアジアへ進出していたヨーロッパだが、インドをめぐっては、イギリスとフランスで対立が勃発。しかし、『プラッシーの戦い』等でイギリスが勝利し、フランスをインドから追いやっていた。イギリスはムガル帝国のこの衰退期を狙って現地勢力と戦争し、支配地域を徐々に増やしていった。そして1756年にはベンガル地方などの徴税権を獲得。1850年にインドのほぼ全域を直接支配し、藩王国を通じての間接支配下に置く。
イギリスが植民地統治していた時代のインド(現在のインド・パキスタン・バングラデシュ、およびミャンマーを含むインド帝国)において、イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた藩王の領国のことである。ネパール王国とブータン王国はそれぞれグルカ戦争とブータン戦争の結果イギリスの保護国とはなったものの、藩王国としては扱われていない。
[1909年当時のイギリス領インド帝国。イギリスによる直接統治下に置かれた地域はピンク、藩王国、保護国は黄色で示されている。]
東インド会社と『インド大反乱』
この時、ムガル帝国はもはや名目上の存在でしかなかった。これらのインド支配を担当したのは『東インド会社』だ。下記の記事に書いたように、当時イギリスから『産業革命』が始まっていて、機械織り面布が大量にインドに流入。インドには伝統的な手織りの綿織物工業があったが、これによって衰退。そして、東インド会社は税収を確保するため、昔ながらの地主層に土地著有権を与え、納税の義務を負わせる『サミンダーリー制』を敷いて財源の確保を狙った。
イギリスを『世界の工場』にした3つの革命『農業・エネルギー・産業』革命とは
しかし、そうしたイギリス支配にインド人が不満を覚え、1857年、東インド会社が雇っていたインド人傭兵(シパーヒー)が暴動を起こし、それが全インドを巻き込む『インド大反乱』に発展。発端は『豚の肉』。銃に弾を込めるときに『薬莢(やっきょう)』という包み紙を歯で噛み切る必要があるのだが、そのときの潤滑のために豚や牛の脂が使われていて、それがインド人の心を逆なでしてしまった。
[インド大反乱]
豚は、イスラム教では軽蔑視していて、ヒンズー教では神聖なものだった。どちらにせよその豚の油を口に入れるということは、彼らにとって耐えがたい。そうしてインド全域で反乱が起こってしまったのだ。
インド帝国の誕生
しかし、2年後にはイギリスが鎮圧。これによってイギリスは、
もう我々が直接やるか。
と言わんばかりに、
- 東インド会社
- ムガル帝国
といった、言わば緩衝材とも、指揮・伝達の弊害とも言えるそれらの中間的な存在を廃止、滅亡させ、ヴィクトリア女王を皇帝とする『インド帝国』を打ち立てることを計画。そしてベンジャミン・ディズレーリが筆頭となり、その『インド帝国の樹立』を成功させ、ヴィクトリア女王は初代インド皇帝(女帝)(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)となったのである。
[ヴィクトリア女王 1887年]
ヴィクトリア女王は2人いた?『大英帝国』黄金期の象徴が持つ真の姿とは
中田敦彦のyoutube大学
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までのインド史をまとめた人気動画があります。
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